わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

民藝 4(柳宗悦の思想1)

2011-09-02 21:30:22 | 陶芸四方山話 (民藝、盆栽鉢、その他)
日本民藝美術館設立趣意書の発端

1) 民藝の発見

  大正13年1月、柳宗は、山梨県甲府の池田村で、偶然木喰仏(もくじきぶつ)に出会います。

  ① 木喰は、甲府丸畑出の江戸後期の僧侶で、行道(明満)上人の事です。全国を行脚しながら、

    千体を超す木造の仏像を、刻んでいます。

    当時は、誰も素晴らしく価値ある仏像とは、思ってもいなかった物です。

    柳はこの像に、純粋の美しさを認め、江戸時代にこれ程の、天才彫刻家が居た事を、世に

    伝えます。

  ② 柳自身も、この木喰像を求めて、明満上人の足跡を追って、日本各地に行脚する事になります。

  ③ その旅の途中、各地で民衆が日常に使っている用具に、日本民族の美、即ち工芸美を発見します。

    「日常の実用品として、製作されたもの。何らの美の理論なくして、無心に作られたもの。

     貧しい農家や、片田舎の仕事場から生まれたもの。一言でいえば、極めて地方的な郷土的な

     民間的なもの。自然の中から、湧き上がる作為なき製品」と位置付け、これらの物を

     「民藝」と呼ぶ様になります。(大正13年12月28日の事)

  ④ 大正15年正月、柳は木喰仏との縁で知り合った、陶芸家の河井寛次郎、寛次郎の親友の

    濱田庄司の3人は、紀州への調査の帰路、高野山の宿坊「西禅院」で、一夜を共にし、

    「民藝」に付いて、語り明かします。蒐集した作品を展示する、美術館を設立する事になり、

    一夜の内に「日本民藝美術館設立趣意書」の草稿を、書き上げます。

    (尚、日本民藝美術館は、昭和11年10月24日に、大原孫三郎などの援助を受け、

     開館します。)

2) 陶磁器の美に付いて

  ① 柳の器の蒐集品の内で、陶磁器の作品が一番多いです。

    親交の有った、陶芸家が多かった為と考えられます。

  ② 「器は実際に用いる為の物であるが、真に良き器とは、同時に美しき器でなければいけない」

    「我々の生活により多く関っている陶磁器の美は、『親しさ』の美である」と説いています。

  ③ 陶磁器の美を形成する要素として、「形」や「素地(きじ)」、「釉薬」や「色」、「模様」

    「流れる線」「触致(しょくち)」を揚げ、それらの性質を通して、全体の「味」がつくられ、

    隠れた内なる味わいに成ると、述べています。

  ④ その器には、自然の背景や民族の心、時代の文化が反映しています。

3) 見ること(=直観)

  柳にとって、その存在価値は、見る事によって、決定されます。

  物の良し悪しは、その物を直に見る事から始まります。

  ① 「直観」とは、見る眼と見られる物との間に、一物も介さない事で、概念を後にして、先ず

    素直な心で自由に見る事です。更に、「直観」は即刻であると説きます。

    美しさへの理解は、この「直観」が是非とも必要だと、述べています。

4) 「茶道を想う」 柳と茶道

  茶道が生活の中で、美しい器物を活かそうとした事を、大いに評価しています。

  そして、人々に器物への関心を、呼び起こしたのは、茶道であると述べ、日本人の美的感覚を養い、

  「渋さ」と言う美の標準を作ってきた功績を、讃えます。

  「大名物」と称される井戸茶碗などは、朝鮮で作られた数多くの雑器で、飯茶碗や汁碗であり、

   室町時代の茶人達が、それら日常の民具から美を見出し、茶器として用いものです。

  更に、彼の関心は茶室を越えて広がってゆきます。

以下次回に続きます。
    
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