「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

羽迫博己さんの、四万十川の沈下橋

2014-12-27 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、四万十川の沈下橋

四万十川の名前と祝いの日の設定

 

四万十川の沈下橋の所在地別にまとめリスト

須崎市 吾桑の極楽橋

一斗俵沈下橋

第一三島橋

上宮(じょうぐう)橋・向山橋(むかいやまばし)

里川橋・新谷橋(しんたに)

第一 三島橋・第仁 三島橋

半家(はげ)橋・中半家橋

西土佐 長生橋・岩間大橋

西土佐 屋内(やない)大橋・勝間橋

中村 高瀬(たかせ)橋・三里橋

中村 三里橋

中村 今成(いまなり)橋 通称佐田沈下橋・大平橋 通称大平沈下橋

窪川 寺野橋 通称寺野沈下橋・デバコ橋 通称デバコ沈下橋

大正 井津井谷(いづいだに)橋 ・梼原 石薮(いしやぶ)橋

梼原町 中古屋(なかごや)橋 ・新道(しんみち)橋 通称川口沈下橋

梼原町 川角(かわづの)橋 通称宮野々沈下橋・竹の薮(たけのやぶ)沈下橋 

梼原町 川角(かわづの)橋 ・竹の薮(たけのやぶ)沈下橋

梼原町 仲間(なかいだ)橋 ・仲久保(なかくぼ)橋

梼原町 中平(なかひら)沈下橋 ・木屋ヶ内(こやがうち)橋

西土佐 金刀比羅(ことひら)橋 ・タニガミ橋

西土佐 沖下(おきした)橋 ・上長瀬(かみながせ)橋

西土佐 小崎(こざき)橋 ・下津賀(しもつが)橋

西土佐 小津賀(こつが)沈下橋 ・小津賀(こつが)橋

西土佐 白王(しらおう)橋 ・ナロノ橋

中村 岩神(いわがみ)橋

 

四万十川の沈下橋・・・保存番号は上流から下流へ、そして支流の順番で

大野見 高樋(たかひ)橋

大野見 1高樋(たかひ)橋・2久万秋(くまあき)橋

大野見 3永野橋・窪川 4一斗俵(いっとひょう)橋

窪川 4一斗俵(いっとひょう)橋

窪川 5清水大橋・大正 6向弘瀬(むかいひろせ)橋

窪川 5清水大橋

大正 6向弘瀬(むかいひろせ)橋

津野町 早瀬の一本橋、西土佐 藤倉沈下橋

津野町 早瀬の一本橋

西土佐 下小崎橋

愛媛県松野町 葛川沈下橋、中村 大用(おおゆう)沈下橋

四万十市 押谷沈下橋、窪川 岩井橋

 

沈下橋とは

四万十川データー

沈下橋の無い都道府県、 沈下橋の存在する都道府県

沈下橋の都道府県の呼称(呼び方)

沈下橋の魅力

沈下橋の魅力(その2)

沈下橋以前の橋

沈下橋の今昔

四万十川の沈下橋リスト

本川、一次支流、二次支流、三次支流・・・

 

 カテゴリー四万十川の沈下橋  

羽迫博己さんの 四万十川の沈下橋

羽迫博己さんの世界 に関する記事

ひな人形・・・四万十川流域

羽迫博己さんの、町屋あれこれ

武吉孝夫著 「沈下橋よ永遠なれ」(写真集)

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ   記事一覧はこちらから


羽迫さんの世界 に関する記事

2011-03-22 | 羽迫博己さんの世界

羽迫さんの世界 に関する記事

羽迫博己さん・・・四万十川のひな祭り(70) 

 

羽迫博己さんの、町屋あれこれ(34)  

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み・地質・花見・栗田真二の世界

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り

羽迫博己さんの、土佐人の銅像

羽迫博己の、森のようちえん・・・アジロ山の取り組み&その考え方と目的

 

 

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ


羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み・地質・花見・栗田真二の世界

2011-03-08 | 羽迫博己さんの世界

羽迫さんの世界 に関する記事

 

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の花見~その3 牧野公園

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の花見~その2 乗台寺庭園

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の花見~その1 青源寺庭園

 

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の地質~その4

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の地質~その3

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の地質~その2

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の地質~その1

 

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~その4

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~その3

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~その2

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~その1

 

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界6

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界5

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界4

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界3

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界2

羽迫さんの町屋あれこれ・・・佐川の町並み~栗田真二の世界1

 

佐川町ファンクラブ

 情報がてんこもり  高知ファンクラブへ

 


羽迫博己さんの、土佐人の銅像

2011-03-08 | 羽迫博己さんの世界

羽迫さんの世界 に関する記事

 

羽迫博己さんの、土佐人の銅像20・・・板垣退助先生像

羽迫博己さんの、土佐人の銅像19・・・岩崎弥太郎

羽迫博己さんの、土佐人の銅像18・・・山内容堂その2

羽迫博己さんの、土佐人の銅像17・・・山内容堂その1

羽迫博己さんの、土佐人の銅像16・・・船中八策とは

羽迫博己さんの、土佐人の銅像15・・・坂本龍馬先生之像

羽迫博己さんの、土佐人の銅像14・・・坂本龍馬先生像

羽迫博己さんの、土佐人の銅像13・・・武市半平太 2

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・武市半平太 1

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・中岡慎太郎2

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・中岡慎太郎1

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・飛翔の像

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その3)

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その2)

 羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その1)

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・片岡直輝・直温

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・吉村虎太郎

 羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・ジョン万次郎(その3)

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・ジョン万次郎(その2)

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・ジョン万次郎(その1)

 

羽迫さんの世界 に関する記事

報がてんこもり  高知ファンクラブへ


羽迫博己さんの、土佐人の銅像20・・・板垣退助先生像

2011-02-19 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像20・・・板垣退助先生像

天保8年(1837)4月17日、土佐藩馬廻格 
   乾永六の長男として高知城下中島町に生れた。
 少年時代から学問よりも相撲や闘犬などの勝負事を好み、
   士格青年の社団組織「盛組」の中心人物として
   乱暴を働き処分を受けている。
 安政2年(1855)には1年間江戸勤番を勤めるが、安政
   3年8月には総領職没収、城下四ヵ村禁足という重い
   処分を受けて、3年間城西神田村で生活したこともある。
 万延元年(1860)父の死去により、知行を50石削られて
   220石で家督を継ぎ、時の仕置役 吉田東洋の
   推薦を受けて藩政に携わり、騎兵術、蘭式兵学を学んだ。
 慶応4年(1868)の戊辰戦争には東山道先鋒総督府参謀
   として出征、その功績により、版籍奉還後は高知藩
   山内豊範の補佐役大参事となった。
 のち明治政府の参議となったが、明治6年征韓論に敗れて
   西郷隆盛らとともに辞任した。
 翌7年1月、同志とともに「愛国公党」を結成、民選議院
   設立の建言を政府に提出、高知に帰って片岡健吉らと
   立志社を設立して自由民権運動を展開した。
 明治15年4月6日、自由党総理として遊説中、岐阜で
   暴漢に刺されたとき、血まみれの中で口にした「板垣
   死すとも自由は死せず」の一言が新聞その他で報道
   され、この言葉が自由民権運動の合言葉になると
   ともに、彼は一躍自由民権運動の英雄となった。
 同年11月から7ヵ月にわたる欧州視察にあたっては、
   その旅費の出所に疑惑が生じ、党内に亀裂を生じる
   など、彼らの運動も曲折を重ねたが、明治22年の
   憲法発布、翌年の国会開設への道を切り開いた。
 その後、板垣は伊藤博文内閣の内務大臣などの要職に
   つくも、明治33年引退後は社会改良運動に尽くした。
 大正8年死亡 83歳。 あぞのに分骨堂がある。

板垣は角刀道振興にも力を尽くし、国技館の名付け親とも
   言われるほどで、記念角刀興行をし、純益15,797円
   が寄贈され、またそれ以外に募金が33,000円に上り
   大正13年銅像が建設されたが、戦時中供出された。

     除 幕: 昭和31年5月11日
     題 字: 板垣退助先生像
     規 模: 本体~2,2 ㍍  台座~4,205 ㍍
           総高~6,405 ㍍
                      事業費: 250万円

 

羽迫さんの世界

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

投稿数の多い、投稿者一覧

情報がてんこもり  「高知ファンクラブ」パート2    記事一覧はこちらから 


羽迫博己さんの、土佐人の銅像19・・・岩崎弥太郎

2011-02-14 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像19・・・岩崎弥太郎

 

 

岩崎弥太郎先生

天保5年(1834)12月11日、安芸郡井ノ口の地下浪人・
   岩崎弥次郎の長男として生れた。
 少年時代から勉学に励み、三奇童の一人と称された。
 安政元年(1854)江戸に出て、翌年幕府直轄の学校
   「昌平校」の儒官あさかごんさいの元に入門した。

 しかし、父が投獄された知らせを受けて帰国、
   父の訴訟事件をめぐって役人を誹謗したとして、
    彼も一時牢につながれた。

 安政4年出獄後、高知城下鴨田村に住み、吉田東洋の
    門下生になる。
 6年以来、なかずとばずの時期があるが、慶応2年
   (1866)後藤象二郎らによって藩直営の商館・開成館
   が設立され、翌3年、弥太郎は長崎の出先機関
    「土佐商会」の主任として活躍することになった。

 長崎では坂本龍馬や薩摩の五代友厚などとの接触を通じて
   広い視野、自由な発想を注ぎ込まれたことが、その後の
    弥太郎の生き方に大きな影響を与えたと見られている。
 同年郷土から新留守居組に異例の昇進を果たし、明治2年
   (1869)大阪土佐商会主任となって大阪に出て、
   戊辰戦争に伴う軍用金の調達に外国貿易を活用して
    成果を挙げ、四党官権小参事に出世した。

 以後、弥太郎は大阪土佐商会から衣替えした土佐開成社の
   経営に当たる一方、半官半民の「九十九商会」を興した。
 そして譲り受けた藩船に岩崎家の紋所三階菱と、山内家の
   三つ葉柏を組み合わせて作った三菱の紋を付けて、
    東京大阪間の回送運輸業を開始した。

 

廃藩置県後は藩機能を脱却して「三ッ川商会」と改称、
   明治6年にはさらに「三菱商会」と改めて、
    三菱財閥の原型を確立した。
明治7年の佐賀の乱、台湾出兵、10年の西南の役に
   あたって、三菱は軍事輸送を一手に引き受け、また、
   外国汽船を駆逐するという国策に乗って、政府船舶
   の無償払い下げや補助金などの手厚い保護を受け
    海運界に揺ぎ無い地位を確立した。
 しかし、明治11年後ろ盾となった大久保利通が暗殺され、
   同14年政変で大隈重信派が排撃されると、三菱の
   独占を切り崩すため、政府主導で発足した共同運輸
   会社との激しい競争に晒されることになった。
 競争の激化から、政府は共倒れを心配して妥協を勧告、
   明治18年9月、両社は合併して
   「日本郵船会社」が発足するが弥太郎はそれを
    待たずして、同年2月7日病死した。 52歳。

       除 幕: 昭和61年7月12日
       題 字: 岩崎弥太郎先生  字 手島右卿
       規 模: 本体~3,3 ㍍  台座~2,64 ㍍
             総高~5,94 ㍍
                       事業費: 4,100万円

 

羽迫さんの世界

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

投稿数の多い、投稿者一覧

情報がてんこもり  「高知ファンクラブ」パート2    記事一覧はこちらから 


羽迫博己さんの、土佐人の銅像18・・・山内容堂その2

2011-02-14 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像18・・・山内容堂その2

山内容堂趣意書

かって、高知城内に、初代一豊公と15代豊信(容堂)公の
   二つが建っていましたが、戦時中強制的に供出されて、
    久しい間姿を消しておりました。
 一豊公の銅像は、有志によって平成8年9月元の藤波神社
   の境内に、雄々しい騎馬像が再現され、
    県市民の多くの人々に喜ばれています。
 容堂公は歴代藩主の中でも傑出した名君で、たまたま
   幕末維新の大激動の時世に偶会し、その識見と才能を
   持って、国事に参与、奔走し「幕末四賢公」の一人として
    名声を天下にはせました。
 慶応3年10月の大政奉還の建白は、公の功業の内の
   最大のものといえましょう。
 書をよくし、酒を愛し、優れた詩文を多く残した容堂公を
   偲び、入国400年を期に、ギャマンの杯を傾け
   大政奉還を喜ぶ公の坐像を、ゆかり深き山内神社の
    境内に建てて見たいと考えました。
 つきましては、皆様のご賛同を頂き、物心両面のご協力
   を戴ければ幸いと存じます。

    除 幕: 平成14年4月10日
    題 字: 大政奉還を喜ぶ山内容堂公
       字: 山内豊秋
    規 模: 本体~1,185 ㍍  台座~1,2 ㍍
          総高~2,385 ㍍
    事業費: 1,281万4千円

 

羽迫さんの世界

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

投稿数の多い、投稿者一覧

情報がてんこもり  「高知ファンクラブ」パート2    記事一覧はこちらから 



羽迫博己さんの、土佐人の銅像17・・・山内容堂その1

2011-02-12 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像17・・・山内容堂その1

山内容堂

本名豊信(とよしげ)、隠居後容堂と号した。
 文政10年(1827)分家の長男として生れた。
 嘉永元年(1848)、22歳で宗家を継いで
   15代藩主となった。
 嘉永6年ペリー来航後、幕府の要請に対して「外交意見書」
   を提出、師と仰ぐ吉田東洋を抜擢して
    藩政改革を推進した。
 その後に起こった将軍後継問題では、福井の松平春嶽、
   薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城の三藩主と共に、
    一橋慶喜を推して存在を示した。
 また、条約勅許問題にも関与して、時の大老井伊直弼と
   対立したため、安政6年(1659)には、いわゆる
    「安政の大獄」で隠居、謹慎の身となった。
 「桜田門外の変」のあとの幕政改革を受けて、文久2年
   (1862)4月謹慎を解かれると、再び国政に関与し、
    公武合体策を堅持して時局の収拾を図った。
 翌3年の8・18政変後は土佐勤皇党弾圧に踏み切り、
   武市半平太らを断罪したが、慶応2年(1866)の第二次
   長州征伐の大敗後の長州処理と、兵庫開港問題を
   めぐる四候会議の解体以後、幕府の限界を見抜き、
   坂本龍馬の「船中八策」を基本とする後藤象二郎の
    意見を容れて大政奉還を建白した。
 維新後は中央政界を去り、「鯨海酔公」と称して酒と詩文
    (700首を残す)に明け暮れる豪遊の生活に浸った。
 明治5年(1872)6月21日没。墓は品川区太井にある。
           昭和19年、供出された。

     除 幕: 大正15年(1926)11月7日
     規 模: 本体~3,94 ㍍  台座~4,55 ㍍

     総高~8,49 ㍍
                     事業費: 39,315円

 

羽迫さんの世界

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

投稿数の多い、投稿者一覧

情報がてんこもり  「高知ファンクラブ」パート2    記事一覧はこちらから


羽迫博己さんの、土佐人の銅像16・・・船中八策とは

2011-02-12 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像16・・・船中八策とは

  

 

羽迫さんの世界

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

投稿数の多い、投稿者一覧

情報がてんこもり  「高知ファンクラブ」パート2    記事一覧はこちらから 


羽迫博己さんの、土佐人の銅像15・・・坂本龍馬先生之像

2011-02-10 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像15・・・坂本龍馬先生之像

坂本龍馬先生之像

この像は石材である。
 高知県展立体部門無鑑査の作家狩野信児さんの作品。
 桂浜の坂本龍馬像をモデルに制作、寄贈した。
 
     備付: 平成13年4月27日
     素材: 本体~中国産黒御影石、台座~白御影石
     題字: 坂本龍馬先生之像
     規模: 本体~0.65 ㍍、台座~1.1 ㍍
          総高~1.75 ㍍

所在地:
   高知市浦戸城山龍馬記念館前

 

坂本龍馬銅像 設立趣意書

桂浜の巌頭にくだくる太平洋の荒波が不断のノミをふるって彫り
   あげたものに、長宗我部があり、維新の志士があり、
    岩崎があり、浜口がある。
 大政奉還を中心とする明治日本の創業史をひもとく時、吾人は今更
   ながら先輩のこう業のかくやくとして雄麗なるに心躍るを覚ゆる。
 なかんずく坂本龍馬が維新史における重要さを思うとき、うたた一剣
   風雲をよびこしょう天下に鳴りし彼が豪快を偲ばざるを得ない。
 おもうに彼が世にありし、雄略ならびなかりし三十ゆう三の生涯は、
   一意明治日本の創建にささげ尽くされたというべきである。
 恨むべし京洛秋風せきれきの夕べ凶刃このめいけいじを奪い、
   志業中道にして砕け、壮心ついに施すに由なからしめた。
 何等の凶刃ぞ何等の恨事ぞ。
 しかも彼が回天の壮図はなかば功を収め国本ようやく固く、皇運天譲
   と栄ゆるべき基は不抜に培われて、鴨川のほとり彼がそそぎし
   鮮血千歳にわたって紅を吐き、彼の栄誉永く日本の歴史と共に
   生くというべきである。
 同人等先生の高風を慕うこと、ここに年あり、此の度相図って広く資
   を募り先生の像を建てんことを発願した。
 おもうに先生の大業を誤り無く伝えるの道は別に史家にえんだいの
   筆これあるべし。
 吾人は別に一家の見を有する。
 即ちにっせき先生の英姿をせんぎょうすることによりて第二第三の
   坂本をこの土に生ぜしめんとするにある。
 すなわち吾人の期待はかかって次代にあり未来にある。
 爾来南海の地才俊多く、今郷党のために万丈のこうえんをあぐ。
 しかも同人の期待は更に百代の後嗣に之を継ぎ、千歳のこうこんに
   之を見んとするにある。
 頭をめぐらせば国事日に多端にして国歩日にけんかんを加う。
 時運非にして英雄を思うは古今同てつである。
 第二の坂本出でよ、第三の坂本出でよ。
 同人の期待は、意図はここにある。頑是無き少年といえども其の蕨の 

如き拳を振って発奮を誓うべきを思えば、吾人の企てにかぎりなき
   命の躍動覚ゆるではないか。・・・・・・
        昭和二年五月  坂本龍馬先生銅像建設会同人
 

坂本龍馬の写真

慶応2年(1866)6月、長崎の上野彦馬
   (我が国の写真術の始祖)
   の写真館で撮影されたものとみられている。

 

羽迫さんの世界

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

投稿数の多い、投稿者一覧

情報がてんこもり  「高知ファンクラブ」パート2    記事一覧はこちらから 


羽迫博己の、森のようちえん・・・アジロ山の取り組み&その考え方と目的

2011-02-08 | 羽迫博己さんの世界

森のようちえん・・・かしこくて、たくましい子どもに育てる 目次

羽迫さんの世界 に関する記事

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り

羽迫博己さん・・・四万十川のひな祭り(65)

羽迫博己の、森のようちえん・・・アジロ山の取り組み&その考え方と目的

 

 

羽迫博己の、森のようちえん・・・その考え方と目的(その11)

羽迫博己の、森のようちえん・・・その考え方と目的(その10)

羽迫博己の、森のようちえん・・・その考え方と目的(その9)

羽迫博己の、森のようちえん・・・その考え方と目的(その8)

羽迫博己の、森のようちえん・・・その考え方と目的(その7)

羽迫博己の、森のようちえん・・・その考え方と目的(その6)

羽迫博己の、森のようちえん・・・その考え方と目的(その5)

羽迫博己の、森のようちえん・・・その考え方と目的(その4)

羽迫博己の、森のようちえん・・・その考え方と目的(その3)

羽迫博己の、森のようちえん・・・その考え方と目的(その2)

羽迫博己の、森のようちえん・・・その考え方と目的(その1)

            高知市神田のアジロ山で遊ぶ子どもたち  

かしこくて、たくましい子どもに育てる 目次 

羽迫さんの世界 に関する記事

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り

羽迫博己さん・・・四万十川のひな祭り(65)

羽迫博己の、森のようちえん・・・アジロ山の取り組み&その考え方と目的

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ

若草幼稚園 「すくすくの森」と子どもたち  に関する記事 

 


羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り

2011-02-08 | 羽迫博己さんの世界

羽迫さんの世界 に関する記事

 

 

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・雛祭 はりまや橋

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・いの幸町の雛祭り 

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・北川村のひなまつり

迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・奈半利町

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・田野町 岡御殿(その2)

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・田野町 岡御殿(その1)

迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・室戸市・吉良川町その6

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・室戸市・吉良川町その5 

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・室戸市・吉良川町その4

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・室戸市・吉良川町その3

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・室戸市・吉良川町その2

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・室戸市・吉良川町その1

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・やすだ町家 雛まつり

羽迫博己さんの、土佐の町屋ひな祭り2010・・・安芸のひなものがたり

 

羽迫さんの世界 に関する記事

情報がてんこもり  高知ファンクラブへ

 


羽迫博己さんの、土佐人の銅像14・・・坂本龍馬先生像

2011-02-08 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像14・・・坂本龍馬先生像

 

坂本龍馬先生像

天保6年(1835)11月15日、高知城下で
   郷土坂本八平・幸の次男として生れた。
 14歳から日根野道場で剣術を学び、19歳から2度に
   渡って江戸に遊学、千葉道場で剣を磨く一方、
    米国軍艦の来航に伴う沿岸警備等を経験する。
 土佐に帰っては、知識人で画家の河田小龍に啓発され、
   海軍の強化、通商航海の必要性を強く認識した。
 文久元年秋、土佐勤皇党に加盟、武市半平太の命を
   受けて長州を訪問、藩の枠組みを超えた久坂玄瑞の
    思想に触れ、翌年春帰国後、3月24日脱藩。
 長州・九州を経て江戸に赴き、幕臣勝海舟に師事して
    海軍建設の計画を推進した。
 神戸海軍塾解散後は薩摩藩の保護を受けながら、
   同志を集めて長崎で「亀山社中」を設けて通商航海業
   を営み、中岡慎太郎らと連携して慶応2年(1866)1月
    の薩長同盟成立に大きな役割を果たした。
 翌3年1月、長崎で土佐藩参政 後藤象二郎と会見、
   相提携して国事に尽くすことになり、脱藩を放免され、
   「亀山社中」を解散して土佐藩の遊軍海援隊とし、
    その隊長となった。
 同年6月には、横井小楠の「国是七条」を下敷きに、
   大政奉還論とその後の国政のあり方を示す「船中八策」
   を作成して、後藤象二郎に示し、土佐藩からの
    大政奉還建白が実現した。
 10月14日、将軍慶喜が大政奉還を上奏、龍馬は新政府
   の構想に奔走したが、15日夜、京都近江屋で同志
   中岡慎太郎と会談中、幕府見廻り組の刺客に襲われ、
    闘死した。 33歳。
              墓は京都東山区の霊山墓地にある。
     徐 幕: 昭和3年5月27日
      題 字: 坂本龍馬先生像
      規 模: 本体~5,3 ㍍   台座~8,18 ㍍

      総高~13,48㍍ 事業費: 25,695円

所在地:
   高知市浦戸 桂浜公園龍頭岬

 

羽迫さんの世界

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

投稿数の多い、投稿者一覧

情報がてんこもり  「高知ファンクラブ」パート2    記事一覧はこちらから 


羽迫博己さんの、土佐人の銅像13・・・武市半平太 2

2011-02-08 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像13・・・武市半平太 2

武市半平太像

福田寺境内にある武市半平太像は、最初の銅像の
     原型で、高さ約 1 ㍍ 。
  昭和55年3月、同町出身、で高知市在住の安岡益吉
     が、寄贈したものである。
  なお、同境内には、二十三士の墓が祀られている。

所在地:安芸郡田野町福田寺境内

 

羽迫さんの世界

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

投稿数の多い、投稿者一覧

情報がてんこもり  「高知ファンクラブ」パート2    記事一覧はこちらから


羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・武市半平太 1

2011-02-06 | 羽迫博己さんの世界

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・武市半平太 1

 

武市半平太先生

土佐勤皇党盟主 武市半平太は、文政12年(1829)
   9月27日、長岡郡仁井田郷吹井村の土佐藩白札格
    武市半右衛門の長男として生れる。
 本名は小楯、瑞山は号である。
 幼少から城下に寄萬して、学問・絵画・剣術の修行に励み、
   22歳で新町に道場を構えて、弟子の指導にあたった。
 28歳の安政3年、鏡新明智流に入門し、
   短期間で皆伝を受け、塾頭に推挙される。
 井伊大老暗殺事件後の万延元年(1860)から中国・九州を
   歴訪、勤皇の志士としての志を固めていった。
 翌文久元年8月、江戸で土佐勤皇党を結成し、盟主に。
 9月土佐に帰って同志を募る一方、藩庁に働きかけて、薩長
   に遅れじと土佐藩を挙げて勤皇に進むべしと進言した。
 文久2年(1862)4月、山内容堂の意を受けて、反対する
   吉田東洋を暗殺し藩論を変革、藩主豊範を擁し上洛した。
 土佐藩は薩摩、長州と共に京都警備、国事周旋の朝命を
   受け半平太は他藩応接役となり、10月には留守居組に
    昇格ている。
 土佐勤皇党の全盛期はこの時期までで、翌文久3年8月、
   京都政変で公武合体派が政治の主導権を握ると、
   容堂は勤皇党弾圧に踏み切り、9月半平太も
    同志とともに捕えられた。
 南会所の獄にあること1年9ヶ月、慶応元年(1865)
   5月11日切腹を命じられた。37歳。
 墓は生家近くの武市家墓所にあり、
   また瑞山神社として祀られている。

       除 幕: 昭和61年6月7日
       題 字: 武市半平太先生  字 中内知事 
       規 模: 本体~3,0 ㍍   台座~4,5 ㍍
             総高~7,5 ㍍
       事業費: 2、047万3,000円

所在地:須崎市浦の内
        横浪半島

獄中で詠んだ詩 

花依清香愛 ~ 花は清香によって愛せられ
  人以仁義栄 ~ 人は仁義を以て栄ゆ
  幽囚何可恥 ~ 幽囚何ぞ恥ずべけん
  只有赤心明 ~ 只赤心の明らかなるあり

 

羽迫さんの世界

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

四万十川流域のひなまつり・・・羽迫博己さんの世界 

投稿数の多い、投稿者一覧

情報がてんこもり  「高知ファンクラブ」パート2    記事一覧はこちらから