出典:土佐清水市 ジョン万ハウスより
明治維新、自由民権運動にも影響が
万次郎が、一五〇年余りを経てたいまも、このわずか半年滞在しただけの沖縄で、愛され、関心を持たれている背景に、万次郎がその後、日本社会に影響を与えた役割に対する評価があるからではないだろうか。
もし、万次郎が自分の知識や語学力を自己の栄達や利益のためだけに使う人間だったら、このような関心はもたれなかったのかもしれない。
島津斉彬の聴き取りで、万次郎が伝えた話の内容は、斉彬のその後の政治思想や行動に直接、間接にさまざまな影響を及ぼしたであろうことは否定できない。
斉彬は、こころざし半ばで亡くなるが、その後、その遺志を受け継いだ薩摩の志士たちは明治維新で大きな役割を果たした。
万次郎は薩摩藩が設立した開成所の教授にも招かれた。家老の小松帯刀には外国事情などを話し、小松は「今日必要の人物です」と高く評価した。「万次郎が島津藩(斉彬)に与えた強烈なインパクトが、維新回天のエネルギーになったといっても過言ではないであろう」(『中浜万次郎集成』の解説論文)という指摘もされている。
郷里の土佐藩では、吉田東洋を先頭に藩の幹部が万次郎から海外事情を学んだという。
絵師の河田小龍が書いた万次郎の海外見聞録というべき『漂巽記略』を坂本龍馬は早くから読んでいたそうだ。
龍馬は、新しい日本の基本方向について、政権を朝廷に返還し、議会を設け万機公議に決するなど「船中八策」をまとめた。その骨格的な内容は、明治維新の「五箇条御誓文」に引き継がれた。「この発想の根底に万次郎の影響が多分にあったと見るのが自然である」(同前)。
後藤象二郎は、少年時代に吉田東洋の部屋で、万次郎と出会った際、万国地図をもらったという。
後藤が土佐藩に殖産興業のため開成館を創立すると、万次郎は招かれ、英語その他を学生に講じた。さらに、後藤は万次郎とともに汽船など買い付けのため長崎から上海まで行った。
後藤は、明治維新後に新政府に参加するが、下野して、専制政治を批判し一八七四年(明治七年)、板垣退助らとともに、民選議院(国会)の開設を求める建白書を提出し、これが自由民権運動の口火となった。
万次郎がもたらしたアメリカ・デモクラシーの思想は、明治維新ではいまだ実現せず、その後、起こった自由民権運動にも、その影響が投影されているといっても過言ではないだろう。
村田典枝氏は、万次郎が新しい知識や技術にとどまらず、日本の開国や対米関係について臆することなく意見を述べ、みずからの体験を通じて学んだ人道主義や民主主義を伝えたことが、どんなに強い影響を与えたのかについて、次のように指摘している。
「日本の黎明期に、新しい道を求めて模索していた多くの若者たちに、直接、間接的に影響を与えたのだった。それが開国に向けた大きなうねりの中で、やがて明治初期の自由民権運動へとつながっていった」(「ジョン万次郎とその生涯」)。
万次郎は、決して政治の表舞台に立って働くような立場ではなかった。
それにもかかわらず、一五八年を経た今日も、その人と仕事に対する評価が、低下するどころか逆にさまざまなメディアでも取り上げられ、その功績が評価されている。
それは、沖縄でもまったく同様である。短い期間であっても、沖縄に滞在した万次郎という人物が、幕末から明治維新という日本社会の大激動の時代に、一つのインパクトを与え、歴史を前に進めるうえで欠かせない役割を果たしたことは、万次郎にゆかりのある県民としても誇りに思えることなのだろう。
だからこそ、いまなお語り継がれている理由の一つになっているのではないか、そう強く思う。
HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に) 月刊誌「高知人からの転載」