わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

現代陶芸11(川喜田半泥子)

2012-01-08 22:53:56 | 現代陶芸と工芸家達
大いなる「素人(しろうと)」を自認する陶芸家に、川喜田半泥子(かわきたはんでいし)がいます。

本業は、百五銀行の頭取であり、実業家(三重合同電気会社社長)、政治家でも有ります。

「東の魯山人、西の半泥子」と称されます。本名は久太夫政令(きゅうだゆうまさのり)号は「半泥子」

の他に、「無茶法師」「其飯(そのまま)」等があります。

半泥子の趣味道楽は大変広汎に及び、書画、茶の湯、俳句、音曲、陶芸など数え切れない程です。

しかも、単に鑑賞するのみではなく、自らそれらを手がけ、実際に作ったりもしています。

特に陶芸に関しては、三十数年にわたり、数多くの作品を作り上げています。

1) 川喜田半泥子の経歴 1878(明治11)~1963(昭和38)年

  ① 大阪市東区本町に生まれた半泥子(幼名善太郎)は、15代続く伊勢の豪商の家に生まれます。

    1歳の時に、父と祖父に死に別れ、1歳で16代を相続します。

  ② 1901年、分家の川喜田四郎兵衛の長女と結婚し、1年後には百五銀行の取り締まり役に付きます。

    更に1919年には、百五銀行五代目頭取に、1945年には会長に就任します。

    注: 百五銀行 1878年12月、旧津藩(藤堂氏)の武士たちにより、国立銀行条例に基づく

      第百五国立銀行として設立し、三重県津市に本店を置く地方銀行です。

  ③ 川喜田家は膨大な蔵書や、茶道具の他、戦前の重要美術品を23点も所持していました。

    その為、幼少の頃から、美や芸術関係の目が養われていたと思われます。

2) 半泥子の陶芸
 
  ① 若年の頃から楽焼で作品を造っていた様ですが、大正14年に津市千歳山の邸内に「千歳窯」を

    築きます。最初は、小さな窯ですたが、1933年(昭和八年)には、本格的な登り窯を築きます。
    
    しかし、終戦と同時に、この邸宅も、米軍に接収され、同市広永に疎開し、「広永窯」として、

    再開します。生涯の約30数年を茶陶の製作に使い、膨大な数の作品と成ります。

  ② 半泥子の作陶は、道楽であっても、決して「お遊び」ではありませんでした。

    築窯、窯焚き、轆轤作業、絵付けなどを、自ら行い、陶芸に対して努力を重ねます。

  ③ 日本各地の窯場や、中国や朝鮮は基より、ヨーロッパ、アメリカ、カンボジア、ジャワ、

    バリ島など、世界各地を旅行し、焼き物の勉強を続けています。

  ④ 彼は自分の事を、「無茶法師(むちゃほうし)」「莫迦耶慮(ばかやろう)主人」「大愚庵主

    (だいぐあんじゅ)」等と称して、自分を低く見せる振る舞いをしますが、自由奔放に製作に

    没頭し、人に崇められる事を極端にきらいます。

    あくまでも、自分は「素人」としてみていた感があります。

  ⑤  公募展に出品せず。当時の工芸家は、官展である帝展や文展に応募し、賞を得る事により

    名声が上がり、作品も高値で販売されるのが一般的でした。しかし半泥子は、公募展には

    出品せず、自分の作品は人に貰われる事はあっても、販売する事は無かったそうです。

    主な作品は、茶陶である水指、茶入、茶碗類が多いです。

  ⑥ 但し、1937年(昭和12年)に無茶法師作陶展を東京で、1946年(昭和21年)には半泥子作陶展を

    大阪で開催しています。その他広永一門展を数度行っています。

  ⑦ 1955年、米軍が撤退後、接収されていた千歳山に邸宅を再興し、広永から移り住みます。

3) 半泥子の交友関係

   実業家でもありましたので、政財界の他、茶人や工芸家など多方面の人と、交友関係を結びます。

  ① 表千家の久田宗也が、毎月半泥子の元に、出稽古をしていたそうです。

    その関係もあり、作る作品も茶陶が多い様です。

  ② 1929年京都大丸で開催された、当時無名に近い、小山富士夫の個展の全出品を買い上げます。

    この縁で、小山との交友関係が発足します。

  ③ 1939年、金重陶陽(備前)、荒川豊蔵(志野)、三輪休雪(萩)と「からひねり会」を

    結成します。

半泥子は、本業があり、職業として陶芸を行う必要も無く、自由気ままに作陶出来た事は、羨ましい

限りだと思われます。

以下次回に続きます。
    
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