ふろむ播州山麓

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若冲の謎 第8回 <天井画 前編>

2016-12-28 | Weblog
伏見深草の石峰寺は若冲五百羅漢で有名だが、同寺には明治初年まで観音堂があった。天井の格子間には若冲筆の彩色花卉(かき)図と款記(かんき)一枚、あわせておそらく百六十八枚が飾られていた。しかし明治七年から九年の間のいつか、廃仏毀釈の嵐のなか、寺は堂を破却し、格天井の絵はすべて売り払われてしまった。
 だが幸いなことに、それらは散逸することなく、京都東大路仁王門の浄土宗・信行寺の本堂天井にいまはある。同寺の檀家総代の井上氏が散逸を恐れ、一括して古美術商から買い取って寄進したのである。
 石峰寺の観音堂は失われてしまったが、元の位置は本堂の北方向、旧陸軍墓地、現在は京都市深草墓園になっている隣接地だった。
 
 若冲画「蔬菜図押絵貼屏風」(そさいずおしえはりびょうぶ)に付属した由緒書が残っている。それによると深草・石峰寺の観音堂が建立されたのは寛政十年(1798)夏、若冲八十三歳のときである。入寂の二年前にあたる。
 由緒書によると観音堂は大坂の富豪、葛野氏が建てた。その折りに、武内新蔵が観音堂の堂内の仏具や器のことごとくを喜捨した。感動した石峰寺僧若冲師が、この蔬菜図を描いて新蔵に与えた。「自分が常づね胸のうちに蓄えておいた<畸>(き)を描いたのだ」と若冲師は語ったという。表装せずに置かれていたこれらの絵は、新蔵の孫の嘉重によって屏風に仕立てられたと記されている。
 
 ところで「畸」なり「畸人」の語は当時、よく用いられたが、出典は『荘子』「第六大宗師篇」によるとされる。「子貢が曰く、敢て畸人を問ふ。曰く、畸人は人にして畸にして、しかして天にひとし」
 
 
<義仲寺と蝶夢>
 
 不思議なことに、若冲の天井画・花卉図はもうひとつの寺にもある。滋賀県大津市馬場の義仲寺(ぎちゅうじ)に現存する。同寺の翁堂の格天井を飾る十五枚である。
 義仲寺は名の通り、木曽義仲の墓で知られる。元禄のころ、松尾芭蕉がこの地と湖南のひとたちを愛し、庵を結んだ。大坂で没後、遺言によって芭蕉の遺体は義仲墓のすぐ横に埋葬された。又玄(ゆうげん)の句が有名である。
  木曾殿と背中合せの寒さかな
 
 翁堂は大典和尚の友人でもあった蝶夢和尚によって、明和七年(1770)に落成している。蝶夢は相国寺の東に位置する阿弥陀寺、帰白院住持を二十五歳からつとめたひとであるが、亡き芭蕉を慕うこと著しかった。芭蕉七十回忌法要に義仲寺を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。三十五歳のときに退隠し、京岡崎に五升庵を結ぶ。そして祖翁すなわち芭蕉の百回忌を無事盛大に成し遂げ、寛政七年(1795)、六十四歳でこの世を去った。ちなみに阿弥陀寺は相国寺の東、徒歩数分のところにある。
 なお五升庵には、若冲の号・斗米庵(とべいあん)と同じ響きがあるが、明和三年(1766)に蝶夢が寺を出る三十五歳のとき、伊賀上野の築山桐雨から芭蕉翁の真蹟短冊を贈られたことによる。
  春立や新年ふるき米五升
 
 斗米庵号は、宝暦十三年刊『売茶翁偈語』(ばいさおうげご/1763)に記載のある「我窮ヲ賑ス斗米傳へ来テ生計足ル」に依るのであろうか。若冲が尊敬し慕った売茶翁が糧食絶え困窮したことは再々あるが、この記述は寛保三年(1743)、双ヶ丘にささやかな茶舗庵を構えていたときのこと、友人の龜田窮楽が米銭を携え、翁の窮乏を救ったことによるようだ。当時の売茶翁は、茶無く飯無く、竹筒は空であった。
 
 大正四年(1915)十一月十五日、鴎外森林太郎は、史伝『北条霞亭』(かてい)を書く前、霞亭の師・皆川淇園の墓に詣でた。「寺町通今出川上る阿弥陀寺なる皆川淇園の墓を訪ふ」。蝶夢和尚の墓も同地にある。なお森鴎外は史伝『北条霞亭』の新聞連載のはじまった大正六年、陸軍軍医総監を退き、帝室博物館総長に就任する。九鬼隆一がかつてつとめた任であった。
 ちなみに淇園墓碑銘の撰・文は松浦静山が記した。彼は平戸藩主で、名著『甲子夜話』(かっしやわ)の著者である。書は膳所藩主の本多康禎。ふたりはともに淇園の門人である。淇園は度々、膳所の城を訪れているがその都度、蝶夢和尚の義仲寺に立ち寄った。義仲寺は城の手前、わずか徒歩十余分のところで、城も寺も旧東海道に面している。
 霞亭が淇園に師事したのは十八歳の時であるが、「年十八、笈(おい)を京師に負ひ、大典禅師に謁して教へを請ふ。禅師示すに一隅を以てし、後、淇園先生に就きて正す」。霞亭は淇園に先立って、まず大典和尚に師事したのである。淇園の細心な計らいであろうか。なお北条霞亭は、後に蝶夢の五升庵号を襲いだ俳人の柏原瓦全と親友であった。
 
 蝶夢和尚も十八世紀京都ルネッサンスの中心人物のひとりだった。天明四年二月二十六日(1784)から七日間、大典和尚と『近世畸人伝』の著者・伴蒿蹊(ばんこうけい)、俳人去何らと京摂間の花見に出かけている。句友だけでなく、交友の広い人物だった。
 また蝶夢が皆川淇園に送った手紙のことが、高木蒼梧と北田紫水の記述にある。淇園の俳句の添削や、人物照会にも丁寧に応え、春になれば淇園の奥方と一緒に風雅に出かけようと記している。正月二十五日に淇園に宛てた手紙だが、残念ながら何年の差し出しかは不明である。
 
 ところで江戸時代初期の仏師、円空の伝記は『近世畸人伝』にのみ記されているといってもよいほど、円空のことを書いた文書は少ない。同書の記述は伴蒿蹊の親友であった三熊花顛(みくまかてん)が天明八年春(1788)、大火の直後に飛騨高山に取材したものである。全国の俳諧仲間を尋ねて各地を巡った蝶夢だが、かつて飛騨高山の高弟・加藤歩蕭を訪れたときに、円空の事跡を聞いた。花顛はそれを受け、蝶夢和尚の紹介状を手に、この年の春秋二度、高山に取材し貴重な円空伝が残されたのである。あらためてこの時期、交流の重層濃密にして多士済々、百華繚乱の京を実感する。
 なお伴蒿蹊は『都名所圖會』を書いた秋里籬島の文章の師であった。『近世畸人伝』ともに両書は当時、大ベストセラーになった。名文である。
 
 
 義仲寺 翁堂
 
 
<翁堂天井画>
 
 話しが脱線してしまったが、蝶夢和尚が再興した近江大津馬場、義仲寺の若冲花卉図の謎を考えてみよう。
 これまで先達の見解は、義仲寺の若冲天井画十五枚はおおむね石峰寺観音堂から流出したものの片割れであろうとする。
 
 小林忠氏が義仲寺芭蕉堂天井にはじめて見出したのだが、若冲筆になる十五図の花卉図は伏見深草の石峰寺観音堂の散逸分かと思われる、と同氏は記述しておられる。
 辻惟雄氏は、芭蕉像を安置した翁堂の天井にも、酷似した様式の花卉図十五面が貼られていることを小林忠氏に教えられた。東山・信行寺同様に檀家の寄付したものである点を考え合すと、この十五面も、もと石峯寺観音堂天井画の一部であった可能性が強く、同じものの一部とほぼ推定される。ただ、円相の外側が板地のままで、群青(ぐんじょう)が施してない点が信行寺のものと異なるが、これは信行寺の方も当初は板地のままだったことを意味するものかもしれないとの判断である。
 狩野博幸氏は、信行寺の天井画と連れだったと思われるものが、大津市の芭蕉ゆかりで名高い義仲寺の翁堂の天井に十五面ある。信行寺の方は円形の外側は群青に塗ってあるが、義仲寺の方は円形のままであり、連れだったかどうか、いまひとつ確証がないと記しておられる。ちなみに画の円相の直径は、信行寺の方が一センチほど大きい。
 佐藤康宏氏は、信行寺の百六十八面と別れて、大津の義仲寺翁堂にも十五面が伝わるという。
 ただ土居次義氏は、幕末に大津本陣から移されたものではないかと言っておられる。幕府と朝廷の融和を図る公武合体策によって、孝明天皇の妹の和宮内親王は、婚約していた有栖川宮熾仁親王と引き離される。そして第十四代将軍徳川家茂に降嫁することになり、京から江戸に向かう。一泊目の宿が大津本陣であった。降嫁の最終決定は万延元年(1860)、建物の古かった大津本陣は建て替えが決まり、翌文久元年に完工し、和宮一行東下の宿泊所として利用された。
 土居氏は、旧本陣格天井にあった花卉図がこのときにはずされ、義仲寺に移されたのではないか。それが若冲画だったのではないか、と推察されている。
<2016年12月28日 南浦邦仁>
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