Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

安居天満宮(2011年12月17日参拝)

2011-12-23 | 神社
所在地:大阪府大阪市天王寺区逢阪1-3-24
主祭神:少彦名神、菅原道真(天慶5年(942年)から)
創建:不詳


国道25号線を走っていると一心寺の向かい側に、
「安居天満宮 真田幸村戦死の地」の看板が見えたので行ってみることに。





真田幸村の名を見て歴史好きなら無視出来ませんよ。(^^

真田幸村といえば大坂夏の陣で家康生涯最大の危機とまで言われるほど、
家康をあと一歩のところまで追い詰めた真田日本一の兵(つわもの)と評された男。

しかも冬の陣の後に家康から信濃10万石を提示され味方につくように誘いを受けたが、
「士たるものの変心は義あらず」と蹴っていた義の武将。

熱くなります。


【由緒】
少彦名神社神を奉祀したのは古文書が散逸したので、
現在は詳かではないが非常に古い時代の事であると伝えられている。

この神は医薬禁厭(医術・薬方・まじない)智慧の祖神として、
その霊験はまことにあらたかな神である。

菅原道真公の奉祀は公筑紫へ左遷される途上海上浪荒く、
暫くこの地に立寄って憩われた旧蹟である所以を畏み、
後40年を経た天慶五年此処にその御神霊をお祀りしたと伝えられている。

菅公の御神徳は誠の権化であり又学問化の神として人々を守護し導き給うのである。
当神社の御神徳を厚く蒙った人々は昔から多く、
中でも大丸の業祖下村彦右衛門氏は大きな御加護を頂いて繁栄されたことは有名である。



【真田幸村戦死跡碑と真田幸村像】


ここで真田幸村という稀代の武将が戦死したかと思うとくるものがありますね。


【拝殿】








綺麗な拝殿です。


【本殿】



【玉姫稲荷神社】



【金山彦神社】


摂社。


【御朱印】




今日は一心寺には行きません。
何故ならこの寺は遊びで行く寺ではないからです。

強い気持ちを持っていかないと負けてしまいます。
こういう気持ちになるお寺は一心寺だけです。

四天王寺(2011年12月17日参拝)

2011-12-22 | 西国薬師四十九霊場
四天王寺は近くに行くとつい寄ってしまうお寺です。


http://blog.goo.ne.jp/05100625/e/584f5c24e7bbff4f74ddb8090cf839e3

四天王寺は以前、1/29参拝時に御紹介しましたので、
今回は参拝しました六時礼讃堂と大黒堂のみ写真を軽く撮りました。



【六時礼讃堂】


重要文化財。

昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名があり、
四天王寺中心のお堂になります。

薬師如来・四天王像が祀られています。





【大黒堂】




御本尊は一体の像に大黒天、毘沙門天、弁才天の顔を持つ三面大黒天です。




御朱印の墨書きが本当に達筆です。
思わず達筆ですね!と書いてくださった方に言ってしまった。(^^

敏馬神社(2011年12月10日参拝)

2011-12-21 | 神社
所在地:兵庫県神戸市灘区岩屋中町4-1-8
主祭神:素盞嗚尊
配祀:天照皇大神・熊野坐神
社格:式内社(小)・県社
創建:神功皇后元年


敏馬は「みぬめ」と読み美奴売、三犬女、見宿女等の文字で
書かれることもあったそうです。



【鳥居】



【閼伽井】



【石段】



【拝殿】



【境内社】













【稲荷神社】



【御朱印】

本住吉神社(2011年12月10日参拝)

2011-12-18 | 神社
所在地:兵庫県神戸市東灘区住吉宮町7丁目1-2
主祭神:底筒男命
配祀神:中筒男神、表筒男神、神功皇后、天児屋根命、大山津見命
社格:県社


【由緒】
神功皇后が御鎮祭になったと伝えられている。
即ち「日本書紀」巻九に『「摂政元年」皇后海路よりして京にいでます。
時に皇后忍熊王師を起して待てりと聞しめして武内宿禰にみことおおせて、
皇子を懐きて、横しまに南海より出でて紀伊の水門に泊らしむ。
皇后のみ船、直に難波を指す。(中略)表筒男・中筒男・底筒男、三はしらの神、
おしえまつりてのたまわく、「吾が和魂をば大津の淳中倉の長峡に居さしむべし。
すなわち因りて往きかよう船をみそなわさん」とのたまう。
是に「神の教のまにまに鎮めすえまつる。則ち平らかに海を渡ることを得たまう。」』
とある。(中略)としたところには、広田神社・生田神社・長田神社御鎮祭についてのことが述べられており、
当時の(大阪)湾西部北岸に四社が祀られたものであろう。

当社の社名「本住吉」は、本居宣長翁が『古事記伝』(1798)の中で、
「大津渟中倉長峡は菟原郡の住吉である」と説かれたはるか以前の
貞永2年(1233)の文書にも既に書かれているから、
大阪住吉大社の本(もと)の神社の意で「本住吉」と往昔より
称せられていたものと思われる。


【鳥居】


阪神大震災で倒壊後に再建されました。

こちらの神社も大きな損害を受けましたね。


【拝殿】


昭和27年新築、改築、改造を経ましたが大震災で大きく損壊、
平成18年大改築し12月15日完工。


【塞神社、大海社】



【大日社】



【綜合末社】



【稲荷社】



【猿田彦社、大山社】



【水神社】



【末社】



【御朱印】

熊谷山 法然寺(2011年11月30日参拝)

2011-12-17 | 法然上人二十五霊跡
天龍寺と清涼寺の間に法然寺という寺がある。

法然寺は平安末期、建久8年(西暦1197年)に源氏の武将、
熊谷次郎直実が法然上人の弟子となって出家した後に、
両親の菩提を弔う為に作ったお寺です。

ここは観光寺院ではないのでひっそりとしています。



所在地 京都府京都市右京区嵯峨天竜寺立石町1
宗派 浄土宗
本尊 法然上人自作尊像
創建年 建久8年(1197年)5月
開基 蓮生、法然(開山)
札所等 法然上人二十五霊跡 第十九番


【歴史】
法然寺は京都市内の四条烏丸の北の元法然寺町にありました。
その後の法然寺は正応年間(1289-1292)にはご病気であった伏見天皇からの
手厚い加護を受け続いて後奈良、正親町天皇の勅願寺となる。
その間には足利義政や豊臣秀吉からの扶助も受け徳川幕府から
三百石と御朱印を拝した。

その後、京都市内を転々とし四条寺町下るから嵯峨の地には
三十年前に転居してきたので嵯峨の地と法然寺を結び付るものはない。


【蓮生】
戦国の武将熊谷次郎直実は十六歳の平敦盛を戦いで殺した事は有名です。
それだけでなく武将としての歴史に残る戦いにも大きな手柄を幾つもあげました。
しかし武士にあるまじき味方を裏切ったり敵と内通したりした事もあり、
その人生は波乱万丈でした。

その自分の人生に怒りを覚え自決する決心をして世に聞く高僧である
法然上人に見届けて頂き極楽への旅路を希望し、
この時初めて法然上人にお出遭いし法然上人より、
どんな罪人でも阿弥陀さんを信じたら誰でも極楽往生が出来る、
仏教の慈悲に初めて触れ周囲の反対にもかかわらず出家をします。

出家後は蓮生房と言うお坊さんの名前に変え、
まず敦盛の供養を高野山でして京都に滞在しながら世の為,人の為、
自分の全ての財産を使い学校や橋や道や沢山の寺院も作り大きな功績を残した。


【山門】



【本堂】




小さなお寺です。

本堂が開いてなくて残念。

仕方なく外から拝んで御朱印を寺の奥様にお願いしたところ、
本堂を開けて中へ入れていただきました。

こちらは御朱印をお願いすると本堂へ入れてもらえるみたいです。

残念なら法然上人自作尊像は修理中でした。
京都府の補助がありながら修理代は550万かかるそうです。

修理代って本当にお金がかかるもんなんですね。(^^;


御本尊は拝めませんでしたが、
お寺はやっぱり本堂にあがりたいので嬉しかったです。


【御朱印】