安永7年3月1778年、姫路を出立した姫路酒井藩2代目城主、酒井忠以の一行が三木町に途中立ち寄った。三木から有馬温泉までの「湯の山街道」は、豊臣秀吉が三木城戦のために整備した新道です。
「3月11日、三木町大庄屋十河与次太夫方に止宿。三木町の辺より別所小三郎か城跡をのそむ。」『玄武日記』
忠以は持病治癒のために、有馬温泉に向かう途中でした。
「もののふのまもりしあとはあれはてて何かすミれの花さきにけり」。「すミれ」はスミレ。
これまでに通り過ぎて行った時間のながれは、あまりにも速い。
河合寸翁、少年のころは名を猪之吉、そして16歳から隼之介、54歳からは道臣。どんどん変わっていきますが、ここでは隠居後の名「寸翁」で通します。
ところで藩主酒井忠以と河合寸翁とは、藩主と家臣、子弟でありかつ兄弟のような関係でした。寸翁が城主にはじめて謁見したのは安永6年1777年、11歳のときでした。若き藩主忠以は22歳。主君は少年に卓越した才能を、瞬時にして見出します。「超宗公材之教以諸芸」。忠以は寸翁に諸芸―和歌、茶道、絵画など。さらには政治経済などあらゆる教えを授けた。
忠以(宗雅)は茶を松平不昧校に師事。宗雅は大名茶では、国を代表する人物でした。忠以は、画は少年の弟、酒井抱一に指導した。酒井抱一は後に江戸琳派を大成する大家だが、兄忠以の絵画力も一流でした。
姫路藩家老の河合寸翁は、藩民にとって大恩人でした。膨大な藩の借財を完済し、殖産興業も目を見張るものがありました。木綿はじめ専売品を拡大しました。高砂染、東山焼、朝鮮人参、蝋燭、皮革、竜山石、絞油を増産。また飢饉や貧窮者に備えた固寧倉(こねいそう)を藩内に数多く造らせた。
さらには寸翁は菓子舗の伊勢屋を江戸に修行に行かせ、銘菓「玉椿」を作り上げさせた。また小料理屋を同じく江戸に行かせた。そして嘉永元年に鰻料理屋「森重」(もりじゅう)が誕生する。ともに現在も盛況です。
河合寸翁と別所家8代目小三郎とは、親密だったと考えられますが、両人にはなぜ深い繋がりがあったのでしょう。碑文ではふたりには何か縁があり、さまざまな土木工事に小三郎は寸翁の指示を得て、活躍しています。
兼田村では新田を開発している。また塩田では宇佐崎村の新浜開発に小三郎が当たっています。着手は文政11年1828年。
他の塩田開発をみると、彼が直接かかわったのではないようですが、木場村、大塩村、的形村三村の塩田も、ほぼ同時期に開発されました。天保9年1838年には4ヶ村の塩田で80万俵生産し、半分を江戸に船積するほどの生産量になりました。
運河は八家川の内陸湾/ひろみ広海から、継村経由で仁寿山下の山校に達する計画でしたが、残念ながら途中で中断しました。工事の開始は文政10年1827年。この計画も寸翁の指示で小三郎が進めていました。
<2025年3月1日>
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