戦国時代の梟雄・斎藤道三、別名マムシの道三の出身地は、いまの京都府乙訓郡大山崎町あたりといわれています。
司馬遼太郎『国盗り物語』は彼を主人公とする、美濃一国を盗み取る物語。山崎の油商人、若き松波庄九郎が知略でもって途方もない夢を叶える。五十歳ほどにして美濃国の戦国大名になり遂せる。数十年ぶりに『国盗り物語』を読み返してみたが、実におもしろい。
中世期、山崎は灯明・エゴマ油の独占製造販売権を朝廷と幕府から公認されていた。道三は油座の特権や財力を活かして、大きな目標に向かってひた走る。
山崎の油商人からこのような奇才が誕生したことは、実に興味深い。話は少し脱線しますが、山崎と大山崎への関心から、斎藤道三の若き日のことを小記してみようと思います。
彼の生年には二説あるそうですが、1500年の前後。幼名は峰丸といった。先祖は代々、御所に仕える北面の武士であったらしい。父の名は、松波左近将監基宗といった。だが何かの事情で父は浪人となり、大山崎辺りに移り住む。
少年峰丸は十一歳の春、京都の法華宗の寺・妙覚寺に入り法蓮房といった。しかし青年期に還俗し、松波庄九郎と称す。里に戻った彼は、燈油屋の奈良屋又兵衛の娘を妻とし、山崎屋と号して油商人となる。
燈油行商で美濃まで出向いていた庄九郎は、かつて寺にいたときの兄弟弟子・日運上人の推挙で美濃国重臣の長井氏、斎藤氏、そして守護職の土岐家に接近する。上人はいまの岐阜市、法華宗の常在寺住職であった。
庄九郎は謀略をめぐらせ、五十歳ほどにして、美濃一国を盗み取ってしまう。山崎の一介の油屋が、である。
庄九郎は新しいことを考えるのが好きであった。彼が美濃に行く前のこと、山崎屋の土間に、従業員の手代や油の売り子などを集めた。司馬遼太郎『国盗り物語』の有名な一節を紹介してみよう。
「こういうのはどうじゃ」
と、永楽銭一文をとりだした。
銭の真ン中に、四角い穴があいている。
庄九郎は、まずマスに油を満たしそれを壷にあけるかとみたが、
「さにあらず」
と、ニヤリとした。永楽銭をつまみ、その上からマスを傾けてたらたらと注ぎはじめたのである。銭の下に壷がおかれている。
「あっ」
とみなが声をのんだのは、マスからこぼれ落ちる油は、一すじの糸をなし、糸をなしつつすーっと永楽銭の穴に吸いこまれ、穴を抜けとおって下の受け壷に落ちてゆく。
銭は、ぴたりと庄九郎の二本の指で、空間に固定されている。
「さあさ、お客衆、ご覧じろ」
と、庄九郎は、ずらりと手代、売り子の群れを見まわした。おどろいたことに、庄九郎の両眼は、「お客衆」を見まわしているばかりでマスをもつ手や永楽銭をもつ手を監視しない。だのに油はマスから七彩の糸になって流れおち、永楽銭の穴に吸いこまれてゆく。
至芸である。
<2008年4月12日 南浦邦仁>
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