無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「 #とと姉ちゃん反省会 」タグの怨念のような呟きを後目に、先週には「とと姉ちゃん」は過去最高の視聴率を記録したというニュースがあった。ちょうど私も先週「少しは評価を回復してきたか」と書いた所だったのでそういう潮目なのだろう。

勿論前に書いた通り、先週も相変わらず雑な演出と雑な脚本で、そこだけを取り上げたら「目も当てられない」状況であるし、第一、朝ドラの視聴率って評価が難しい。単純に「つまらなくなったら見なくなる」というものでもないからだ。

いちばん大きなファクターは「テレビ視聴習慣の様態」である。その時間、テレビをつけて一息つくのは決まっている。さぁどこのチャンネルにしようか、という時にどの番組もつまらない場合「じゃあNHKにでもしとくか」となるケースが少なからずある。更に、前の番組や次の番組との繋がりもある。これからの季節は高校野球という強い追い風も吹くのだ。なぜ国営放送が民間企業の宣伝番組を放送するのか未だにわからない(ABCテレビが放送する分には構わない)が、現実としてそうなっている。本来であれば、こんな放送をするのならインターハイ全競技全試合を放送するのが国営放送の素直な在り方だろう。何? 国営放送ではない? それは失礼しました。

…すまん、ちょっと腹が減ってるみたいだ。話を戻す。

「とと姉ちゃん」の視聴率が最高記録を出したのは、ひとまず内容のお陰であると仮定しよう。とすると、皆が見始めたのは単純に、いよいよ雑誌作りが始まって唐沢寿明が画面に多く出るようになったからだ。高畑充希も大変だ。あんな主役級と並ばなきゃいけないなんて。まだ鞠子(相楽樹)がうだつの上がらないキャラに成り下がってくれているのが救いか。

「 #とと姉ちゃん反省会 」タグでみられる脚本の粗を指摘する呟きの多くは的確である。先週指摘した通り、このドラマは真面目に見れば見るほどウンザリさせられていく性質を持っているので、ここに至っては最早怨恨に近いムードすら漂っている。冗談抜きで9月の末を迎えた後は脚本家の人襲われたりするんじゃないのというレベル。これではいけない。もう一度このドラマの楽しみ方を書いておこう。

・昨日までの事は忘れる。今日の話を明日まで覚えてちゃダメ。

・音楽が流れてきたらそれに耳を傾けよう。

・役者さんたちの芝居の巧みさに目をやろう。

・美男美女が出てくるのを見て楽しもう。

・コメディ・パートを待ち望もう。


これくらいかな。何より大事なのは、「暮しの手帖」の事を忘れる、これである。あんな質実剛健なつくりの雑誌とこの雑な演出・脚本のドラマが関係ある訳がない。「CASSHERN」だって、アニメの「人造人間キャシャーン」と較べてしまうから脚本が浅はかで支離滅裂にみえただけで、たまたま名前が同じになってしまった全く別の物語であると割り切らなければならない。そこさえ踏み越えてしまえば、貴方の憤りは大分薄れる。

何より、主題歌である。最近、15分のエンディングに流してくれないかなと思うようになった。どれだけ突っ込み所満載な脚本の15間を見せられても、あの歌を60秒も聴けば優しい気持ちになって「きっとスタッフの皆さんも頑張っていらっしゃるんだ」という心境になれる。歌の力は偉大だ。ごまかしているだけという気がしないでもないが、特に朝に視聴している方は1日のスタートがどんより雲からになってしまう訳で、別にごまかしといても構わないじゃないか。どこか後で時間が空いたら「 #とと姉ちゃん反省会 」タグを辿って溜飲を下げておく、と。それまでは『花束を君に』の色香に惑わされておきませう。

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そうか、今日で『FINAL DISTANCE』発売から15年か。向こうから15年後を眺めるのは大層難しかったが、なるほど、こんな風になってるのねぇ。未来への風景というのも興味深いもんだ。

この時のセッションでヒカルが痛感したのは、総合して言えば「曲が作曲者の意図を超えて育つ」という事実だろう。作曲は、最初に頭の中に浮かんだアイデアを忠実に現実の音にする事にとどまらない。作っていくうちに、向こうから何かを喰い破ってくるかのように、「生まれてくる」としか表現し得ない、強い存在を感じる事だと身を以て経験した。その最初…かどうかはわからないが、その記念碑的作品ではあるだろう。

翻って15年。『俺、こんな作品二度と作れねーよ。』という一言は、作品が自らの意図を大きく超えて育った、という事を意味しているようにみえる。他にも、母を亡くすのは一度きりで十分だから、とか(確かに)、同じ作風を繰り返す事はこれからもない、とかの解釈も可能だろうが、どちらかというと、“まぐれ当たり”を指して「お、俺今のもう一回やれって言われても無理だから! たまたま当たっただけだから!」と狼狽しているのに近いように思える。

でも、クリエイターはそれでいいのだ。人生は一度しかない。毎回そのまぐれ当たりに辿り着いた挙げ句に人生を終えれば、本人の実感とは別に、それがその人の実力としての評価になる。要は、まぐれ当たりをその都度捕まえて世に出すまでの苦労に耐えられるか、だ。それが出来る人だからここに居るのだ。

しかし、毎度まぐれを当ててばかりだと今度はそれが普通になってしまってまぐれでなくなっていく。そうなると更なる大きい当たりをどこかで見つけなくてはならなくなる。その時に、そこからより高い場所を目指すか、一旦下山して他の山を登り始めるか、悩みどころだ。今度のニューアルバムはその問いに対する答になっているだろう。

『FINAL DISTANCE』には、したがって、今はもう取り戻すべくもない初々しさがある。この完成度で初々しいもないと思うのだが、新鮮な驚きと、二度と来ないかもしれない瞬間を大事に大事に抱き締める幼けさが録音から漂ってくる。初披露のUnpluggedも見事だった。1回目と2回目、どっちのテイクだったか忘れちゃったけど。

33歳になった今でも「二度と」と言えるヒカルは恵まれている。しかし、恵みを齎したのはそうやって15年前から大事に大事に歌を歌ってきたヒカル自身だ。それをして孤独といわしめるのは簡単だが、最早今はそれを超えた所に居るのだろう。我々が答を知るまであと9週間。待ち遠しいの一言では言い表し切れない感情を抱えながら待つとしませうか。

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