「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

沢村さんの沖縄通信・・・「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

2016-12-07 | 沢村さんの沖縄通信

「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

  「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」と題した講演会が11月20日、糸満市の農村環境改善センターで開かれた。主催は、NPO法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会。

 万次郎は1851年、アメリカから帰るにあたって、琉球国大渡浜(旧摩文仁間切小渡浜)に上陸した。その上陸地に記念碑を建設しようと活動する同期成会は、会長の上原昭氏が今年6月の糸満市長選挙で当選し、記念碑建設の機運が盛り上がっている。

 講演会では、市長である上原会長が主催者あいさつした。

 第1部の基調講演では、高知県出身の万次郎研究者、北代淳二氏が「万次郎と咸臨丸―秘められた歴史貢献」と題して講演した。

 北代氏は、咸臨丸は1860年(万延元年)、最初の遣米使節団が乗った米軍艦ポーハタン号の随行船として太平洋を渡った。万次郎は、勝海舟や福沢諭吉らとともに通弁主務として乗船したこと。しかし、ホワイトハウスでの日米修好通商条約の批准書の交換式には万次郎は出ていない。それは、万次郎が帰国し幕府に呼び出されたが、水戸の徳川斉昭が万次郎はアメリカに恩義があり通訳につけるとアメリカのためにならないことは言わないのでは、と主張し、ペリーとの交渉の際、出席させなかった。万次郎の情報や知識は尊重しながら、要注意人物と見られたことが最後までつきまとったとのべた。

 咸臨丸は「日本開闢以来初の大事業」とされ、勝や福沢は、外国人の手を借りずアメリカに行ったのは「日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ」(勝著『氷川清話』)とのべているが、それは事実ではないと指摘した。

 咸臨丸には、99人の日本人と米海軍の命令でジョン・ブルック大尉と10人のアメリカ人乗員が航路案内役として乗船した。1960年に「ブルック大尉の日記」が公になり、咸臨丸の真実が明らかになった。そこでは「万次郎はこれまで会った中で最も素晴らしい男の一人だ。彼が日本の開国にほかの誰よりも大きく関心を持っていた」とのべている。

 北代氏は、咸臨丸の船上は、「日米異文化交流の実験場で、命を懸けた共同作業だった。日米双方のコミュニケーションが万次郎の重要な役割だった。日米の理解が深まった」とのべた。

 その後、勝は江戸城無血開城、福沢は啓蒙学者として名をなしたが、「万次郎は通訳という黒子の仕事をして、帰国後も歴史の表舞台に出ることなく、自分の果たした役割を語ることなく歴史の舞台から去って行った」とのべた。

 第2部では、北代氏のコーディネーターのもと、パネリストとしてジョン万次郎研究家の當眞嗣吉氏、糸満市教育委員会総務部長の神谷良昌氏、万次郎研究家の長田亮一氏、糸満市長の上原昭氏が報告した。

 

ジョン万次郎 に関する記事 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

 沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 

奥さんのブログ南の島のにぬふぁぶし日記


沢村さんの沖縄通信・・・亀島靖氏が講演、沖縄ジョン万次郎会講演会

2016-10-21 | 沢村さんの沖縄通信

沖縄ジョン万次郎会講演会開かれる、亀島靖氏が講演

 第11回沖縄ジョン万次郎会講演会が9月24日午後、沖縄県豊見城市社会福祉協議会ホールで開かれた。劇作家で著名な琉球歴史研究者の亀島靖氏が講演し、聴衆で会場はいっぱいとなり、万次郎に対する関心の高まりを示した。

 講演会は、赤嶺光秀会長が挨拶、宜保晴毅市長ら来賓が挨拶した。オープニングで、市内豊崎小学校の愛唱歌「未來への扉~ジョン万次郎からのメッセージ」(2014年度6年生一同が作詞・作曲、嶺井るみ先生が編曲)と歌手の三田りょうさんが歌う「ジョン万次郎の歌~忘れはしない胆心(ちむぐくる)」が紹介された。

 亀島氏は「琉球歴史の謎とロマン~日本の夜明けに貢献したジョン万次郎と牧志朝忠~」と題して講演した。亀島氏は5つのキーワード「黒潮」「クジラ」「牧志朝忠」「明治維新(島津斉彬)」「産業革命」を軸に話した。

 万次郎が漁船で遭難した当時は異常気象で、通常は北に流れる黒潮が南下し蛇行していたため万次郎らは助かったという。黒潮の三大動物の一つがクジラで、当時のアメリカは捕鯨が重要産業であり、鎖国していた日本に捕鯨船が寄港できるように日本に開港させるためペリーが派遣され、琉球に先に来たこと。琉球が異国の人も来るものは拒まず迎える精神をもっていることをイギリスから琉球に来たバジル・ホールの航海記を読んで知っていたとのべた。

 万次郎は、ペリーの来る前年、琉球に上陸したが、鎖国の日本に上陸すれば打ち首にされるかもしれない最悪の事態を想定し、一番上陸しやすい国として琉球に来たが、バジル・ホールの本を読んでいたと思われる。万次郎は、「ABCの歌」をはじめて日本に紹介し、初めてネクタイをし、初めて蒸気船に乗り、初めて近代的な捕鯨術を習得した日本人でもあるとのべた。

 ペリーの来琉のさい対応した牧志朝忠(まきしちょうちゅう)は北京に留学して中国語、ロシア語、英語も学び語学の才能があり首里王府の外交を担当していた。万次郎が滞在したさい、世界の情報や本も提供された朝忠はペリーに会ったさい、「アメリカは一農民が選挙で国王になれる」と話し、ペリーは琉球の役人がジョージ・ワシントンのことを知っていることに驚いたという。

 ペリーは、「これから日本に向かうが幕府が敵対すれば艦砲射撃で江戸を焼け野原にするつもりだ」と朝忠に話したので、朝忠はすぐ那覇にある薩摩藩の出先機関である在番奉行所に伝え、早船、急便で情報が広島にいた島津斉彬に知らされ、すぐ幕府に伝えたので、幕府はペリー艦隊が来てもお台場で砲撃をしないで迎えることになったという。

 当時の琉球は中国から国王として認証される冊封(さっぽう)を受けたが、中国は琉球を支配する国とは見ていない。琉球は中国の属国ではなかった。琉球から毎年7名、7年間の留学生を受け入れ国費で学ばせるなど、とても厚遇した。その背景に火薬の原料となる琉球の硫黄が欲しかったことがあるとのべた。
 亀島氏は、RBCラジオ「おもため歴史ゼミナール」で毎日話しているだけに、とてもわかりやすく面白い内容の講演だった。

 

 

ジョン万次郎 に関する記事 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

 沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 

奥さんのブログ南の島のにぬふぁぶし日記


琉球と土佐―その深い縁(エニシ)その歴史を紐解く・・・竹内經氏が講演

2015-05-24 | 沢村さんの沖縄通信

沢村さんの沖縄通信・・・

琉球と土佐―その深い縁(エニシ)その歴史を紐解く

                    竹内經氏が講演

 

沖縄ジョン万次郎会の定期総会が5月23日、豊見城市の市社会福祉協議会で開かれた。

総会では、9月12日に第4回ジョン万次郎サミットin沖縄&沖縄ジョン万次郎講演会を開くなど今年度の事業計画案など議案を採択した。 

総会後には「美ら島沖縄大使」をつとめる竹内經氏(静岡県出身)が「琉球と土佐、その深い縁その歴史を紐解く」と題して講演した。

 竹内氏は、1851年に琉球の小渡浜(現糸満市)に上陸した万次郎らが、那覇への護送が中止され、豊見城・翁長(オナガ)村に留め置かれたのはなぜか、その背景について次のようにのべた。

 富山藩が北前船で運んできた昆布を大坂堺の海産物問屋には卸さず、極秘に薩摩藩へ横流し、見返りに高価な「唐薬種」(中国渡来の薬)を薩摩藩から手に入れようとした。薩摩藩は当時、長崎しか許されていなかった「唐薬種」を秘密裏に琉球を介して昆布と引き換え富山にさばくことを企んだ。「唐薬種」は富山藩で和薬と調合され和漢薬として全国に広まった。抜け荷として運ばれてきた昆布は、中国へ輸出された。

 秘密裏に取り引きされていた<昆布と唐薬種>の交易の現場を万次郎らに知られたくなかったのが翁長村留め置きの理由の一つであろう。

また、イギリスの宣教師・ベッテルハイムと万次郎らとの接触を懸念していたこともある。

 万次郎らが7か月もの長期に留め置かれたのはなぜか。

 万次郎が上陸する前年の1850年、琉球から江戸に向かう「江戸上り」(99人)の一行が、江戸を発ったのは12月22日。琉球への帰還は翌年4月13日と見られる。万次郎たちの薩摩への護送は当初6月14日出立だったのが、急きょ1か月延期された。薩摩から帰った船を修理して護送船にしたのではないか。

万次郎たちは7月11日、翁長村を出立し、同月18日、ようやく大聖丸で薩摩へ向かった。護送が遅れたのも、船の調達そのものの裏事情がからんでいたとも推理できる。

 護送船の手配を含めて、王府側が多忙を極めていたことも、護送日程がずれ込んだ要因の可能性が高い。

 琉球王府が万次郎ら土佐漂着民に配慮した思惑について、次のようにのべた。

 琉球人が乗った船が時化に遭い、黒潮にのって土佐沖に漂着した記録が18世紀に少なくても3回ある。1705年に80人(滞在5か月間)、1762年に50人(2か月間)、1795年に31人(逗留日数不明)が保護され滞在した。

 滞在期間の諸経費は現在の貨幣に換算して合計3億円に近いと考えられる。

 琉球人が土佐に漂着して保護されたことへの恩義を詠んだ琉歌がある。1762年 長嶺筑登之(チクドゥン)の琉歌である。

「白浜の真砂 よみやつくすとも 土佐の御恩せや さんやしらん」(白浜の真砂は数えることは出来ても、土佐の御恩義は数えることは出来ません)。

 土佐の万次郎たち3人を7か月間保護した琉球王府の支出した経費はどのくらいだったのか。資料がない。

琉球王府と土佐藩の“貸し借り”、恩、絆、縁(エニシ)の所以がここに見出すことができる。琉球王府は、万次郎たちの漂着の報を受けて、昔、受けた土佐藩への恩義、丁重なる持て成し、気遣いを優先させたことはいうまでもない。

 9月のジョン万サミットin沖縄と併せて開かれる「第10回沖縄ジョン万次郎講演会」では、高知で発行されている「土佐史談 中濱万次郎特集号」に沖縄から執筆した神谷良昌、當眞嗣吉両氏が講演することになっている。

 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 

奥さんのブログ南の島のにぬふぁぶし日記


沢村さんの沖縄通信 目次

2015-03-28 | 沢村さんの沖縄通信

沢村さんの沖縄通信 目次

 

沢村さんの沖縄通信・・・「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

沢村さんの沖縄通信・・・亀島靖氏が講演、沖縄ジョン万次郎会講演会

琉球と土佐―その深い縁(エニシ)その歴史を紐解く・・・竹内經氏が講演

沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎上陸の地を歩く

 沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~ができました

 沢村さんの沖縄通信・・・沖縄ジョン万次郎会が講演会  

 沢村さんの沖縄通信・・・「ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心~」が、ユーチューブに

 沢村さんの沖縄通信・・・夏の真夜中に咲く幻想的な花、サガリバナがいま満開です

沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎の歌~忘れはしない肝心(ちむぐくる)~ができました

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・高知人が作った「平城山」を聴く  

沖縄ジョン万次郎会の定期総会に初めて出席

沖縄ジョン万次郎会の新年会に招かれる

 

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その1)

沢村昭洋さんの沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その2)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その3)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その4)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その5)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その6)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その7)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その8)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その9)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その10)

沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その11)

 

 

元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎

元日の贈り物・・・ジョン万次郎と牧野富太郎、その2 

沢村さんの沖縄通信・・・沖縄に「ジョン万焼」登場

沢村さんの沖縄通信・・・沖縄の市場の歳末風景

沢村さんの沖縄通信・・・佐川町出身・黒岩恒さんの顕彰碑を見ました

沢村さんの沖縄通信・・・糸満ハーレー
沖縄通信・・・「ヒージャーオーラセ」(闘山羊)
沖縄通信・・・華やかに一万人のエイサー踊り隊
沖縄通信・・・サガリバナ
沖縄通信・・・那覇ハーリー
沖縄通信・・・ジョン万カップ少年野球交流大会

沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒  追記
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その4
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その3
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その2
沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その1

沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎記念碑
沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎の記念碑を建立する計画が!
沖縄で愛される中浜万次郎 その6・・・明治維新、自由民権運動にも影響が
沖縄で愛される中浜万次郎 その5・・・万次郎から勉強した島津斉彬
沖縄で愛される中浜万次郎 その4
沖縄で愛される中浜万次郎 その3・・・琉球で綱曳きにも参加した
沖縄通信・・・沖縄で愛される中浜万次郎 その2
沖縄通信・・・沖縄で愛される中浜万次郎 その1

沖縄通信・・その7 高知県出身の依光年恵さん、108歳の茶寿祝う
沖縄通信・・・その6    ついでに、花だより

沖縄通信その5・・・ 沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか
沖縄通信その4・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか
沖縄通信その3・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか
沖縄通信その2・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか
沖縄通信その1・・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか

 

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 

奥さんのブログ南の島のにぬふぁぶし日記

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

ジョン万次郎 に関する記事

「高知ファンクラブ」での 連載もの

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ  記事一覧はこちらから

 


沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎上陸の地を歩く

2015-03-28 | 沢村さんの沖縄通信

沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎上陸の地を歩く

糸満市米須に住む和田達雄さん(越裏門出身)の案内で、ジョン万次郎が初めて琉球に上陸した地を歩きました。和田さんは、ここに万次郎上陸の地の記念碑を建立しようと、期成会副会長として活躍している方です。 2015/03/27 (金) 沖縄 沢村                                                                                

ジョン万次郎がアメリカから帰国する際、上陸したことで知られる沖縄・糸満市の大渡海岸を歩いた。今回は、ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会副会長の和田達雄さんが案内をしてくれた。和田さんは、高知県出身で近くの米須に住んでいる。記念碑建立に情熱を注いでいる方である。

 大渡海岸は、いまダイビングやシュノーケリングの適地として、県内外から人々が集まる。この日も、朝からアメリカ人を含めてダイビングやサーフィンを楽しむ人たちが駆けつけていた。大度海岸は「万次郎ビーチ」とも呼ばれている。

 写真は、大度海岸

 和田さんは、「ジョン万次郎の琉球上陸、半年の足あと」を文章にまとめ、「下船から上陸までの経緯」「上陸小渡浜から翁長村への道順」を、写真や図を使ってわかりやすくA3用紙2枚に図解している。パネルにして近くの「海の見えるレストラン」に展示もしている。写真は、展示されているパネル。

 

万次郎(23)と伝蔵(47)、五右衛門(25)の3人は、ハワイから商船サラボイド号に乗船して琉球の喜屋武(キャン)岬沖まで来て下船し、小型ボート・アドベンチャー号を降ろした。雨と霙(ミゾレ)混じりの寒い荒海の中、10時間近く漕ぎ、大渡海岸沖の干瀬(ヒシ)の浅瀬に着き、一夜を過ごした。翌朝、ヒルクイエ(海水温が急に凍え死んだ魚)を捕りに来た村人に出会う。異様な容姿に驚いて逃げてしまったが、一人の若者が話しかけてきて、「ここは琉球の摩文仁間切(マブニマギリ、いまの町村)」と応える。「どこから来たのか」と尋ね、漂流して異国で10年過ごし帰国する旨を話すと、安心したのか「ここから東によい船着き場があるので、そこへ回りなさい」と教えてくれた。3人は広い海岸の東端にある小渡浜に無事上陸した。

1851年2月2日(旧暦正月2日)のことだった。

 

 数年前に、大渡海岸を見た時は、漠然と広い砂浜の中央部にでも万次郎は上陸したのかと勝手に思っていたが、まったく違っていた。

 ちょうど潮が引き、浅瀬の岩場が海面から出て来た。駐車場から岩場に降りて、イノー(礁池)の上を上陸地の浜に向って歩いていった。途中に、海岸沿いに岩石が連なっている。動物の姿に似た奇岩がある。和田さんは、そんな岩を見つけては命名してきた。

「ふくろう岩」「ゴリラ岩」「シ―サー岩」「ライオン岩」「カメレオン岩」。中でも「鷲の親小岩」(写真)はとてもよく似ている。自然の岩とは思えないほどの造形美である。

潮が引くと、イノーの中に、青い熱帯魚がたくさん泳いでいる。水際の岩場から、湧水が流れているところもある。足を滑らせないように注意しながら岩場を回っていくと、小渡浜に着いた。

 

 小渡浜は、小さな入り江になっていて、東側は崖がそそり立っている。昔は山原船(ヤンバルセン、本島北部の物産を運搬した小型帆船)が入ったそうだ。浜には下部がえぐられた巨岩も立っている。浜の西側、岩石が連なっている中に、ポッカリと岩の割れ目が見える。写真は小渡浜を案内する和田達雄さん。

 

 「この割れ目から万次郎は中に入ったんだよ」と和田さん。身体を斜めにして、少しかがみながら割れ目をすり抜けた。私も後に続いたが本当に狭い。割れ目から入ると、周囲が岩に囲まれた砂地があり、ちょっとした広間のようになっている。万次郎らは、身の保全と食事をとるため安全な場所を探した。ここで朝食をとりコーヒーを飲んだのではないか、和田さんは説明する。

 

 「高知県の地図があるよ」と近くの岩を指差した。言われれば空洞部分が高知県の姿に似ている。こんな岩を見て「高知県に似ている」などど、喜んでいるのは、2人とも高知出身だからだ。沖縄に来るまでは、縁もゆかりもなかった高知人2人が、沖縄の地で万次郎の上陸地に立っていること自体が、不思議な偶然である。写真は、高知県地図に似た岩の空洞。

 小渡浜の東側の岩崖の下部が少し窪んでガマのようになっている。「あそこは岩が黒くなっているでしょう。あれは米軍の火炎放射器で焼かれた跡だよ」と和田さんが説明する。見ると、本当に岩が黒く焼けただれたようになっている。写真は焼かれて黒くなった岩。

沖縄戦で米軍の進攻を受け、首里から撤退した第32軍は摩文仁に司令部を置いた。摩文仁に近いこの大渡海岸は、追い詰められた住民らが逃げ惑った場所でもある。ちょっとしたガマにも避難し、海岸沿いの湧水もすくって喉を潤しただろう。

このあたりは、摩文仁には平和祈念公園と「平和の礎(イシジ)」があり、米須には「ひめゆりの塔」がある。沖縄戦の悲劇がどこにも刻まれている地である。

 

 大渡海岸を訪れる人は、年々増えているようだが、万次郎の上陸地の足跡を示すものはこの場所にはない。「万次郎ビーチ」と呼ばれても、その意味を伝えるものもない。写真は万次郎上陸地の小渡浜。

ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会は「万次郎上陸の歴史的価値を後世に伝え」、万次郎が鎖国日本の開国に貢献し、「琉球の夜明けはもとより日本の夜明けが、ここ大渡浜から始まったことを明らかにする」(同趣意書)ために、記念碑建立が必要だと主張している。

まだ建立は具体化されていないが、その前に当面「ジョン万次郎上陸之地」の看板を5、6月にも設置したいと準備を進めているそうだ。

 

万次郎らは、小渡浜に上陸したあと、2人の役人に連れられて米須村にあった摩文仁番所(役所)に向かった。万次郎らが通った昔の宿道(公道)を和田さんが案内してくれた。

万次郎ら一行は、岩崖を上がり宿道に出て、小渡村に向い急な坂のニンブイビラ(ヒラとは坂道のこと)を通り小渡村の元家(ムートゥヤー、村落の本家)、玉城家に寄り挨拶をして、お茶をいただき小休止する。そして、カテーラビラを上り番所で待機した。ちょうど昼時になり、近所の村人がたくさん出迎え、温かいふかしイモや差し入れをいただいた。

玉城家のあった場所や摩文仁番所跡は、いまは建物もなく、説明してもらわなければわからないままだった。摩文仁番所が、摩文仁ではなく、米須にあったことも説明を聞いてわかった。写真は、小渡浜から翁長村までの道順を示すパネル。

 

万次郎ら3人は、王府から派遣された役人2人の簡単な取り調べを終えて、午後4時過ぎ、徒歩で那覇に向かう。途中だんだん暗くなり、松明(タイマツ)に火をともして歩き続けて、小禄番所(現在は那覇市)にやっと着いた。

その後、垣花のガジャンビラの近くまで来たところ、那覇から来た役人の指示があり、豊見城間切翁長(オナガ)村に行くように伝えられる。その理由は、イギリスから宣教師として派遣され、那覇にいたベッテルハイムが活動していて、3人と会わせるのはまずいとの薩摩藩の役人の判断があった。那覇から離れた翁長村に向かう。

歩き疲れたため、役人の配慮で籠を用意してもらい翁長村に到着すると真夜中になっていたが、夜明けまで取り調べを受けた。その後、徳門家(屋号・トクジョウ)の高安親雲上(ペーチン、琉球士族の称号の一つ)の母家を借りた。写真は、万次郎が滞在した当時の高安家の家屋敷と思われる風景を復元した絵。

 

以後、旧暦7月11日、翁長村を離れるまで、半年間にわたり翁長村に滞在することになる。

竹の柵で母家の周囲をかこみ、薩摩役人5人と王府の役人3人が交代で監視した。食事は、琉球王府より調理人3人が派遣され、米飯に豚、鶏、魚肉や島豆腐、野菜などを使った琉球料理を毎日食した。時には王府から泡盛が送られもてなしがされた。

琉球王府のもてなしの背景には、次のような事情があったと考えられる。

1705年7月、琉球の進貢船が中国の福州からの帰りに遭難して、土佐清水の清水浦に入り4か月間滞留した。その間、進貢船の使節通訳官である奥間親雲上はじめ役人、乗組員82人が土佐藩の世話を受け、現地で病死した1人は地元の連光寺境内の墓地に墓碑も建立され丁寧に祀られた。帰国の際、土佐藩主は絵画、掛物、陶器などを琉球に贈り、船員には多量の食糧品を送った。琉球王府にとって、土佐で介護してくれた土佐藩に対する返礼の機会でもあった。

万次郎ら3人はその後、同7月18日、那覇港を出港し薩摩の山川港に向かった。

以上の万次郎らの琉球上陸と半年の経緯は、和田達雄氏の執筆した「ジョン・万次郎の琉球上陸 半年の足あと」からの抜粋、要約である。

 

土木遺産に認定された「用之助港」

大渡海岸には、「用之助港」と呼ばれる港跡がある。和田達雄さんが案内してくれた。万次郎とは無関係である。

白い砂浜の沖合は、珊瑚礁が広がり、その外縁に環礁があって、舟は入れない。そのため、環礁を掘削して舟が入れるようにしたのがこの港跡だ。明治40年に完成した。当時佐賀県から沖縄にきて島尻郡長を務めていた第11代齊藤用之介が、漁業振興のため掘削させた。「大渡の用之助港」は「珊瑚礁に囲まれた沖縄ならではの土木遺産として価値が高い」として、2009年に「土木学会推奨土木遺産」に認定された。写真は「用之助港」。

実際に現場を指揮した蒲助の名を取り「蒲助港」という別名がある。

「 用之助港」の近くに、岩が3個かある。2014年7月6日の台風8号によって海底から陸揚げされた。和田さんは、万次郎らが最初にボートで漂着したことにちなんで、「伝蔵岩」「万次郎岩」「五右衛門岩」と3人の名前をつけている。

写真は、和田さんが3人の名前を付けた岩。

沖縄の南部を回る機会があれば、ジョン万次郎がアメリカから帰国し、最初に上陸したこの地を訪ねて、万次郎を想起してほしい。

 

 

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

沢村さんの沖縄通信 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます)

沢村さんのブログレキオ・島唄アッチャー 奥さんのブログレキオいくぼー日記 


栄ちゃんワールド・・・梶ケ森周辺の風景 目次

2015-01-02 | 栄ちゃんワールド・・・梶ケ森周辺の風景

栄ちゃんワールド・・・我が故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景 目次

私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景20
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景19
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景18 

私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景17
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景16吉野川
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景15大豊町・大平 

私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景14 故郷の晩秋
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景13 故郷の朝
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景12 定福寺の紅葉
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景11 八畝のお堂
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景10 定福寺の蓮(大賀蓮)②
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景9 定福寺の蓮(大賀蓮)①
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景8 八畝のお堂
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景7 棚田の四季
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景6 棚田の四季
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景5 棚田の四季
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景4 棚田の四季
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景3 棚田の四季
私の故郷 大豊町・梶ケ森周辺の風景2 棚田の四季
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森周辺の風景

 

 

栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" に関するページ

高知の自然・環境

高知の自然体験

さがす! 高知ファンクラブへ サイトマップ


栄ちゃんの四国霊場巡り 目次

2015-01-01 | 栄ちゃんの四国霊場巡り

栄ちゃんの四国霊場巡り 目次

栄ちゃんの四国霊場巡り・・・49番霊場
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・48番霊場
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・47番霊場
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・46番霊場
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・45番霊場
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・44番霊場 

栄ちゃんの四国霊場巡り・・・43番霊場
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・42番霊場 仏木寺(ぶつもくじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・41番霊場 龍光寺(りゅうこうじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・40番霊場 観自在寺(かんじざいじ)

栄ちゃんの四国霊場巡り・・・39番霊場  延光寺(えんこうじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・38番霊場 金剛福寺(こんごうふくじ) 

栄ちゃんの四国霊場巡り・・・37番霊場 岩本寺(いわもとじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・36番霊場 青龍寺(しょうりゅうじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・35番霊場 清滝寺(きよたきじ) 
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・34番霊場 種間寺(たねまじ) 
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・33番霊場 雪蹊寺(せっけいじ) 
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・32番霊場  禅師峰寺(ぜんじぶじ)  
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・31番霊場 竹林寺(ちくりんじ)

栄ちゃんの四国霊場巡り・・・30番霊場 善楽寺(ぜんらくじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・29番霊場 国分寺(こくぶんじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・28番霊場 大日寺(だいにちじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・27番霊場 神峯寺(こうのみねじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・26番霊場 金剛頂寺(こんごうちょうじ) 
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・25番霊場 津照寺(しんしょうじ) 
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・24番霊場 最御崎寺(ほつみさきじ)

栄ちゃんの四国霊場巡り・・・23番霊場 薬王寺(やくおうじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・22番霊場 平等寺(びょうとうじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・21番霊場 太龍寺(たいりゅうじ)

栄ちゃんの四国霊場巡り・・・20番霊場 鶴林寺(かくりんじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・19番霊場 立江寺(たつえじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・18番霊場 恩山寺(おんざんじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・17番霊場 井戸寺(いどじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・16番霊場 観音寺(かんのんじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・15番霊場 国分寺(こくぶんじ) 
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・14番霊場 常楽寺(じょうらくじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・13番霊場 大日寺(だいにちじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・12番霊場 焼山寺(しょうさんじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・11番霊場 藤井寺(ふじいでら)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・10番霊場 切幡寺(きりはたじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・9番霊場 法輪寺(ほうりんじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・8番霊場 熊谷寺(くまだにじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・7番霊場 十楽寺(じゅうらくじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・6番霊場 安楽寺(あんらくじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・5番霊場 地蔵寺(じぞうじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・4番霊場  大日寺(だいにちじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・3番霊場  金泉寺(こんせんじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・2番霊場 極楽寺(ごくらくじ)
栄ちゃんの四国霊場巡り・・・1番霊場 霊山寺


四国八十八箇所(高知県内

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ   記事一覧はこちらから


つづきもの

2015-01-01 | 「高知ファンクラブ」での 連載もの 記事

  ◎あていさんの天敵農業奮戦記・・ガッツ天敵くん!
  ◎長宗我部顕彰会ほか発行の「城山」
  ◎ミニバラさんの「料理は楽しい!」
  ◎香川の秋山さんのお役立ちリンク記事「アキネット」
  ◎高知県環境教育研究会の初代会長 森本博氏さんの「とりたちとの田舎ぐらし」
  ◎さとう農園~安全・安心の野菜づくり~
  ◎根木勢介さんの「龍馬十景」 シリーズ
  ◎土居利光さんの「お宝探訪」

  

特技・趣味
  ◎デッサン大好きさんの”お楽しみデッサン”
  ◎吉森久男(高知市)さんの木工の世界
  ◎バードカービングの堀田幸生さん
  
観光スポット

  ◎ミュジアム(美術館・博物館等)コーナーin高知
  ◎神社・お寺コーナーin高知
  ◎画像で見る「観光スポット」 
  ◎土佐の「おきゃく」
  ◎高知城アラカルト(♪私の城下町♪)
  ◎樹木医・入交幸三さんの「高知城の樹木(きぎ)」シリーズ
  ◎千葉さんの「日本の宝・高知城」
  ◎はりまや橋界隈ウオッチング
  ◎高知の街路市風景(日曜市ほか)
  ◎桂浜ウオッチング
  ◎牧野植物園アラカルト
  ◎鏡川・「平成の名水百選」ウオッチング
 

高知のうまい!

  ◎直販市・地産地消コーナーin 高知
  ◎オーガニック販売・市場 情報アラカルト
  ◎ミニバラさんの「料理は楽しい!」
  ◎料理 に関する記事
  ◎ひろめ市場情報
  

高知の自然
  
  ◎三嶺の森をまもるみんなの会 代表 依光良三  さんの記事
  ◎鏡川・「平成の名水百選」ウオッチング
  ◎県内の巨樹・巨木めぐり
  ◎高知のお四国・お遍路
  ◎県内・道の駅めぐり
  ◎高知の山登り



「高知ファンクラブ」での 連載もの

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ 


奥ものべを楽しむ会 公文寛伸会長のスケッチコーナー 目次

2014-12-30 | 公文寛伸会長のスケッチコーナー

奥ものべを楽しむ会 公文寛伸会長のスケッチコーナー

奥ものべを楽しむ会 公文寛伸会長のスケッチコーナー

塩の道 2 塩の道 3 塩の道 4 塩の道 

5 塩の道整備 6 塩の道整備 7 塩の道整備 

8 シイタケのコマ打ち体験

9 遊山・森の音楽会

10 野趣

11 紫翠園

12 高知市・みどりの広場にて 

13  流木に寄せ植え

14  ゆず狩り体験

15  御幣(ごへい)切り体験

16  塩の道

17  ゆずかりんとうづくり 

18  地元の手づくり料理

19  けんかもちほか 

20 石臼ほか  

21 リースづくり 

22 そば打ち体験

23 塩の道・竹弁当 

24 いざなぎ流舞神楽の観賞

25 塩の道の秋 

26 黒砂糖づくり① 27 黒砂糖づくり②  

                       
4月3日(土)、塩の道30Kmウオーキングに挑戦しませんか!
塩の道マーマレード しおゆず (ゆずマーマレード) その3

 

塩の道 に関する記事

奥ものべ を楽しむ会

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ


栄ちゃんワールド・・・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 目次

2014-12-30 | 栄ちゃんワールド・・・"ミニ植物園"

栄ちゃんワールド・・・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 目次

栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"26 クスノキの仲間
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"25 クスノキの仲間4   
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"24 クスノキの仲間3

栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"23 クスノキの仲間2

栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"22  クスノキ1 
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 21 ナンテン 

栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"20 紅葉
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 19 カエデ② 
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 18 カエデ
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 17 ホトトギス
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 16 アキノキリンソウほか
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 15 ヒガンバナ
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 14 ツルニンジンほか
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 13 オミナエシほか 
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 12 ショウマ
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 11 キキョウほか
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園" 10 ギボウシ
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"  9 ラン
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"  8 ラン
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"  7 ウツギ
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"  6 ウツギ
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"  5 アジサイ
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"  4 ユリ 
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"  3 ミズキ
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"  2 シャガ
栄ちゃんワールド・・・大豊町・梶ケ森麓の"ミニ植物園"  1 シャクヤク
 

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ


羽迫博己さんの、四万十川の沈下橋

2014-12-27 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、四万十川の沈下橋

四万十川の名前と祝いの日の設定

 

四万十川の沈下橋の所在地別にまとめリスト

須崎市 吾桑の極楽橋

一斗俵沈下橋

第一三島橋

上宮(じょうぐう)橋・向山橋(むかいやまばし)

里川橋・新谷橋(しんたに)

第一 三島橋・第仁 三島橋

半家(はげ)橋・中半家橋

西土佐 長生橋・岩間大橋

西土佐 屋内(やない)大橋・勝間橋

中村 高瀬(たかせ)橋・三里橋

中村 三里橋

中村 今成(いまなり)橋 通称佐田沈下橋・大平橋 通称大平沈下橋

窪川 寺野橋 通称寺野沈下橋・デバコ橋 通称デバコ沈下橋

大正 井津井谷(いづいだに)橋 ・梼原 石薮(いしやぶ)橋

梼原町 中古屋(なかごや)橋 ・新道(しんみち)橋 通称川口沈下橋

梼原町 川角(かわづの)橋 通称宮野々沈下橋・竹の薮(たけのやぶ)沈下橋 

梼原町 川角(かわづの)橋 ・竹の薮(たけのやぶ)沈下橋

梼原町 仲間(なかいだ)橋 ・仲久保(なかくぼ)橋

梼原町 中平(なかひら)沈下橋 ・木屋ヶ内(こやがうち)橋

西土佐 金刀比羅(ことひら)橋 ・タニガミ橋

西土佐 沖下(おきした)橋 ・上長瀬(かみながせ)橋

西土佐 小崎(こざき)橋 ・下津賀(しもつが)橋

西土佐 小津賀(こつが)沈下橋 ・小津賀(こつが)橋

西土佐 白王(しらおう)橋 ・ナロノ橋

中村 岩神(いわがみ)橋

 

四万十川の沈下橋・・・保存番号は上流から下流へ、そして支流の順番で

大野見 高樋(たかひ)橋

大野見 1高樋(たかひ)橋・2久万秋(くまあき)橋

大野見 3永野橋・窪川 4一斗俵(いっとひょう)橋

窪川 4一斗俵(いっとひょう)橋

窪川 5清水大橋・大正 6向弘瀬(むかいひろせ)橋

窪川 5清水大橋

大正 6向弘瀬(むかいひろせ)橋

津野町 早瀬の一本橋、西土佐 藤倉沈下橋

津野町 早瀬の一本橋

西土佐 下小崎橋

愛媛県松野町 葛川沈下橋、中村 大用(おおゆう)沈下橋

四万十市 押谷沈下橋、窪川 岩井橋

 

沈下橋とは

四万十川データー

沈下橋の無い都道府県、 沈下橋の存在する都道府県

沈下橋の都道府県の呼称(呼び方)

沈下橋の魅力

沈下橋の魅力(その2)

沈下橋以前の橋

沈下橋の今昔

四万十川の沈下橋リスト

本川、一次支流、二次支流、三次支流・・・

 

 カテゴリー四万十川の沈下橋  

羽迫博己さんの 四万十川の沈下橋

羽迫博己さんの世界 に関する記事

ひな人形・・・四万十川流域

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

武吉孝夫著 「沈下橋よ永遠なれ」(写真集)

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ   記事一覧はこちらから


馬路村の巨樹銘木 のご紹介 目次

2014-12-25 | 馬路村の巨樹銘木 のご紹介

馬路村の巨樹銘木 のご紹介 目次

カテゴリーから連続で見ることが出来ます)

 

馬路村の清岡博基・馬路村村議会議長に同行していただき、同村の岡田教育長にお会いしました。

馬路村教育委員会刊の「馬路村の巨樹銘木」の冊子を戴くとともに、

同村には「魚梁瀬山の案内人クラブ」があるので、「馬路村の巨樹銘木」を広く皆さんに紹介して、馬路村に来ていただき、馬路の自然に触れていただく取り組みについて話しました。

 

 

馬路村の巨樹銘木 のご紹介 目次

カテゴリーから連続で見ることが出来ます)

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ


魚梁瀬森林鉄道遺産 目次

2014-12-24 | 魚梁瀬森林鉄道遺産

魚梁瀬森林鉄道遺産 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 

魚梁瀬森林鉄道遺産・・・全体 に関する記事 

魚梁瀬森林鉄道遺産・・・保存・活用する会の清岡会長と探訪取材に!

魚梁瀬森林鉄道遺産・・・中芸地区の概要

魚梁瀬森林鉄道遺産・・・本線(安田川線)の敷設について

①魚梁瀬森林鉄道遺産・・・安田川線 ①エヤ隧道
②魚梁瀬森林鉄道遺産・・・②バンダ島隧道
③④旧魚梁瀬森林鉄道施設・・・③オオムカエ隧道④明神口橋

⑤魚梁瀬森林鉄道遺産・・・安田川線  ⑤釜ケ谷桟道
⑥魚梁瀬森林鉄道遺産・・・安田川線  ⑥釜ケ谷橋と島石ピクニック広場
⑦魚梁瀬森林鉄道遺産・・・安田川線  ⑦平瀬隧道
⑧魚梁瀬森林鉄道遺産 ・・⑧五味(ごみ)隧道
⑨魚梁瀬森林鉄道遺産・・・⑨落合橋
⑩魚梁瀬森林鉄道遺産・・・⑩河口(こうぐち)隧道
⑪魚梁瀬森林鉄道遺産・・・⑪犬吠(いぬぼう)橋
⑫魚梁瀬森林鉄道遺産・・・⑫井ノ谷橋
⑬魚梁瀬森林鉄道遺産・・・⑬堀ケ生(ほりがお)橋
⑭魚梁瀬森林鉄道遺産・・・⑭二股(ふたまた)橋
⑮魚梁瀬森林鉄道遺産・・・⑮小島橋
⑯魚梁瀬森林鉄道遺産・・・⑯立岡(たちおか)2号桟道
⑰魚梁瀬森林鉄道遺産・・・⑰八幡山跨線橋(はちまんやまこせんきょう)
⑱魚梁瀬森林鉄道遺産・・・⑱法恩寺跨線橋(ほうおんじこせんきょう)

魚梁瀬森林鉄道遺産・・・ 長山橋脚
魚梁瀬森林鉄道遺産・・・ 加茂(かも)隧道

 

魚梁瀬森林鉄道遺産 目次

カテゴリーから連続画像で見ることができます) 

「高知ファンクラブ」での 連載もの

魚梁瀬森林鉄道遺産・・・全体 に関する記事 


国指定重要文化財 ー旧魚梁瀬森林鉄道施設ー

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ


馬路村の巨樹銘木 のご紹介 目次

2014-12-24 | 馬路村の巨樹銘木 のご紹介

馬路村の巨樹銘木 のご紹介 目次

カテゴリーから連続で見ることが出来ます)

 

馬路村の巨樹銘木・・・はじめに 

橋の大杉
 サカキ
モミ
千本山のヤナセスギ(代表林分)
コウヤマキ(マキ)
ツガ(トガ)
トチノキ
ケヤキ
ケヤキ(通称ケヤキの広場)
シャクナゲ
トガサワラ
紅ドウダ
シャクナゲ
トサノミツバツツジ
西又山のゴヨウツツジ(シロヤシオ)
西又山のイチイ(アララギ)
西又山のブナ林
ヒメシャラ(サルスベリ)
ヒノキ
お化け杉(番所跡の大杉)
21 白ドウダン
22 丸山台地のサクラ
23 朝日出山の大杉(細井の大杉)
24 アカガシ
25 ムクロジ
26 ツブラジイ
27 アスナロ
28 ナツメ
29 天王の山桜
30 カキ
31 観音堂の夫婦杉
32 イヌマキ
33 スギ
34 クロガネモチ 
35 クリ
36 キハダ 
37 ユズ(土川のユズ)
38  モミジ
39  ツゲ
40 アカガシ
41 スギ
42 カナメモチ(ソバノキ)

時を重ねる巨木(お化け杉)
時を重ねる巨木(観音堂の夫婦杉)

 

馬路村の巨樹銘木 のご紹介 目次

カテゴリーから連続で見ることが出来ます)

「高知ファンクラブ」での 連載もの

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ

 

 


魚梁瀬(やなせ)山の案内人クラブ のご紹介

馬路村の見所・ウオッチング


野根山街道 目次

2014-12-24 | 野根山街道 に関する記事

野根山街道 目次

奈半利町HP:観光・イベント情報 野根山街道
奈半利自然保護研究会 野根山街道
出典: フリー百科事典 野根山街道

野根山街道(のねやまかいどう)は、高知県東部の奈半利町と東洋町を結んでいる尾根伝いの街道。

野根山街道は奈良時代養老年間に整備された官道で、奈良と土佐国府を結ぶ街道「南海道」の一部である。高知県安芸郡奈半利町と東洋町野根を尾根伝いに結ぶ行程約36km、高低差約1,000mの街道古くは『土佐日記』の著者紀貫之の入国の道として、また、藩政時代には参勤交代の通行路として使用された。現在は「四国のみち」環境省ルートとして整備されている。


野根山街道・・・熊笹峠から折り返す
野根山街道・・・マウンテンバイクの若いご夫婦に会いました
野根山街道・・・野川林道を横切る
野根山街道・・・宿屋杉(やどやすぎ)
野根山街道・・・三里塚
野根山街道・・・「中岡慎太郎」を顕彰する看板が
野根山街道・・・旧藩林 に関する記事
野根山街道・・・わらい栂 に関する記事
野根山街道・・・二里塚と六部様(ろくぶさま)
野根山街道・・・白石神社の登山口
奈半利町からの"野根山街道"入り口

 

「高知ファンクラブ」での 連載もの


さがす! 高知ファンクラブへ サイトマップ