貴船鞍馬の花紀行のことは前回に書いたが、いちばん印象に残ったのは、岩間で可憐な紫花を開くスミレだったかもしれない。
ところでスミレといえば、川端康成『古都』を思う。京を舞台にした二十歳のヒロイン、千重子の物語だが「すみれ」がキーワードである。
先週、ひさしぶりに再読した。ところが、どの場面でもデジャビュが起きない。ずいぶん昔に読了したはずの本だが、実ははじめて読んだのかもしれない。驚いたことに、すでに読んだ本かどうか、さっぱり記憶も自信もない。物忘れのいいのはいくらか自慢だが、物覚えの悪いのには、いつも閉口してしまうわたしである。
小説『古都』の序章は「春の花」。千重子の家の庭には太いもみじ樹がある。木の上段のへこみ、そして一尺ほど離れた下の窪みに、二株のスミレが年ごとに咲く。出だしの文を引用してみよう。
もみじの古木の幹に、すみれの花がひらいたのを、千重子は見つけた。
「ああ、今年も咲いた。」と、千重子は春のやさしさに出会った。……
「上のすみれと下のすみれは、会うことがあるのかしら。おたがいに知っているのかしら。」と、思ってみたりする。すみれ花が「会う」とか「知る」とかは、どういうことなのか。……
自然の生命のいっせいにふくらむ春の日のなかに、このささやかなすみれを見ているのは、千重子だけであった。
『古都』は春のスミレ花にはじまり、「冬の花」と呼ばれる北山杉、台杉の山里に降る初雪に向かって帰る娘のうしろ姿で、この物語はおわる。一年の京を、大阪出身者とはいえ、あまり京都をご存じないはずの川端康成が、京言葉をたくみに駆使し、町と行事、季節の移ろいなどを、見事に描かれたことには驚嘆するほかない。
京言葉は、とくに女性が話すと実にここちよく響く。しかし文字に直そうと試みると、作業は実に至難の技である。
川端はなぜこのように難儀な京言葉を美しく表現できたのか、不思議だったのだが、やっと謎がとけた。彼はまず長編小説『京都の人』と『京都物語』を読んだ。著者はいずれも真下五一(ましもごいち)である。
真下は明治三十九年、京都に生まれた。小説家だが、京都研究、そして京ことば保存に情熱を傾けたひとである。彼の数多い作品中でも長編『京都の人』は異色である。会話部分だけでなく、全編すべてを京言葉で埋め尽くした小説である。
川端は真下について語っている。京言葉はもとより、京都の生活風習についても彼から教示を受けた。『古都』執筆のさいには、数度にわたって京と言葉の表現について、助言を求めた。
この小説を朝日新聞に連載中、川端は真下に話した。「京ことばの使い方が違うといって、方々から注意の手紙が新聞社を通してこんなに来ている。こわいようなことだ」
真下はこう記している。川端康成さんが『古都』を執筆中、京ことばには苦労されたものだ。ことばが間違っているという投書には「先生もずいぶん神経をいためていられた様子だった。京都のお隣の大阪弁を知っていられるだけに、かえっていっそう京ことばの純粋なニュアンスには苦労された」
川端が「古都」連載をおえたのは、昭和三十七年一月二十七日のことであったが、彼はその直後に突然倒れる。十日間の昏睡ののち、だいぶ日をおいて回復した彼は、『古都』単行本化のため大幅に書き直した。自身の作品に「あとがき」など書かなかった川端だが、連載の文章をこの本ではずいぶん直したので、その理由を書きそえるために、『古都』にはあえて「あとがき」を記したという。
「この本になって面目を一新しているのは京言葉である。京都のひとに頼んで直してもらった。会話の全体にわたって懇切丁寧な修正の加えられて来たのを見て、これは容易でない煩労をかけたと思ったが、第一の難点の京言葉が改まって、私は安心した。しかし私の好みで修正に従わなかったところもある」
会話文の訂正を助けた「京都のひと」とは、もちろん真下五一のことであろう。わたしたちがいま読む『古都』は、いうまでもなく川端の作品だが、真下の大きな助けをえて、輝きをいちだんと増した。
ところで『京都の人』は真下の異色作品の題名である。京都の友人なり、真下の名をあえて記さず、「京都のひと」としたのには、遠慮や気遣い、そして暖かいユーモアがあったのではないか。きっとふたりは、あとがきの記載をめぐってもやり取りしたことであろう。このことを、真下はどこにも書いていない。
あとがきからは、川端のやさしさや正直さなどとともに、こだわり、頑固な一面もちらりとみえる。ほほえましく感じた。
その後、真下は思った。活字だけでは京言葉を表現し尽くせない。この想いがつのり、生の声で京言葉を残す事業に熱意をかたむける。膨大な資金を必要とする、個人にとっては大事業であるが昭和五十年、彼はついにLPレコードを完成させる。日本コロンビア『京都 京ことばと古都の風物詩』。
このレコードは京都府立総合資料館にいまも一枚ある。しかし同館にはレコードプレイヤーがなく、また資料の貸し出しをしない。テープに落として聞かせていただきたいと過日、わたしは資料館に申し出た。数十年も昔、真下、川端両氏の想いのこもった声が聞けることを、こころから願っている。
川端先生は昭和四十七年、真下先生は昭和五十三年に鬼籍にはいられた。ともに七十を少し過ぎたばかりの歳である。
<2008年4月22日 花盛りのなか 南浦邦仁>
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