沢村昭洋さん沖縄通信・・・沖縄の湧水を歩く (その5)
次に向かったのは宝口樋川(タカラグチフィージャー)。モノレールの儀保(ギボ)駅から少し下ると、標柱がある。この標柱だけでは場所がわからない。通りかかった若い女性に尋ねると、「谷川に沿って少し下るとありますよ」と教えてくれた。
湧水はどこでもけっこう分かりにくい場所にある。近くにいる人でも、地元に住んでいる人でないと分からないことが多い。
宝口樋川は、この地によい水が湧くことは知られていたけれど、不便な場所であること、当時、住民がそんなに水に困っていなかったことから、顧みられなかったという。
宝口よりもう少し上に登ったところの当蔵(トウノクラ)村の宮城筑登之親雲上(ミヤギチクドゥンペーチン)という人が、その湧水を惜しみ、賛同者をつのり24人が費用を出し合い、道を整え、樋川を設けた。宝口という地名に湧く樋川なので「宝樋」と名付けたという。
樋川は大雨にあって一度壊れて、修理しようとしたが、費用がかかり困っていた。ところが、赤田村に住む宮城筑登之の母親から費用負担の申し出があったので、無事工事を進めることができて、樋川はよみがえったという。
ここには、とても立派な碑がある。右から「宝桶」と記され、この樋川の由来など記されている。
碑の表は1807年に記されたもの。とても由緒ある石碑である。この碑も、沖縄戦で失われた。それが1986年、下を流れる真嘉比(マカヒ)川の改修工事によって、川床から碑の大部分が発見された。現物は、かなり破壊され、摩耗が激しいため、新たに復元することになり、1995年に復元されたそうだ。
この宝口樋川の近くに、紙漉所跡(カミスキジョアト)の案内板があった。琉球王国時代から昭和初期にかけて、紙漉が行われていたそうだ。琉球では、1694年に大見武憑武(オオミタケヒョウブ)が、薩摩から紙漉の技法を習得して帰り、首里で紙漉をするようになった。
1840年、儀保村の一角、宝口に家屋を建て、製紙区域として、製造が途絶えていた百田紙の製造を行わせたのが始まりだと言う。首里の山川町では、芭蕉紙、宝口では、百田紙が作られた。百田紙は、コウゾの樹皮でつくる和紙である。紙漉は、水がなければできない。宝口樋川があったので、この地で紙漉ができたのだろう。
桃原本通りを南に行った山川の近くの急傾斜地を降りていくと、「さくの川」の樋川に出る(左)。急な崖下から湧き出る地下水を導き出した共同井戸だ。地下水は、崖の相当奥にあるようだ。
巾30㌢、長さ80㌢に加工された琉球石灰岩を、なんと10個ほどもつないだ樋で水を導いている(右)。この水路の中も、内部が崩れないように、石垣を設けているという。まるでトンネルのようになっている。
この水は、村人の飲料水や生活用水として使われた。水汲み広場は、約1㍍ほど掘り下げ、樋口から外に向かって扇形に造られている。
ここからあふれ出た水は、北西に流れをつくり、その谷間の南斜面には、王家御用の芭蕉園があった。ここの芭蕉を用いて、紙漉が行われていた。芭蕉紙が作られた。
この辺りは「紙漉山川(カビシチヤマガー)」と呼ばれていたそうだ。この水は、飲料、生活用だけではなく、やはり紙漉という産業にも用いられていた。
井戸や樋川を見ていると、琉球王国時代からの人々の暮らしや生業、湧水に込めた思いや願い、石積み技術など、さまざまなことが見えてくる。首里に石積みの井泉が多いのは、石積み工が多くいたこともあるそうだ。
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