「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒  追記

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信

追記


 


この小論を書いた後で、天野徹夫氏が書いた「黒岩恒―沖縄自然界の学問的開拓者」という黒岩氏の業績をまとめた著作を見ることができた。


「新沖縄文学」三七号(一九七七年)に「特集・沖縄研究の先人たち」の一人として掲載されている。その中から、黒岩氏の経歴について若干の補足をしておきたい。


 


黒岩氏は、幼児に父から学問の手ほどきを受け、次いで伊藤徳祐の塾で習字、四書・五経を習い、その後、名教館及び陶治学校に移り、西洋の学問や土佐南学を学んだ。


その後独学で専門学科を研鑽し、諸種の課程の教員資格を得て、佐川小学校に勤務した。


さらに、高知県尋常中学校(後の旧制中学校)や高知県農学校に勤務し、その間、県内の動植物や自然地理の調査・研究を手がけた。


 


 沖縄には、一八九二年(明治二五年)、師範学校兼沖縄県尋常中学校の博物並びに農業の教師を命じられて来たという。


黒岩氏が、沖縄行を決意した動機には、沖縄の動植物・農林業・民俗を学問的に最初に調査研究した田代安定(鹿児島県出身)という人物の「調査研究論文による研究欲の刺激と、牧野の勧めによるものと云われている」と天野氏は述べている。


牧野氏の勧めもあったようだ。


 


黒岩氏は、沖縄に来て社会・風土・自然界に愛着を感じ、沖縄に永住する決意をした。「私の死に場所は名護に決めている」と語っていたという。


しかし、長女が一九歳で、と長男が二〇歳で相次ぎ死亡し、長年苦労して蒐集した研究資料が弟子に預けていて火災のため焼失するなど不幸が重なった。


それで、一九二〇年(大正九年)に和歌山県に移り、東京大学の嘱託を受けて、淡水魚類を調査した。


和歌山市、大阪市と住居が変わるが、大阪市で奥さんに先立たれた。養子をもらうことになり、和歌山県高野口町に転居し、一九三〇年(昭和五年)同町で死亡した。


息子を養子に出した実父母によって「沖縄の愛弟子たちが、いつか必ず黒岩のおじいさんのお墓参りに来る」といって、町内に黒岩夫妻の墓が建立されたという。


 

HN:沢村   月刊誌「高知人からの転載




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