日本が初参加した、1873年のウィーン万国博覧会を参考に、初代内務卿の「大久保利通」が殖産興業の
為に、内国勧業博覧会を推し進めたと言われています。
これ以前にも、1871年(明治4)の京都博覧会、明治5年の文部省博物局が主催した、湯島聖堂の博覧会が
開かれています。名宝や珍品を集めて観覧させる「見世物」が主体で、出品物は必ずしも、殖産興業
を目的とはしていませんでした。
1) 内国勧業博覧会
① 明治十年(1877年)第一回内国勧業博覧会が東京上野公園を会場として開催されます。
開催期間:1877(明治10)年8月21日~11月30日場所:東京上野公園入場者数:454,168人
② 外回りの回廊型の本館の他、恒久施設として美術館を建て、その中心に噴水池を造り、
正門には大時計が取り付けられていました。
回廊型のパビリオンを中心とする会場構成は、以後の内国勧業博にも、踏襲されていきます。
③ 約10万平方メートルの会場には、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ、
全国から集められた出品物は、大きく6つの部(鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸)に
分類され、素材、製法、品質、調整、効用、価値、価格などの基準で審査が行われました。
優秀作には賞牌や褒状等が授与され、物品調査と産業奨励が同時に行われていたと言えます。
・ 全国の工芸家は、この博覧会が作品発表の場と成って、技を競う様に成ります。
第1回内国勧業博覧会は、日本の産業促進に大きな影響を与えます。
2) 国内の博覧会は以下の如く行われています。
1871年(明治4): 京都博覧会
1872年(明治5): 湯島聖堂博覧会
1877年(明治10): 第1回内国勧業博覧会 上野公園 入場者数:454,168人
① 1881年(明治14): 第2回内国勧業博覧会 上野公園 入場者数:823,094人
出品数は第1回の4倍にも増え、入場者数等も、第1回の内国勧業博覧会の規模を凌ぎ、明治天皇も
皇后と行幸し、熱心に観覧しました。
尚、第1回では出品物を府県別に陳列したが、第2回では出品者相互の競争心を煽ることを
目的として、種別に陳列します。また前回と同様の物の出品を禁じます。
② 1890年(明治23): 第3回内国勧業博覧会 上野公園 入場者数:1,023,693人
世界各国に招待状が送られ、外国人客の誘致に力を入れ、出展品の販路拡大をはかります。
不景気、インフルエンザの流行、連日の雨、帝国議会衆議院選挙などの影響から、全体の
入場者数は伸び悩んだ様です。
・ 建物全体の面積は、第2回の約1.3倍、出展品数は441,458点と増加します。
・ 東京電灯会社が会場内に、日本で初めての電車である、路面電車を走らせます。
・ 褒賞の審査の対象は、民業のみで、民業振興する意図が明確に出ています。
褒賞や審査の結果次第では、商品の売れ行きに大きな影響が出る為、出品者も力が入った様です。
尚、この博覧会は1888年からの意匠登録制度を認知促進する為に、政府は、出展物に限り
出願手数料と登録料を徴収しない事にしたので、出願数が急増します。
③ 1895年(明治28): 第4回内国勧業博覧会 京都市岡崎公園 入場者数:1,136,695人
博覧会開催が利益を産む事から、誘致活動が行われ、第4回の開催地は、東京遷都以降の低迷を
活性化したい京都に決まります。 会場の動力源は、それまでの石炭から電力に変わります。
・ 会場外の正式な交通機関として、日本初の市街電車が登場します。電力は疎水の水力発電で、
電力時代の幕開けを象徴するものでした。
・ この博覧会を期に道路や旅宿の整備が進み、京都の観光都市としての基礎が作られます。
④ 1903年(明治36): 第5回内国勧業博覧会 大阪市天王寺今宮 入場者数:4,350,693人
日清戦争(1894~95年)の勝利により、各企業が活発に市場を拡大していた事、鉄道網が日本全国に
整た事などがあり、敷地は前回の二倍余、会期も最長の153日間で、最後にして最大の
内国勧業博覧会となります。
会場には、将来の万博を意識して建てられた参考館は、それまで認められていなかった
諸外国の製品を陳列しており、英、独、米、仏、露など十数か国が出品します。
・ その中で新しい時代を強く印象付けたのは、アメリカ製の8台の自動車でした。
内国博覧会といえども、念願の万国博覧会に近づいていると言えよう。
⑤ 大阪市は莫大な経済効果を受け、博覧会は都市を活性化させる手段として重要視され、万国
博覧会の日本開催へ期待が高まり、1907年に予定された第6回を万国博覧会に、という声も
上がりますが、日露戦争後に財政難に陥ると、第6回は延期、ついには中止されてしまいます。
その後、府県による博覧会は開かれますが、国家的博覧会の日本での実現は、戦後、1970年の
大阪万博まで待つ事となります。
⑥ 大阪大会以降の、主な博覧会
1907年(明治40): 東京勧業博覧会 上野公園、1914年(大正3年): 東京大正博覧会、上野公園
1922年(大正11年): 平和記念東京博覧会 上野公園 などです。
明治大正の博覧会場は、主に東京か京都でしたが、大阪、名古屋、仙台などでの開催例もあります。
参考文献: 國雄行 『博覧会の時代 明治政府の博覧会政策』 岩田書院 2005
吉田光邦編 『図説万国博覧会史 1851-1942』 思文閣出版 1985
以下次回に続きます。
為に、内国勧業博覧会を推し進めたと言われています。
これ以前にも、1871年(明治4)の京都博覧会、明治5年の文部省博物局が主催した、湯島聖堂の博覧会が
開かれています。名宝や珍品を集めて観覧させる「見世物」が主体で、出品物は必ずしも、殖産興業
を目的とはしていませんでした。
1) 内国勧業博覧会
① 明治十年(1877年)第一回内国勧業博覧会が東京上野公園を会場として開催されます。
開催期間:1877(明治10)年8月21日~11月30日場所:東京上野公園入場者数:454,168人
② 外回りの回廊型の本館の他、恒久施設として美術館を建て、その中心に噴水池を造り、
正門には大時計が取り付けられていました。
回廊型のパビリオンを中心とする会場構成は、以後の内国勧業博にも、踏襲されていきます。
③ 約10万平方メートルの会場には、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ、
全国から集められた出品物は、大きく6つの部(鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸)に
分類され、素材、製法、品質、調整、効用、価値、価格などの基準で審査が行われました。
優秀作には賞牌や褒状等が授与され、物品調査と産業奨励が同時に行われていたと言えます。
・ 全国の工芸家は、この博覧会が作品発表の場と成って、技を競う様に成ります。
第1回内国勧業博覧会は、日本の産業促進に大きな影響を与えます。
2) 国内の博覧会は以下の如く行われています。
1871年(明治4): 京都博覧会
1872年(明治5): 湯島聖堂博覧会
1877年(明治10): 第1回内国勧業博覧会 上野公園 入場者数:454,168人
① 1881年(明治14): 第2回内国勧業博覧会 上野公園 入場者数:823,094人
出品数は第1回の4倍にも増え、入場者数等も、第1回の内国勧業博覧会の規模を凌ぎ、明治天皇も
皇后と行幸し、熱心に観覧しました。
尚、第1回では出品物を府県別に陳列したが、第2回では出品者相互の競争心を煽ることを
目的として、種別に陳列します。また前回と同様の物の出品を禁じます。
② 1890年(明治23): 第3回内国勧業博覧会 上野公園 入場者数:1,023,693人
世界各国に招待状が送られ、外国人客の誘致に力を入れ、出展品の販路拡大をはかります。
不景気、インフルエンザの流行、連日の雨、帝国議会衆議院選挙などの影響から、全体の
入場者数は伸び悩んだ様です。
・ 建物全体の面積は、第2回の約1.3倍、出展品数は441,458点と増加します。
・ 東京電灯会社が会場内に、日本で初めての電車である、路面電車を走らせます。
・ 褒賞の審査の対象は、民業のみで、民業振興する意図が明確に出ています。
褒賞や審査の結果次第では、商品の売れ行きに大きな影響が出る為、出品者も力が入った様です。
尚、この博覧会は1888年からの意匠登録制度を認知促進する為に、政府は、出展物に限り
出願手数料と登録料を徴収しない事にしたので、出願数が急増します。
③ 1895年(明治28): 第4回内国勧業博覧会 京都市岡崎公園 入場者数:1,136,695人
博覧会開催が利益を産む事から、誘致活動が行われ、第4回の開催地は、東京遷都以降の低迷を
活性化したい京都に決まります。 会場の動力源は、それまでの石炭から電力に変わります。
・ 会場外の正式な交通機関として、日本初の市街電車が登場します。電力は疎水の水力発電で、
電力時代の幕開けを象徴するものでした。
・ この博覧会を期に道路や旅宿の整備が進み、京都の観光都市としての基礎が作られます。
④ 1903年(明治36): 第5回内国勧業博覧会 大阪市天王寺今宮 入場者数:4,350,693人
日清戦争(1894~95年)の勝利により、各企業が活発に市場を拡大していた事、鉄道網が日本全国に
整た事などがあり、敷地は前回の二倍余、会期も最長の153日間で、最後にして最大の
内国勧業博覧会となります。
会場には、将来の万博を意識して建てられた参考館は、それまで認められていなかった
諸外国の製品を陳列しており、英、独、米、仏、露など十数か国が出品します。
・ その中で新しい時代を強く印象付けたのは、アメリカ製の8台の自動車でした。
内国博覧会といえども、念願の万国博覧会に近づいていると言えよう。
⑤ 大阪市は莫大な経済効果を受け、博覧会は都市を活性化させる手段として重要視され、万国
博覧会の日本開催へ期待が高まり、1907年に予定された第6回を万国博覧会に、という声も
上がりますが、日露戦争後に財政難に陥ると、第6回は延期、ついには中止されてしまいます。
その後、府県による博覧会は開かれますが、国家的博覧会の日本での実現は、戦後、1970年の
大阪万博まで待つ事となります。
⑥ 大阪大会以降の、主な博覧会
1907年(明治40): 東京勧業博覧会 上野公園、1914年(大正3年): 東京大正博覧会、上野公園
1922年(大正11年): 平和記念東京博覧会 上野公園 などです。
明治大正の博覧会場は、主に東京か京都でしたが、大阪、名古屋、仙台などでの開催例もあります。
参考文献: 國雄行 『博覧会の時代 明治政府の博覧会政策』 岩田書院 2005
吉田光邦編 『図説万国博覧会史 1851-1942』 思文閣出版 1985
以下次回に続きます。