ジョン万次郎ファンクラブ

ジョン万次郎(中浜万次郎)の偉業を顕彰し、”ジョン万”ファンを広げていきます。

沢村さんの沖縄通信・・・「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

2016-12-07 | 万次郎に関する情報

「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」開く

  「開国に導いた男、ジョン万次郎シンポジウム」と題した講演会が11月20日、糸満市の農村環境改善センターで開かれた。主催は、NPO法人ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会。

 万次郎は1851年、アメリカから帰るにあたって、琉球国大渡浜(旧摩文仁間切小渡浜)に上陸した。その上陸地に記念碑を建設しようと活動する同期成会は、会長の上原昭氏が今年6月の糸満市長選挙で当選し、記念碑建設の機運が盛り上がっている。

 講演会では、市長である上原会長が主催者あいさつした。

 第1部の基調講演では、高知県出身の万次郎研究者、北代淳二氏が「万次郎と咸臨丸―秘められた歴史貢献」と題して講演した。

 北代氏は、咸臨丸は1860年(万延元年)、最初の遣米使節団が乗った米軍艦ポーハタン号の随行船として太平洋を渡った。万次郎は、勝海舟や福沢諭吉らとともに通弁主務として乗船したこと。しかし、ホワイトハウスでの日米修好通商条約の批准書の交換式には万次郎は出ていない。それは、万次郎が帰国し幕府に呼び出されたが、水戸の徳川斉昭が万次郎はアメリカに恩義があり通訳につけるとアメリカのためにならないことは言わないのでは、と主張し、ペリーとの交渉の際、出席させなかった。万次郎の情報や知識は尊重しながら、要注意人物と見られたことが最後までつきまとったとのべた。

 咸臨丸は「日本開闢以来初の大事業」とされ、勝や福沢は、外国人の手を借りずアメリカに行ったのは「日本の軍艦が、外国へ航海した初めだ」(勝著『氷川清話』)とのべているが、それは事実ではないと指摘した。

 咸臨丸には、99人の日本人と米海軍の命令でジョン・ブルック大尉と10人のアメリカ人乗員が航路案内役として乗船した。1960年に「ブルック大尉の日記」が公になり、咸臨丸の真実が明らかになった。そこでは「万次郎はこれまで会った中で最も素晴らしい男の一人だ。彼が日本の開国にほかの誰よりも大きく関心を持っていた」とのべている。

 北代氏は、咸臨丸の船上は、「日米異文化交流の実験場で、命を懸けた共同作業だった。日米双方のコミュニケーションが万次郎の重要な役割だった。日米の理解が深まった」とのべた。

 その後、勝は江戸城無血開城、福沢は啓蒙学者として名をなしたが、「万次郎は通訳という黒子の仕事をして、帰国後も歴史の表舞台に出ることなく、自分の果たした役割を語ることなく歴史の舞台から去って行った」とのべた。

 第2部では、北代氏のコーディネーターのもと、パネリストとしてジョン万次郎研究家の當眞嗣吉氏、糸満市教育委員会総務部長の神谷良昌氏、万次郎研究家の長田亮一氏、糸満市長の上原昭氏が報告した。

 

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沢村さんの沖縄通信・・・亀島靖氏が講演、沖縄ジョン万次郎会講演会

2016-10-18 | 万次郎に関する情報

沖縄ジョン万次郎会講演会開かれる、亀島靖氏が講演

 第11回沖縄ジョン万次郎会講演会が9月24日午後、沖縄県豊見城市社会福祉協議会ホールで開かれた。劇作家で著名な琉球歴史研究者の亀島靖氏が講演し、聴衆で会場はいっぱいとなり、万次郎に対する関心の高まりを示した。

 講演会は、赤嶺光秀会長が挨拶、宜保晴毅市長ら来賓が挨拶した。オープニングで、市内豊崎小学校の愛唱歌「未來への扉~ジョン万次郎からのメッセージ」(2014年度6年生一同が作詞・作曲、嶺井るみ先生が編曲)と歌手の三田りょうさんが歌う「ジョン万次郎の歌~忘れはしない胆心(ちむぐくる)」が紹介された。

 亀島氏は「琉球歴史の謎とロマン~日本の夜明けに貢献したジョン万次郎と牧志朝忠~」と題して講演した。亀島氏は5つのキーワード「黒潮」「クジラ」「牧志朝忠」「明治維新(島津斉彬)」「産業革命」を軸に話した。

 万次郎が漁船で遭難した当時は異常気象で、通常は北に流れる黒潮が南下し蛇行していたため万次郎らは助かったという。黒潮の三大動物の一つがクジラで、当時のアメリカは捕鯨が重要産業であり、鎖国していた日本に捕鯨船が寄港できるように日本に開港させるためペリーが派遣され、琉球に先に来たこと。琉球が異国の人も来るものは拒まず迎える精神をもっていることをイギリスから琉球に来たバジル・ホールの航海記を読んで知っていたとのべた。

 万次郎は、ペリーの来る前年、琉球に上陸したが、鎖国の日本に上陸すれば打ち首にされるかもしれない最悪の事態を想定し、一番上陸しやすい国として琉球に来たが、バジル・ホールの本を読んでいたと思われる。万次郎は、「ABCの歌」をはじめて日本に紹介し、初めてネクタイをし、初めて蒸気船に乗り、初めて近代的な捕鯨術を習得した日本人でもあるとのべた。

 ペリーの来琉のさい対応した牧志朝忠(まきしちょうちゅう)は北京に留学して中国語、ロシア語、英語も学び語学の才能があり首里王府の外交を担当していた。万次郎が滞在したさい、世界の情報や本も提供された朝忠はペリーに会ったさい、「アメリカは一農民が選挙で国王になれる」と話し、ペリーは琉球の役人がジョージ・ワシントンのことを知っていることに驚いたという。

 ペリーは、「これから日本に向かうが幕府が敵対すれば艦砲射撃で江戸を焼け野原にするつもりだ」と朝忠に話したので、朝忠はすぐ那覇にある薩摩藩の出先機関である在番奉行所に伝え、早船、急便で情報が広島にいた島津斉彬に知らされ、すぐ幕府に伝えたので、幕府はペリー艦隊が来てもお台場で砲撃をしないで迎えることになったという。

 当時の琉球は中国から国王として認証される冊封(さっぽう)を受けたが、中国は琉球を支配する国とは見ていない。琉球は中国の属国ではなかった。琉球から毎年7名、7年間の留学生を受け入れ国費で学ばせるなど、とても厚遇した。その背景に火薬の原料となる琉球の硫黄が欲しかったことがあるとのべた。
 亀島氏は、RBCラジオ「おもため歴史ゼミナール」で毎日話しているだけに、とてもわかりやすく面白い内容の講演だった。

 

 

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沢村さんの沖縄通信・・・第4回ジョン万サミットin沖縄と講演会開く

2015-09-14 | 万次郎に関する情報

第4回ジョン万サミットin沖縄と講演会開く

第4回ジョン万サミットin沖縄&第10回沖縄ジョン万次郎会講演会が9月12日、豊見城市中央公民館で開かれた。新聞、テレビでお知らせしたこともあり、会場いっぱいの参加者で関心の高さを示した。
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歓迎アトラクションでフォレスト混声合唱団が「芭蕉布」などを披露した。団長は前夜祭でカチャーシーを演奏した高安勝利さんだった。「鼓衆しんか」は創作エイサーを勇壮に舞った。

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 講演会では、大城光盛沖縄ジョン万次郎会会長あいさつ(代読)、宜保晴毅豊見城市長の祝辞、万次郎直系、5代目の中浜京さん、土佐清水市の泥谷(ひじや)光信市長の来賓あいさつがあった。

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 京さんは、万次郎がアメリカ文化とデモクラシーをもって帰って来たことにふれ、「お互いに思いやる心があれば国家を超えた友情を持ち続けることができると思います」とのべた。 

  講演は、高知県で発行されている『土佐史談』の中浜万次郎特集号に沖縄から執筆したお二人が演壇に立った。とっても聞きごたえのある充実した講演だった。

 糸満市教育委員会総務部長で万次郎研究者の神谷良昌氏は「ジョン万次郎・琉球上陸の真実」と題して話した。

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 神谷氏は、万次郎が捕鯨船に救助された当時の捕鯨の実態やアメリカでの留学と帰国の準備にも触れながら、琉球に上陸した万次郎をなぜ那覇に入れず豊見城間切翁長村に滞在させたのかを詳述した。当時、英宣教師ベッテルハイムが那覇に滞在していることは幕府に秘密にしており、彼と会せることが危険と考え、遠い翁長村に戻したこと。王府の通事で万次郎の取り調べにあたった牧志朝忠が『ジョージ・ワシントン伝記』を借りて読み、大統領制度と民主国家の仕組みを理解した。2年後に琉球に来たペリー提督が那覇に石炭貯蔵庫を作りたいと申し出た際、「海岸に貯蔵庫をつくることはできない」と「ノー」と断った。万次郎の教えのおかげだと指摘した。琉球人が米軍に歴史上最初に「ノー」と言い切った瞬間だったとのべた。
                 

 沖縄電力元会長の當眞嗣吉(とうまつぎよし)さんは「『バジル・ホール館長の琉球』とジョン万次郎」と題して話した。有力企業の経営者がなぜ万次郎なのか。當眞さんは、小学生のとき「万次郎病」になり、この数年前から「万次郎病」が再発して研究してきたという。

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 万次郎が琉球上陸する前に、捕鯨船フランクリン号で訪れた琉球のマンビゴミレとはどこの小島だったのかをテーマに解明した。 

19世紀初頭に琉球に来航した英国海軍のアルセステ号、ライラ号の航海記録と海図を分析して、琉球島の海図には「マンビコミレ」とは一字違いの「マントゴミレ」が出ていること。当時ベストセラーとなったライラ号の航海記を万次郎は読んでいると思われることなどから、マンビゴミレは伊平屋(いへや)島であると結論づけた。ただ、琉球側の記録とは異なる面があり、久米島に「ウランダー・マンジラー」(ウランダーは外国人の総称)なる若者が上陸した伝承があり、上陸した小島は伊平屋島と久米島の2島と想定した。

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上陸目的は事前調査であり、琉球の人々は心暖かい人々であると確認したであろう。万次郎は、ライラ号など航海記を読み、マンビコミレ、久米島にも上陸してみて、「琉球に上陸して大丈夫だと考えて上陸したに違いない」とのべた。 

 このあと第4回ジョン万サミットin沖縄で土佐ジョン万会をはじめ各地で活動する団体から活動報告がされ、その後大交流会。13日はジョン万次郎宿道を辿るバスツアーがあったけれど、残念ながら私は別の用務と重なり参加できなかった。

 

前夜祭も盛大に

第4回ジョン万サミットin沖縄前夜祭が9月11日夜、豊見城市のJAおきなわホールで、高知県をはじめ県外からも大数参加して、盛大に開かれた。

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 会場には万次郎の出身地、土佐清水市の泥谷光信市長、土佐ジョン万会の内田泰史会長はじめ、高知からたくさんの方々が来ていた。懐かしい土佐弁が飛び交っていた。若い女性もたくさん参加していたのは頼もしい。 

 沖縄ジョン万次郎会の与那覇正文副会長の歓迎あいさつ、地元の宜保晴毅市長、泥谷光信土佐清水市長があいさつした。NHK大河ドラマに万次郎の採用をめざそうという両市長のあいさつに参加者も大きな拍手で応えていた。

 土佐ジョン万会の内田会長の音頭で乾杯した。  

 万次郎が半年間滞在した豊見城市翁長の高安家5代目当主、高安亀平さん、万次郎の子孫、5代目中浜京さん、高安6代目の方々も揃って記念撮影。

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 余興に入ると「あぁ万次郎」「とみぐすく万次郎音頭」など披露された。私にも歌三線で出てほしいというお誘いをいただいていた。未熟者だが、高知県出身で沖縄に移住し、沖縄ジョン万会のお仲間にさせていただき三線も楽しんでいるということで、厚かましいけれど出させていただいた。 

 「安里屋ユンタ」など3曲を歌った。高知からいらっしゃった88歳のおばあさんが、地元で「安里屋ユンタ」で踊っているといってとても喜んでくれた。

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 最後は高安勝利さんの三線で私もお手伝いして軽快なカチャーシー。会場は一つになってみんなが舞い踊った。 

 

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島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その3

2015-06-27 | 万次郎に関する情報

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その3

11年ぶりに母と対面

 土佐藩でも70日余の取り調べが続いた。土佐藩主は特に万次郎からの外国事情の聞き取りが目的であった。藩から解放され、中ノ浜に着いたのは10月5日であった。待ちわびた母との対面は、11年と10カ月ぶりにかなえられた。

親子水入らずの生活もわずか、万次郎は藩主に呼び出された。侍に取り立てられ、高知城下の教授館(学校)の教授に任命された。名字帯刀を許され、故郷の地名をとって中浜万次郎と名乗った。

 教授館に通う若者には、14・5歳の後藤象二郎や三菱財閥の創設者、岩崎弥太郎などがいて、民主主義制度によるアメリカの国情や世界の海を航海した体験談に耳を傾けた。間接ではあったが、坂本龍馬も大きく影響を受けたといわれている。 

 1853年にペリー艦隊が浦賀に来航。幕府は万次郎を呼んでアメリカの国情を聞き早期開国を訴える万次郎を召し上げ、幕府直参の役人に登用した。

 

 日米交渉の陰に置かれた万次郎

 1854年1月、ペリーが再び来航し、米船が石炭、薪、水、食糧などを補給する基地として下田、函館2港の開港を幕府と取り決め、3月に日米和親条約を締結した。万次郎が訴えてきた日本の補給基地開港がやっと実現した。しかし、交渉の場にも幕府は万次郎を使わなかった。

「万次郎を通訳に使えば、永年世話になったアメリカへの恩義を思いアメリカのために心が動くであろう」と疑う意見や「スパイの疑いはないが、アメリカの不利になることは好ましくないであろう。米国人と会わすことは避けるべきだ」などの警告もあり、幕府重臣の多くは疑念を抱いていた。

 勘定吟味役の江川太郎左衛門が、万次郎を幕府直参に登用した。万次郎は「大型造船を許可して捕鯨漁を興すことが国益になる」と説いた。江川を通して、熱意が幕府に通じ、大船建造禁止令が解かれ、各藩で西洋形造船に関心が高まり、幕府は万次郎にアメリカ航海術書の翻訳を命じた。日本最初の『アメリカ合衆国航海学書』が出版された。

 1857年4月、江戸の開設された講武所の軍艦教授所の教授に任命され、航海術の指導に当たった。10月、捕鯨事業を興すため函館で捕鯨技術の伝授を任命され、捕鯨基地の調査や漁業者に捕鯨の有望さを説き回った。59年2月、幕府から「捕鯨の御用」に任命され、小笠原近海で西洋型帆船を使っての西洋式捕鯨実習で海洋に出た。

 

荒波にもまれ太平洋を行く咸臨丸

幕府は日米修好通商条約の批准のため、使節団をボーハタン号で米国に派遣し、護衛艦として咸臨丸を送ることにした。司令官に軍艦奉行の木村喜穀、艦長に勝海舟、通弁主務(通訳)に中浜万次郎が任命され、総勢96人が船出した。便乗していたジョン・ブルック海軍大尉が残した航海日誌で艦内の動向が明らかにされている。

暴風雨にあったとき「常に艦主にたっていたのは万次郎のみ。ほとんど徹夜で艦長の役目を果たしていた」。あとで勝海舟は、航海中の指揮命令のすべてを万次郎に一任した。陰の名艦長であった。

 咸臨丸が浦賀に寄港して間もなく、万次郎は軍艦操練所教授を免職された。理由は、上司の許可を得ないで横浜港に停泊中の外国船に出向いたことだった。

 万次郎は混迷する幕府の政治や外交にたずさわる幕臣たちに開国のもたらす国益の大きさを機会あるごとに説明していた。これが理解されず、逆にアメリカの利を計る言動であると誤解され、万次郎は常に政治や外交の影の場において活動させられてきた。このような偏見や差別にもめげず、一途に日本の開国による文明開化の招来に尽くす万次郎の決意は一層に高まるばかりであった。

 

 小笠原の国土を守った万次郎

 1861年、万次郎は外国奉行水野忠徳通訳として、再び咸臨丸で小笠原諸島に出向くように命ぜられた。小笠原諸島は1593年、幕府が探検させてあったが、開拓政策もなく長らく放置し、無人島だった。1830年にはハワイ諸島から集団移民が入って来て定住した。ペリーは、アメリカ海軍の補給基地に最適と判断していた。幕府は領土保全のため開拓調査隊を派遣。父島に上ると住民代表のアメリカ人と会い、父島は日本国の領土だと万次郎が説き聞かせた。母島に渡り、島に住む14人の外国人にも同じく説明して廻った。両島の住民は小笠原諸島が日本国領土であることを認め、日本国の掟にも従うことを誓約した。万次郎はアメリカで修得した測量の技術を駆使して両島の測量を終え図面を作成して帰った。調査の成果は、外国の植民地化されつつあった日本の国土を守り、測量によって作られた図面は、その後の同諸島開発のあたっての不可欠の資料に値したと思う。万次郎ならでは果し得なかった大任であった。

 1862年、越後(新潟県)に住む富豪地主の平野廉蔵が捕鯨業を始めたと指導協力を求めてきた。親しい幕府の役人らに捕鯨業の必要性を説き、協力を求め、許可が下りた。準備をまかされた万次郎は、西洋の帆船を買い入れ、必要な機具や設備を整え、船長として乗り込んだ。鯨の群れの発見があれば、大声で乗組員を指示し、追わせた。獲れた鯨を解体して皮脂肪を切り取り、鯨油を取るまでの過程を皆に教えた。

 

 激動の時を開成教育に尽くす

 1864年、開国に前向きな薩摩藩から迎えられ万次郎は藩の開成所教授に、命ぜられた。航海・造船・測量・英語などを教えた。教壇に立つかたわら、藩命により藩士に同行して長崎に行き、外国商人と交渉して汽船を買い求めるなど藩政に積極的に貢献した。

 母の見舞いで中ノ浜に滞在中、土佐藩主山内容堂に呼ばれ、藩校「開誠館」設立に協力した。教壇にも立って教えた。館名の開成は、人知を開発して目的を達成することを意味する。

1866年7月、藩の汽船購入に長崎に行く後藤象二郎に同行するよう藩命が下った。外国商人との交渉にあたって汽船・銃砲・弾丸などを購入し、上海にもわたり、汽船と帆船を買って長崎に帰った。67年4月初め1年余りあけていた鹿児島開成所の教授に復した。11月には、幕府と薩摩藩に交わされた出向の契約期間が切れ、万次郎は江戸へ帰った。

 明治維新の世変わりの時期、新政府は有能な人材を集め、徴士と呼び各分野の役職につけた。万次郎も69年3月に開成学校2等教授、70年2月には中博士を拝命し日本の最高学府の教壇に立った。現在の東京大学の前身で、大・中・小博士、大・中・小教授、大・中・小得業士の教授人である。

 

 ホイットフィールド船長と21年ぶりに対面

1870年8月、普仏戦争視察団の一員に選出された。薩摩の大山弥助、長州の品川弥次郎、土佐の板垣退助など、そうそうたる顔ぶれで編成された。視察団は太平洋を横断し、大陸横断鉄道でニューヨークに到着した。

ホイットフィールド船長と万次郎が再会したさいと見られる写真

万次郎は30日朝、ホイットフィールド船長宅を訪問するため汽車でフェアヘブンを訪れた。21年ぶりの対面に胸がつまりしばらく言葉も出なかった。家族全員が揃い、夜明けまで思い出の話し合いが続いた。翌朝、近所の人たちが集まり、万次郎を暖かく歓迎してくれた。地元の新聞が取材し、「一人の捕鯨船長の漂流少年に対する愛情は、少年をフェアヘブンの公立学校で教育を受けさせた。その結果、彼は今日本の捕鯨産業の振興と開国のために活躍し、米国と日本の交友関係の絆を結ばせている」と報道した。

 

 晩年の万次郎は鎌倉の別邸で悠々自適の生活を送っていた。若いころには、閉ざされた日本に海外修好への扉を開かせるために尽力し、幕末から明治初期にかけては日本の政財界に活躍した多くの人材育成に貢献した。しかし、政治にかかわりある職務に就く機会は少なかった。本人もそれを望んでいなかったようである。晩年に至っても政治の権力に反発するかのように、身辺の生活困窮者に対しては細かな配慮をして援助の手を差し延べていた。

 明治初期に活躍した洋画家高橋由一が、衣食に乏しく生活に困窮していたころ、見兼ねた万次郎は、知人に呼びかけて彼の生活や修業を手助けしたこともあった。後に日本の美術界の名を成した。

 1898年(明治31)11月12日、息子の手を握って永い眠りにつき、71歳の生涯を閉じた。

              翁長に建つジョン万次郎記念碑 

 島袋さんは、35年前に万次郎ゆかりの地である大渡海岸に記念碑を建立することや万次郎の子孫と万次郎が滞在した豊見城市翁長の高安家の子孫との対面の準備を進めていたという。

 2002年5月11日に、万次郎直系の4代目、中浜博氏が豊見城市翁長の高安家を訪れ、5代目当主、高安亀平氏と151年越しの対面が実現した。その後も交流は進んでいる。

万次郎と高安家の子孫が初めて対面したさいの報道

 記念碑は、「ジョン万次郎上陸之地記念建立期成会」がつくられ、建立計画が進められている。

 これまで紹介した「ジョン万次郎物語」は、米須在住で、期成会メンバーとして熱心に活動する和田達雄さん(高知県出身。別名、和田・ジョン・たつお)の手で、手製の冊子にまとめられた。それによって読むことができた。感謝である。

 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その3

ジョン万次郎に関する記事・・・沢村さんの沖縄通信より

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島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2

2015-06-27 | web

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2

             島袋良徳さん

小渡浜に着く

1850年5月、万次郎は日本への帰国を決意した。資金づくりのためゴールドラッシュにわくカリフォルニアで金山に入り、雇われて働いたその後独立して採金を始め、70日間で600ドルの大金を稼いだ。帰国に必要な捕鯨用ボートを買い求め、アドベンチャー号と名付け、準備を整え、漂流仲間にも呼びかけ、3人で帰ることになった。

 万次郎たちを乗せたサラ・ボイド号は琉球に接近した。船長は、3人の身を案じて「米国へ帰ろう」と話したが、「母を思えば、ここから引き返せません。私はもとより死を覚悟の上であります」と答えた。

 3人はボートに乗り本船を離れた。1851年旧暦の正月3日であった。冷たい強風が吹き荒れる。懸命にボートを漕いで数時間後にやっと岸に近づいた。ボートで一夜を明かした。浜辺のヒシ(干瀬)に出ていた人々は見慣れないイフーナスガイ(異風な服装)に驚いて次々姿を隠し、一人だけ残っていたが、言葉が通じない。近くに人家があるに違いないと、万次郎ら2人が島に上って、4,5人に出会った。若者が日本語で「ここは摩文仁間切(マブニマギリ、いまの町村)である」と答えた。漂流のいきさつを語ると「日本人とわかれば大事にいたしましょう」と慰め、北の方に船着場があると教えた。

万次郎上陸地の小渡浜から米須番所への説明(和田さん作成)

 船着き場にボートを留め、小渡村の海岸に上陸した。土佐の港から出漁してから10年の歳月が過ぎていた。コーヒーを入れる準備をしている間に、村人たちが蒸し立ての暖かい芋や砂糖きびをバーキグヮー(ざる)に盛って差し入れてくれた。

 

万次郎が滞在した豊見城間切翁長の高安家の当時を再現した絵(和田さんが修整再現) 

米須番所で取り調べ

砂浜に大勢の人が集まっている。「これから番所まで案内します」と男が案内し、宿道を通り、米須の村中に入った。番所に着くと、昼食が与えられた。2人の役人から取り調べを受けた。取り調べた役人は、首里王府から摩文仁間切へ派遣されていた、下知役(ゲチヤク)は喜久里里主親雲上(キクザトサトゥヌシペーチン)、検者(ケンジャ)は新嘉喜里主親雲上(アラカキサトゥヌシペーチン)であった。3人がハワイから持ち込んだ品物も取り調べた。砂金や銀のほか、航海術書をはじめ数学、辞書、歴史、ジョージワシントン伝記など13冊の英文書と地図7枚、時計など日用品、航海に必要なオクタント(八分儀)やコンパス石板、ピストル、鉄砲など道具類があり、役人たちは見たことのない品物ばかりだった。

 

翁長村にかくまう

 検者は「3人を那覇に護送するように」と間切長に命じた。番所を出発した一行が豊見城間切、小禄間切を過ぎ、ようやく湖城村(クグシクムラ・現国場川南岸地域)にたどり着き、夜明けまで休もうと腰をおろすいとまもなく、首里王府から急便が来て命令を伝えた。「漂流者の3人を那覇に入れてはならぬ。豊見城間切の翁長村へ連れて行け」。

 那覇の手前までたどり着いた万次郎たちを引換させた理由は、時の琉球国外交官・小禄親雲上(ウルクペーチン)から那覇里主(市長役)に出した文書で明らかである。

漂流者は那覇に送るべきであるが、万次郎は米国に10年も居て教育を受けて居り、普通の漂流者とは事情が違う。那覇には英国人のベッテルハイムが滞在中であり、彼に万次郎を会わすと都合が悪いとあり、当時薩摩藩から琉球に派遣されていた在番奉行による内々の取り計らいでなされていた。

万次郎が滞在した豊見城間切翁長の高安家の当時を再現した絵(和田さんが修整再現)

 翁長村で薩摩藩から派遣された役人が取り調べにあたった。3人が国外在住したことをとがめることもなく、終始おだやかな顔で取り調べにあたった態度に安どの胸をなでおろした。

 万次郎たちの住まいにあてられた家は、徳門家(徳門は屋号、高安家)の家族が住んで居た茅葺きの家であった。家の人は急いで隣に茅葺きの家を建て、家族8人が移り住むようになった。3人をかくまった家は高い竹の柵で周囲をかこい、近くには宿舎を設けて薩摩の役人5人と琉球の役人2人が交代で詰め、監視にあたった。それでも3人は日常生活には何の不便もなかった。食事は琉球王府から3人の調理人が派遣され、米飯に豚・鶏・魚肉や豆腐・野菜などを使った質の高い琉球料理を揃え、時には王府から贈られた泡盛が添えられるほどのもてなしであった。

万次郎と高安家の子孫が初めて対面したさいの報道

 このように、漂流者である3人を特別にもてなすことは、薩摩藩の政策的な配慮にもよるが琉球王府にとっては、漂流者が土佐藩の住民であれば、王府が大事にもてなすべき過去の事情があった。

 1705年7月、琉球の進貢船が福州からの帰りに遭難して土佐清水の港に4か月間滞留した。役人、乗組員82人が世話を受け、死亡した1人は地元蓮光寺境内の墓地に墓碑も建立して丁重にまつられた。進貢船が帰国の際、土佐藩主は狩野探幽画3幅の外に2幅の掛物や尾戸焼陶器などを船に託して琉球王に贈り、船員に対しては多量の食糧品が贈られた。45年前の出来事であった。この度の漂流者は土佐藩に対する返礼の機会でもあった。

 その後、取り調べはなく、万次郎は柵を抜けて積極的に村人たちと交わり、旧暦6月25日の村の綱引にも参加した。

 

 薩摩へ送られる

 取り調べに当たった薩摩役人たちは、万次郎があまりにも外国の事情に詳しいことに驚いた。在番奉行は、万次郎は日本の開国に臨んで最も必要とする人材になると予察し、野元一郎を急便として薩摩に帰藩せしめ、藩主島津斉彬に調査始末を報告させた。

 早期開国を望んでいた斉彬は、万次郎から外国情報の得られることを期待して急ぎ鹿児島に召還することを決め、5月に護送するよう命じた。梅雨に入り、風雨の強い日が続き5、6月中に送還できなかった。

 万次郎は、片言の沖縄言葉を覚え、村の環境にもなじんでいた。高安家に滞在中の話が伝わっている。

 月夜の晩、万次郎が満月を仰いで泣いていた。わけを尋ねると「お母さんの夢を見た。元気でいればいいが心配でならない。早くお母さんに会いたい」と言い、その心の優しさに、高安家の主人も心を打たれたと言う。

 旧暦7月11日、薩摩役人が来た。本国へ送還するから出発の準備を命じた。翌朝、多くの村人が集まり、涙を流して別れを惜しむと、万次郎は沖縄言葉で「皆も元気で、もし私の手紙が届かなかったら殺されたと思って下さい」と別れを告げ、出発した。

 那覇港から18日、薩摩の官船大聖丸で出航した。12日目に鹿児島の山川港に着いた。斉彬は3人を賓客なみに扱い、人払いをして万次郎からじかに米国事情を聞いた。島津公の熱意に感心した万次郎は、英語まじりの変調な日本語でアメリカ国民の自由・平等や文化の実情を細かに語った。万次郎が与えた海事知識は、後に薩摩藩の海事政策に役立った。

 3人は、幕府の取り調べを受けるため長崎奉行所へ送られた。漂流から帰国までの事情を問いただし、踏絵を終えると牢屋に入れられた。9カ月を過ぎ、1852年6月に奉行所の判決があり、3人は土佐藩から来た役人に引き渡された。

 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その2 

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その3

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島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1

2015-06-27 | 万次郎に関する情報

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」・・・その1

高知県出身で沖縄在住の沢村さん(沢村さんの沖縄通信・・・でおなじみ)より、下記の文章をいただきましたので、何回かに分けてご紹介させていただきます。

沢村さんより・・・この文章は、島袋良徳さんという方がもう30年ほど前に書かれたもので、出版もされないままになっていたものを、糸満市米須に在住する高知県出身の和田達雄さんが、手製の小冊子にまとめられて、それを頂いたので、その中から一部を抜粋してものです。

島袋良徳著「ジョン万次郎物語」

   

               冊子の表紙

                  裏表紙

 「糸満市公報」に1990年4月号から1995年6月号まで5年2カ月、「ジョン万次郎物語」が26回にわたり連載された。糸満市文化財保護委員長をつとめた万次郎研究家の島袋良徳さんが執筆した。糸満市商工観光振興委員長の肩書である。

 島袋さんが万次郎研究にはずみをつけたのは、1966年に出された字米須の「要覧」だった。「口碑伝説」の項目に、万次郎の上陸地については、「その地点が摩文仁間切小渡浜といわれ」とあり「われわれはこのいわれをこの浜にむすんで永く記念したいものである」と記してある。「この結びの一節に強く心を動かされた」という。

 しかし、当時万次郎の小渡浜上陸は史実でないという意見もあり、万次郎のふるさと(土佐清水市中浜)を訪ねて多くの関係資料を見せてもらい、万次郎が1851年1月3日(旧暦)、摩文仁間切小渡浜に上陸したことを確かめて帰った。研究のかたわら、つとめて多くの方々と万次郎のことを語り合う機会をつくってきたという。

 「幕末から明治初期に至る日本の文明開化の夜明けに活躍したジョン万次郎は、帰国の時にこの地を選び、アメリカの文化を身体一ぱいに詰め込んで大度の浜に上陸しています。海の水は青々と澄み、風光明媚な浜辺には、明るい誇るべき真実の歴史があることを、より多くの市民に知っていただける機会になればと願いを込め」書き続けたと記している。以下、「ジョン万次郎物語」からの抜粋し要約して紹介する。

 

 捕鯨船に救われアメリカへ

万次郎は早く父を亡くし、貧乏な家に育ち、漁師になれば母に苦労をかけずに食べて行ける。そう決意してカツオ船に「かしき」(飯炊き)として乗り込んだ。船が遭難して5人が無人島に漂着した。

アメリカの捕鯨船、ジョン・ハウランド号に救われ、船名から「ジョン・マン」と呼ばれるようになった。半年後にハワイのホノルル港に停泊し、5人はハワイにとどまることになった。しかし、万次郎だけホイットフィールド船長に付いて捕鯨船に戻り、1年4カ月航海し、母港のアメリカ・ニューベッドフォードに入港した。その間に万次郎は英語を覚え、日常の会話に不自由しないほどになっていた。

 船長の郷里、フェアヘーブンに着いた。土佐では寺子屋にさえ行けなかった万次郎は、船長の計らいで小学校に入学し、16歳で勉強するチャンスをつかんだ。勉強熱心な万次郎は、成績を認められ上級のパートレット専門学校に進学した。英語・数学・測量術・航海術など高度な内容の授業にも人一倍の努力で勉強した。

 彼の勤勉さは有名で、1916年の地元新聞に「いつもクラスのトップで、優秀な成績で卒業した」という同級生の談話が載っている。勉強のかたわら、桶屋に住み込んで鯨油樽を造る技術も習得した。19歳の時、万次郎を見込んで米国一流の捕鯨船フランクリン号の船長が乗船を頼み、船員となった。

 母港を出帆して10か月目にグアム島に寄港した。万次郎はホイットフィールド船長に手紙を書いた。手紙は、これから琉球に行くことを告げ、「琉球上陸のチャンスをつかみ、捕鯨船が琉球で水や食糧を補給できるように私は琉球の開港に努力したい」と結んでいる。

 フランクリン号は小笠原諸島を西に進み、琉球列島のある小島に万次郎は上陸した。島の役人から牛2頭を贈られ、お返しに綿布を贈った。この島を「マンピゴミレ」と呼んだが、現在の何島であるかはっきりしない。

 フランクリン号は航行中に、デービス船長が発病し、後任選出を全乗組員で行い、万次郎は普通9~12年ほどたたき上げなければなれない一等航海士と副船長にわずか3年余の航海歴で選ばれた。父親同様のホイットフィールド船長は「ジョン、お前は西洋式航海術で世界を回った最初の日本人だ」とほめたたえた。

 

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沢村さんの沖縄通信・・・琉球と土佐―その深い縁(エニシ)その歴史を紐解く

2015-05-24 | 万次郎に関する情報

沢村さんの沖縄通信・・・

琉球と土佐―その深い縁(エニシ)その歴史を紐解く

                    竹内經氏が講演

 

沖縄ジョン万次郎会の定期総会が5月23日、豊見城市の市社会福祉協議会で開かれた。

総会では、9月12日に第4回ジョン万次郎サミットin沖縄&沖縄ジョン万次郎講演会を開くなど今年度の事業計画案など議案を採択した。 

総会後には「美ら島沖縄大使」をつとめる竹内經氏(静岡県出身)が「琉球と土佐、その深い縁その歴史を紐解く」と題して講演した。

 竹内氏は、1851年に琉球の小渡浜(現糸満市)に上陸した万次郎らが、那覇への護送が中止され、豊見城・翁長(オナガ)村に留め置かれたのはなぜか、その背景について次のようにのべた。

 富山藩が北前船で運んできた昆布を大坂堺の海産物問屋には卸さず、極秘に薩摩藩へ横流し、見返りに高価な「唐薬種」(中国渡来の薬)を薩摩藩から手に入れようとした。薩摩藩は当時、長崎しか許されていなかった「唐薬種」を秘密裏に琉球を介して昆布と引き換え富山にさばくことを企んだ。「唐薬種」は富山藩で和薬と調合され和漢薬として全国に広まった。抜け荷として運ばれてきた昆布は、中国へ輸出された。

 秘密裏に取り引きされていた<昆布と唐薬種>の交易の現場を万次郎らに知られたくなかったのが翁長村留め置きの理由の一つであろう。

また、イギリスの宣教師・ベッテルハイムと万次郎らとの接触を懸念していたこともある。

 万次郎らが7か月もの長期に留め置かれたのはなぜか。

 万次郎が上陸する前年の1850年、琉球から江戸に向かう「江戸上り」(99人)の一行が、江戸を発ったのは12月22日。琉球への帰還は翌年4月13日と見られる。万次郎たちの薩摩への護送は当初6月14日出立だったのが、急きょ1か月延期された。薩摩から帰った船を修理して護送船にしたのではないか。

万次郎たちは7月11日、翁長村を出立し、同月18日、ようやく大聖丸で薩摩へ向かった。護送が遅れたのも、船の調達そのものの裏事情がからんでいたとも推理できる。

 護送船の手配を含めて、王府側が多忙を極めていたことも、護送日程がずれ込んだ要因の可能性が高い。

 琉球王府が万次郎ら土佐漂着民に配慮した思惑について、次のようにのべた。

 琉球人が乗った船が時化に遭い、黒潮にのって土佐沖に漂着した記録が18世紀に少なくても3回ある。1705年に80人(滞在5か月間)、1762年に50人(2か月間)、1795年に31人(逗留日数不明)が保護され滞在した。

 滞在期間の諸経費は現在の貨幣に換算して合計3億円に近いと考えられる。

 琉球人が土佐に漂着して保護されたことへの恩義を詠んだ琉歌がある。1762年 長嶺筑登之(チクドゥン)の琉歌である。

「白浜の真砂 よみやつくすとも 土佐の御恩せや さんやしらん」(白浜の真砂は数えることは出来ても、土佐の御恩義は数えることは出来ません)。

 土佐の万次郎たち3人を7か月間保護した琉球王府の支出した経費はどのくらいだったのか。資料がない。

琉球王府と土佐藩の“貸し借り”、恩、絆、縁(エニシ)の所以がここに見出すことができる。琉球王府は、万次郎たちの漂着の報を受けて、昔、受けた土佐藩への恩義、丁重なる持て成し、気遣いを優先させたことはいうまでもない。

 9月のジョン万サミットin沖縄と併せて開かれる「第10回沖縄ジョン万次郎講演会」では、高知で発行されている「土佐史談 中濱万次郎特集号」に沖縄から執筆した神谷良昌、當眞嗣吉両氏が講演することになっている。

 

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沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎上陸の地を歩く

2015-03-28 | 万次郎に関する情報

沢村さんの沖縄通信・・・ジョン万次郎上陸の地を歩く

糸満市米須に住む和田達雄さん(越裏門出身)の案内で、ジョン万次郎が初めて琉球に上陸した地を歩きました。和田さんは、ここに万次郎上陸の地の記念碑を建立しようと、期成会副会長として活躍している方です。 2015/03/27 (金) 沖縄 沢村                                                                                

ジョン万次郎がアメリカから帰国する際、上陸したことで知られる沖縄・糸満市の大渡海岸を歩いた。今回は、ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会副会長の和田達雄さんが案内をしてくれた。和田さんは、高知県出身で近くの米須に住んでいる。記念碑建立に情熱を注いでいる方である。

 大渡海岸は、いまダイビングやシュノーケリングの適地として、県内外から人々が集まる。この日も、朝からアメリカ人を含めてダイビングやサーフィンを楽しむ人たちが駆けつけていた。大度海岸は「万次郎ビーチ」とも呼ばれている。

 写真は、大度海岸

 和田さんは、「ジョン万次郎の琉球上陸、半年の足あと」を文章にまとめ、「下船から上陸までの経緯」「上陸小渡浜から翁長村への道順」を、写真や図を使ってわかりやすくA3用紙2枚に図解している。パネルにして近くの「海の見えるレストラン」に展示もしている。写真は、展示されているパネル。

 

万次郎(23)と伝蔵(47)、五右衛門(25)の3人は、ハワイから商船サラボイド号に乗船して琉球の喜屋武(キャン)岬沖まで来て下船し、小型ボート・アドベンチャー号を降ろした。雨と霙(ミゾレ)混じりの寒い荒海の中、10時間近く漕ぎ、大渡海岸沖の干瀬(ヒシ)の浅瀬に着き、一夜を過ごした。翌朝、ヒルクイエ(海水温が急に凍え死んだ魚)を捕りに来た村人に出会う。異様な容姿に驚いて逃げてしまったが、一人の若者が話しかけてきて、「ここは琉球の摩文仁間切(マブニマギリ、いまの町村)」と応える。「どこから来たのか」と尋ね、漂流して異国で10年過ごし帰国する旨を話すと、安心したのか「ここから東によい船着き場があるので、そこへ回りなさい」と教えてくれた。3人は広い海岸の東端にある小渡浜に無事上陸した。

1851年2月2日(旧暦正月2日)のことだった。

 

 数年前に、大渡海岸を見た時は、漠然と広い砂浜の中央部にでも万次郎は上陸したのかと勝手に思っていたが、まったく違っていた。

 ちょうど潮が引き、浅瀬の岩場が海面から出て来た。駐車場から岩場に降りて、イノー(礁池)の上を上陸地の浜に向って歩いていった。途中に、海岸沿いに岩石が連なっている。動物の姿に似た奇岩がある。和田さんは、そんな岩を見つけては命名してきた。

「ふくろう岩」「ゴリラ岩」「シ―サー岩」「ライオン岩」「カメレオン岩」。中でも「鷲の親小岩」(写真)はとてもよく似ている。自然の岩とは思えないほどの造形美である。

潮が引くと、イノーの中に、青い熱帯魚がたくさん泳いでいる。水際の岩場から、湧水が流れているところもある。足を滑らせないように注意しながら岩場を回っていくと、小渡浜に着いた。

 

 小渡浜は、小さな入り江になっていて、東側は崖がそそり立っている。昔は山原船(ヤンバルセン、本島北部の物産を運搬した小型帆船)が入ったそうだ。浜には下部がえぐられた巨岩も立っている。浜の西側、岩石が連なっている中に、ポッカリと岩の割れ目が見える。写真は小渡浜を案内する和田達雄さん。

 

 「この割れ目から万次郎は中に入ったんだよ」と和田さん。身体を斜めにして、少しかがみながら割れ目をすり抜けた。私も後に続いたが本当に狭い。割れ目から入ると、周囲が岩に囲まれた砂地があり、ちょっとした広間のようになっている。万次郎らは、身の保全と食事をとるため安全な場所を探した。ここで朝食をとりコーヒーを飲んだのではないか、和田さんは説明する。

 

 「高知県の地図があるよ」と近くの岩を指差した。言われれば空洞部分が高知県の姿に似ている。こんな岩を見て「高知県に似ている」などど、喜んでいるのは、2人とも高知出身だからだ。沖縄に来るまでは、縁もゆかりもなかった高知人2人が、沖縄の地で万次郎の上陸地に立っていること自体が、不思議な偶然である。写真は、高知県地図に似た岩の空洞。

 小渡浜の東側の岩崖の下部が少し窪んでガマのようになっている。「あそこは岩が黒くなっているでしょう。あれは米軍の火炎放射器で焼かれた跡だよ」と和田さんが説明する。見ると、本当に岩が黒く焼けただれたようになっている。写真は焼かれて黒くなった岩。

沖縄戦で米軍の進攻を受け、首里から撤退した第32軍は摩文仁に司令部を置いた。摩文仁に近いこの大渡海岸は、追い詰められた住民らが逃げ惑った場所でもある。ちょっとしたガマにも避難し、海岸沿いの湧水もすくって喉を潤しただろう。

このあたりは、摩文仁には平和祈念公園と「平和の礎(イシジ)」があり、米須には「ひめゆりの塔」がある。沖縄戦の悲劇がどこにも刻まれている地である。

 

 大渡海岸を訪れる人は、年々増えているようだが、万次郎の上陸地の足跡を示すものはこの場所にはない。「万次郎ビーチ」と呼ばれても、その意味を伝えるものもない。写真は万次郎上陸地の小渡浜。

ジョン万次郎上陸之地記念碑建立期成会は「万次郎上陸の歴史的価値を後世に伝え」、万次郎が鎖国日本の開国に貢献し、「琉球の夜明けはもとより日本の夜明けが、ここ大渡浜から始まったことを明らかにする」(同趣意書)ために、記念碑建立が必要だと主張している。

まだ建立は具体化されていないが、その前に当面「ジョン万次郎上陸之地」の看板を5、6月にも設置したいと準備を進めているそうだ。

 

万次郎らは、小渡浜に上陸したあと、2人の役人に連れられて米須村にあった摩文仁番所(役所)に向かった。万次郎らが通った昔の宿道(公道)を和田さんが案内してくれた。

万次郎ら一行は、岩崖を上がり宿道に出て、小渡村に向い急な坂のニンブイビラ(ヒラとは坂道のこと)を通り小渡村の元家(ムートゥヤー、村落の本家)、玉城家に寄り挨拶をして、お茶をいただき小休止する。そして、カテーラビラを上り番所で待機した。ちょうど昼時になり、近所の村人がたくさん出迎え、温かいふかしイモや差し入れをいただいた。

玉城家のあった場所や摩文仁番所跡は、いまは建物もなく、説明してもらわなければわからないままだった。摩文仁番所が、摩文仁ではなく、米須にあったことも説明を聞いてわかった。写真は、小渡浜から翁長村までの道順を示すパネル。

 

万次郎ら3人は、王府から派遣された役人2人の簡単な取り調べを終えて、午後4時過ぎ、徒歩で那覇に向かう。途中だんだん暗くなり、松明(タイマツ)に火をともして歩き続けて、小禄番所(現在は那覇市)にやっと着いた。

その後、垣花のガジャンビラの近くまで来たところ、那覇から来た役人の指示があり、豊見城間切翁長(オナガ)村に行くように伝えられる。その理由は、イギリスから宣教師として派遣され、那覇にいたベッテルハイムが活動していて、3人と会わせるのはまずいとの薩摩藩の役人の判断があった。那覇から離れた翁長村に向かう。

歩き疲れたため、役人の配慮で籠を用意してもらい翁長村に到着すると真夜中になっていたが、夜明けまで取り調べを受けた。その後、徳門家(屋号・トクジョウ)の高安親雲上(ペーチン、琉球士族の称号の一つ)の母家を借りた。写真は、万次郎が滞在した当時の高安家の家屋敷と思われる風景を復元した絵。

 

以後、旧暦7月11日、翁長村を離れるまで、半年間にわたり翁長村に滞在することになる。

竹の柵で母家の周囲をかこみ、薩摩役人5人と王府の役人3人が交代で監視した。食事は、琉球王府より調理人3人が派遣され、米飯に豚、鶏、魚肉や島豆腐、野菜などを使った琉球料理を毎日食した。時には王府から泡盛が送られもてなしがされた。

琉球王府のもてなしの背景には、次のような事情があったと考えられる。

1705年7月、琉球の進貢船が中国の福州からの帰りに遭難して、土佐清水の清水浦に入り4か月間滞留した。その間、進貢船の使節通訳官である奥間親雲上はじめ役人、乗組員82人が土佐藩の世話を受け、現地で病死した1人は地元の連光寺境内の墓地に墓碑も建立され丁寧に祀られた。帰国の際、土佐藩主は絵画、掛物、陶器などを琉球に贈り、船員には多量の食糧品を送った。琉球王府にとって、土佐で介護してくれた土佐藩に対する返礼の機会でもあった。

万次郎ら3人はその後、同7月18日、那覇港を出港し薩摩の山川港に向かった。

以上の万次郎らの琉球上陸と半年の経緯は、和田達雄氏の執筆した「ジョン・万次郎の琉球上陸 半年の足あと」からの抜粋、要約である。

 

土木遺産に認定された「用之助港」

大渡海岸には、「用之助港」と呼ばれる港跡がある。和田達雄さんが案内してくれた。万次郎とは無関係である。

白い砂浜の沖合は、珊瑚礁が広がり、その外縁に環礁があって、舟は入れない。そのため、環礁を掘削して舟が入れるようにしたのがこの港跡だ。明治40年に完成した。当時佐賀県から沖縄にきて島尻郡長を務めていた第11代齊藤用之介が、漁業振興のため掘削させた。「大渡の用之助港」は「珊瑚礁に囲まれた沖縄ならではの土木遺産として価値が高い」として、2009年に「土木学会推奨土木遺産」に認定された。写真は「用之助港」。

実際に現場を指揮した蒲助の名を取り「蒲助港」という別名がある。

「 用之助港」の近くに、岩が3個かある。2014年7月6日の台風8号によって海底から陸揚げされた。和田さんは、万次郎らが最初にボートで漂着したことにちなんで、「伝蔵岩」「万次郎岩」「五右衛門岩」と3人の名前をつけている。

写真は、和田さんが3人の名前を付けた岩。

沖縄の南部を回る機会があれば、ジョン万次郎がアメリカから帰国し、最初に上陸したこの地を訪ねて、万次郎を想起してほしい。

 

 

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ジョン万次郎~アメリカの歴史に最初に名を残した日本人

営業時間: 8時30分~16時 休館日 : 毎週水曜日
入館料 : 大人料金 200円、高校生以下無料
所在地 : 土佐清水市養老字吹越303
駐車場 : 約40台(乗用車)
問い合わせ: (社)土佐清水市観光協会・海の駅あしずり(あしずり港内)
電話: 0880-82-3155 FAX: 0880-82-3156
※研修施設有り、1階・2階 各種会議・展示会ご利用をお待ちしています。
※2006年4月20日に、養老のあしずり港「海の駅あしずり」内に移転しました。

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中浜万次郎の銅像
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海の駅あしずり と「ジョン万ハウス」2
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2014-09-30 | 万次郎に関する情報

沖縄ジョン万次郎会が講演会 「たった一人の日本遠征」

 沖縄ジョン万次郎会第9回講演会が9月27日、豊見城市の市社会福祉センターで開かれた。万次郎の研究者で川澄哲夫元慶大教授が「たった一人の日本遠征」と題して講演した。土佐ジョン万会から内田泰史会長も出席した。

川澄先生は、愛知県生まれで、84歳。アメリカで英語を学ぶため行った先が、偶然、ケンダル捕鯨博物館(マサチューセッツ州)だった。万次郎を知る人と出会った。その後、捕鯨船にも乗り、捕鯨博物館学術顧問も務めた経歴をもつ。 アメリカ、ハワイから万次郎に関する資料がたくさん送られてきて『中浜万次郎集成』を出版した。その他著書多数。

 講演のキーワードは「二人の万次郎がいる」ということ。それは、万次郎が琉球上陸以降、幕府などの取り調べで、外国の事情など聞いた記録は、本当の万次郎が出てこない。万次郎は、日本の開国を統領(将軍)に直訴するために日本に帰国したことを強調した。

 万次郎を救った捕鯨船の『ライマン・ホームズの航海日誌』や万次郎の英文書簡、クジラ捕りの労働条件改善を目的とした新聞「フレンド」紙、江戸幕府取調記録など資料を駆使して話した。

 講演と同氏が執筆した「ジョン・マンの夢」(土佐清水市発行のパンフレット)からエキスを紹介する。

 捕鯨船に救われた万次郎は、アメリカで教育を受け、捕鯨船に乗り、世界の海を旅して国際的な視野でものを考えるようになった。なんとか帰国して、琉球あたりにアメリカの捕鯨船が自由に入港できる港を開くよう、統領に直訴することが自分の使命だと考えるようになった。

 帰国を決意すると、ハワイで知己を得たデーマン牧師に対し、その覚悟をしていると話す。デーマン牧師は、これを「日本遠泳」と名付け、「フレンド」紙に「無事に故国へ帰り着き、日本の開国に貢献し、ひいては通訳として成功する」ことを祈った。万次郎の帰国は、ペリーの日本遠征に先立つ2年前だった。

 1951年、琉球に上陸し、取り調べを受けた際、「アメリカは大国ゆへ、他国を取るに及ばずとの了見」であると、領土的野心がないことを繰り返し強調した。琉球を離れ、薩摩、長崎、土佐で取り調べを受け、ようやく放免されたが、『外国の様子を猥(ミダ)りに物語りなど致さざるよう」仰せ渡され、日本を開国する力になりたいという夢は消え去った…

 ペリーが来航すると、万次郎は幕府に呼び出された。1853年10月、老中筆頭・阿部正弘、林大学頭ら幕府高官が列座する中で、アメリカの国情、ペリー来航の事情など聞かれる。万次郎にとっては、「統領に直訴」する絶好の機会であった。

 アメリカの政治について、上下の差別がなく、大統領は人民の入れ札で選ばれ、任期は4年である、アメリカが日本と「親睦いたし度とのこと」は「彼国積年の宿願」である、日本近海で遭難した米捕鯨船乗組員が日本で「咎人(罪人)同様の扱いを受けた」が、アメリカは日本人漂流民を保護してくれる、米人は「両国の和睦を取り結びたい」と申している、米捕鯨船が薪水食料を補給できる港を「薩州南島の内又は琉球」あたりを望んでいることなどを堂々と話した。

 1854年3月、結ばれた神奈川条約は、下田、函館の開港、合衆国漂民扶助の規定が盛り込まれている。ここに、万次郎の「捕鯨ボートによる日本遠征」は終わりをとげた。

 このあと万次郎は、咸臨丸の通弁官として渡米する。咸臨丸に同乗してアメリカに帰ったブルック大尉は、「咸臨丸日記」の中で、「万次郎が、日本の開国にあたって、誰よりも大きな貢献をしていることは、大変嬉しい」と記している。デーモン牧師も「ジョン・マンが日本の開国に大きな役割を果たしたことは間違いありません」と書簡で述べている。

 講演を聞くと、この演題に込めた意味がよくわかる。万次郎が果たした先駆的な役割を明らかにした講演だった。

 

 

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