Gomaler's~神社仏閣巡り~癒しを求めて

主に関西の神社仏閣巡りと御朱印集めが趣味です。

四天王寺(2011年1月29日参拝)

2011-02-06 | 聖徳太子御遺跡霊場
四天王寺は大阪市天王寺区にある寺院。
聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
山号は荒陵山、本尊は救世観音菩薩である。
「金光明四天王大護国寺」ともいう。

日本書紀によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始され、
蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては
最古のものである。(Wikipediaより)





【大黒堂】


本尊は一体の像に大黒天、毘沙門天、弁才天の顔を持つ「三面大黒天」です。


【元三大師堂】




重文。
元三大師をお祀りすることからこの名が付けられたお堂で、
元和4年(1618年)の建立です。

元三慈恵大師良源は第18代天台座主であり、叡山中興の祖といわれています。
また、おみくじの創始者でもあります。

現在は元三大師、弘法大師、文殊菩薩、普賢菩薩、如意輪観世音菩薩、
不動明王を安置しています。


【北鐘堂】


正式には黄鐘楼といい北の引導鐘(ひとつ鐘)・鐘つき堂とも呼ばれ、
このお堂の鐘の音は遠く極楽までも響くといわれ、
先祖供養のための鐘の音が絶えません。

この日も中でお坊さんが供養の為にお経を唱えられていました。


【見真堂】




浄土真宗の祖である親鸞聖人を顕彰し建立されたお堂です。
本尊を阿彌陀如来とし向かって右に聖徳太子像、左に六字名号の掛け軸が祀ってあります。
露座の親鸞聖人(見真大師)の御像は、堂横に安置されています。


【布袋堂】


俗に、乳のおんばさんのお堂と呼ばれ、子どもさんが健康に育つように、
お乳がよく出ますようにとの願いをお持ちの女性がよくお参りされます。


【阿弥陀堂】


昭和28年に三重県国束寺(四天王寺末寺)本堂を移築したものです。


【西大門】







【亀井堂】




亀井堂は戦火で焼失後、昭和30年に再建されました。
亀井堂の霊水は金堂の地下より、湧きいずる白石玉出の水であり、
回向(供養)を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うといわれています。


【亀井不動尊】




聖徳太子が亀井の水を覗かれるとそこに不動明王(尊)の御姿が映っていたため、
ここに不動尊を祀られたのが起源とされます。
近畿三十六不動尊第一番の霊場。


【太子殿猫の門】


【聖霊院】








聖徳太子をお祀りしているお堂。
前殿には十六歳像・太子二歳像・四天王が奥殿には太子四十九歳像が祀られています。

奥殿基壇内(地下)にはご信者さんにより永代奉安された太子観音像[極楽・水子・
施薬・知恵・厄除・子育の六観音]が安置されております。


【石舞台(重文)】


亀の池の上に架かっている石橋に組まれた舞台で、
毎年4月22日に聖徳太子を偲んで行われる聖霊会舞楽大法要の際には、
古来よりの作法にのっとり舞台上で舞楽が舞われます。


【六時堂(重文)】


薬師如来・四天王等をお祀りしており、
回向(供養)、納骨等を行う中心道場でもあります。


【中門(仁王門)】



【金剛力士像】


中門は中心伽藍の南端、南大門の北に位置し、脇の間に伽藍の守護神である
金剛力士 (仁王像)をまつっていることから俗に仁王門 と呼ばれています。
東側が那羅延金剛力士、西側が密迹金剛力士で、
大仏師松久朋琳・宗琳両師の作であります。


【回廊と五重塔】







いや~とにかく広い。
広すぎて見所満載のお寺です。

まだ有料の中心伽藍に入ってないのに外だけでいろいろあり過ぎです。

中心伽藍に入る前に宝物館にて、
国宝・重要文化財・これに準ずる貴重な文化財を拝見しました。


【五重塔】






現在の塔は1959年(昭和34年)建立の八代目で中に入って登ることも可能。
中は鉄筋コンクリートで急な階段を登ると位牌ばかりでした。


【金堂】


聖徳太子のご本地仏である救世観音をお祀りし四方を四天王が守護しています。



五重塔、金堂、中門、西大門なと大きな建造物が多いですが、
先の大戦で失われ戦後建てられたので、
まだまだ建物からは何世紀と経た味わい深い味がないですね。

あの味わいが出るにはあと何世紀かかるんだろう?

そういう意味で第二次世界大戦で京都と奈良が、
よくぞ大規模な空襲を受けずに済んだなと。


http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2008/08/post_042c.html
こちら「Yagiken Web Site」のサイトを読んで本当に京都・奈良が無事で良かったと思う。


【抜粋】
実は京都は原爆投下の理想的目標であったそうだ。
来るべき原爆投下の威力や効果を正確に測るため、
無傷のままにしておく必要があった。

従って軍事上・戦略上の観点から通常の爆撃を禁止していただけであって、
文化財の多い古都を守る意図などアメリカには全くなかった。
むしろ日本人にとって特別な意味をもつ京都が被爆すれば
抗戦意欲が消失するだろうという読みさえあった。
広島、長崎のあと、さらに戦争が長引いていれば、
京都に3発目の原爆が投下されていたはずである。

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