わ! かった陶芸 (明窓窯)

 作陶や技術的方法、疑問、質問など陶芸全般 
 特に電動轆轤技法、各種装飾方法、釉薬などについてお話します。

民藝 11 (富本健吉)

2011-09-09 22:40:30 | 陶芸四方山話 (民藝、盆栽鉢、その他)
富本健吉も、「日本民藝美術館設立趣意書」の発起人の一人です。

 富本 憲吉(とみもとけんきち 1886~ 1963年)奈良県生駒郡安堵町出身の陶芸家。

  1955年、「色絵磁器」で第1回の人間国宝になります。

 大正期の工芸界にあって、白磁、染付、色絵などの意匠、造形に意を注ぎ、特に色絵磁器に新境地を

 切り開きます。鮮やかな個性美を吹き込み、世界的評価を受けた陶芸家です。

 当時では、分業が一般的な陶磁器制の中、土の成形から焼成までの行程を自身で行い、自らの考えに

 基づいた白磁、色絵磁器などの器を制作します。

 独自の表現を模索する中で、「模様より模様を造るべからず」との信条を掲げ、数々の模様を

 創作します。

1) 年譜

  東京美術学校建築科卒業前に、ロンドンへ私費留学し、美術館や建築物を、見て周ります。

  1911年ロンドンから帰国後、当時来日していた陶芸家の、英国人のバーナード・リーチと出会い、

  陶芸に興味を持つようになり、1913年、故郷の裏庭に窯を築き、楽焼を焼き始めます。

  (リーチは陶芸に熱中しており、陶芸家の6世尾形乾山に学んでいました。)

  1914年、「青鞜」同人で「新しい女」として評判だった、尾竹一枝と結婚する。

  1915年、本格的な窯を築き、独学で創作に励み、多くの技術を自得するになります。

  バーナード・リーチや彼の友人の濱田庄司を通して、柳宗悦に出会い、彼のの思想に共感して、

  民藝運動に参加する様になります。

  (しかし後年、次第に民藝より距離を置き、独自の価値観による作陶を貫く様になります。)

  1917年に、「私は今年から出来得る限り、安価な何人の手にも日常の生活に使用出来る工芸品を、

  こさえたい」と発表する様になります。

  1926年からの約20年間は、東京都世田谷区上祖師谷に移り住んで制作し、同時に信楽(滋賀県)、

  波佐見(長崎県)、益子(栃木県)、品野(愛知県)など各地の窯場で、職人らと伴に日常的に

  使える量産品も制作しました。国内各地は無論、朝鮮まで陶磁器の研究のため旅しています。

  国内各地の窯業地に赴き、その地でつくられた既製の素地に、独自の模様を描いて、日常の生活に

  結びついた陶磁器の制作を、積極的に行います。

  その活動は窯業地における陶磁器生産にも、大きな影響を与えます。

  富本が「安い陶器」、あるいは「万民のための安価な陶器」と呼んだ、量産を目的に作られた

  日常の器を広く紹介します。

  1946年からは京都で活動を行う。

  京都では、自作による量産品に加え、「平安窯」や「富泉」の銘で富本のデザインによる日常食器の

  頒布会を行います。

  1949年京都市立美術大学教授。1955年、重要無形文化財技術指定保持者(人間国宝)となります。

  1961年には文化勲章を受章します。

2) 富本憲吉の作品

 ① 作陶では「模様から模様を作らず」という言葉を信念とし、写生に基ずく数々の優れた文様を

   創作し、それらを作品に描きました。

   作品は、白磁・染付・色絵・金銀彩などに代表され、極めて格調高い作品群が中心です。

 ② 京都に移って色絵に金銀彩を加えた華麗で、典雅な独自の作風を完成します。

  色絵に加えて金銀を同時に焼き付けるという技法(金銀彩)を完成させ、羊歯文様等による

  独自の作陶様式を確立した。 

  代表作に「色絵金彩羊歯文飾壺(しだもんかざりつぼ)」(京都国立近代美術館)があります。

  尚、郷里の奈良県生駒郡安堵町の自宅跡に、富本憲吉記念館が設けられています。

  収蔵品は富本作の色絵磁器など約500点で、それを順番に150点づつ常設展示しています。

 ③ 彼の文筆活動は工芸批評、作品解説ほか多岐にわたり、主な物に「窯辺雑記」「製陶余録」

   「楽焼工程」などがあります。

以下次回に続きます。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする