ふろむ播州山麓

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若冲 五百羅漢 №19 <若冲連載38>

2009-08-09 | Weblog
「筆形石碑」

 天保四年(一八三三)、石峰寺に若冲の遺言という筆塚が立てられた。天保元年に京都に大地震が起き、石像群も被害を受けた。多くは倒れ、崖から転落するものもあった。そして震災の三年後に、筆塚が若冲の墓のすぐ横に据えられたのであるが、謎が多い。幕末三筆のひとり、貫名海屋(ぬきなかいおく)の碑文、筆形石碑銘撰の一部を意訳する。
 「その心霊、その腕の妙は、仙爪の所に至る。ついに仏経中の諸変相を描き出し、よって宇宙の秘を開き発した。幻の技はここまでに至った。…遺言によって墓を筆形に造り銘を記す。いまも居士のなつかしさを忘れることが出来ない。悲しいかな。三年前に大地震が京の地を襲った。いたるところで崩れ砕けしたが、石峰石像の五百応真像も同様であった。天保四年にいたって、若冲居士の孫の清房が、修理復旧につとめた。そして私をして、それらの由を墓表に記させた。居士には孫があるのである。貫名海屋撰」
 若冲は妻を娶らなかった。子も孫もいなかった。清房は彼の次弟、白歳の孫とも、後に錦市場に店を構えた安井家からの養子ともいわれている。かつて平賀白山が若冲を訪ねたときに、妹と一人の子と同居していると記していたその子ではないかと推測する。筆塚建立の天保四年、清房は四十四歳。平賀白山が石峰寺に若冲を訪れたのは、清房五歳のときである。
 しかし若冲の立派な墓は既にあったであろう。なぜ遺言として彼の没後三十三年も経ってから、それも筆形にして再度、清房は墓を建てる必要があったのだろうか。
 ひとつには三十三回忌であろう。かつて「動植綵絵」の相国寺献納を終えたのも、ちょうど若冲の父の三十三回忌に合わせている。また絵は総数三十三枚であるが、観音三十三身、観音霊場三十三所にも、ちなむのであろうか。若冲は、三十三という数字にこだわった。
 それと筆者の勝手な想像をいえば、妹といわれていた心寂あるいは眞寂の筆型墓を、その子の清房が築いたのではなかろうか。彼女は若冲の妹であろうか。安井家の嫁か娘でもあろうか。
 眞寂と清房のことと、筆塚のことは、謎である。
<2009年8月9日 南浦邦仁>
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