「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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三郎さんの昔話 目次

2011-03-17 | 三郎さんの昔話

三郎さんの昔話 目次

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三郎さんの昔話・・・作者紹介

三郎さんの昔話・・・
三郎さんの昔話・・・
三郎さんの昔話・・・
三郎さんの昔話・・・
三郎さんの昔話・・・雷の子
三郎さんの昔話・・・もの言う地蔵さん
三郎さんの昔話・・・地獄の門(二)
三郎さんの昔話・・・地獄の門(一
三郎さんの昔話・・・家伝の名灸

三郎さんの昔話・・・嫁とり
三郎さんの昔話・・・はんこ(印鑑)
三郎さんの昔話・・・大蛇と万次
三郎さんの昔話・・・侍小平太
三郎さんの昔話・・・古狐おさん(二)
三郎さんの昔話・・・古狐おさん(一)
三郎さんの昔話・・・一つおぼえ
三郎さんの昔話・・・プップー兵太
三郎さんの昔話・・・立ちんぽ(いたどり)
三郎さんの昔話・・・浮姫物語(夢のお伽ばなし)
三郎さんの昔話・・・富美子
三郎さんの昔話・・・刀と数元さん
三郎さんの昔話・・・誕生(父)
三郎さんの昔話・・・誰が偉い
三郎さんの昔話・・・祖父母の思いで
三郎さんの昔話・・・昔の歌
三郎さんの昔話・・・数元さん(父)
三郎さんの昔話・・・神、神の談話
三郎さんの昔話・・・失敗と不注意
三郎さんの昔話・・・奇妙なお呪い
三郎さんの昔話・・・間引き
三郎さんの昔話・・・怪つり(かいつり)
三郎さんの昔話・・・安堵
三郎さんの昔話・・・めしと汁
三郎さんの昔話・・・みみず
三郎さんの昔話・・・へそ(臍)
三郎さんの昔話・・・にぎりは怖い
三郎さんの昔話・・・スッポン
三郎さんの昔話・・・お好さん
三郎さんの昔話・・・おどけた話
三郎さんの昔話・・・えぇこと金儲け
三郎さんの昔話・・・いかもの食い
三郎さんの昔話・・・はしょうぶ
三郎さんの昔話・・・のがま(野鎌)
三郎さんの昔話・・・昇天(母と子の問答)
三郎さんの昔話・・・氏より育ち
三郎さんの昔話・・・かぼちゃの子
三郎さんの昔話・・・言葉のあや
三郎さんの昔話・・・川入り(身投げ)
三郎さんの昔話・・・消防演習
三郎さんの昔話・・・田 役
三郎さんの昔話・・・霊が舞う
三郎さんの昔話・・・怒るおやじ
三郎さんの昔話・・・鉄砲鍛冶の忍術使い
三郎さんの昔話・・・三倉神社と投げ子
三郎さんの昔話・・・半蔵さんの話
三郎さんの昔話・・・栗本半蔵
三郎さんの昔話・・・士族かたぎ(堅気)
三郎さんの昔話・・・こっくりさん
三郎さんの昔話・・・代参詣で(三宮)
三郎さんの昔話・・・やっこさん(はやり仏)
三郎さんの昔話・・・霊 魂
三郎さんの昔話・・・飛行機
三郎さんの昔話・・・いさかい(争い、喧嘩)
三郎さんの昔話・・・遊 女
三郎さんの昔話・・・ちょんがり
三郎さんの昔話・・・野中兼山の昔話
三郎さんの昔話・・・幽霊の絵話
三郎さんの昔話・・・だれやの一杯
三郎さんの昔話・・・野の田の鍛冶屋(二)
三郎さんの昔話・・・野の田の鍛冶屋(一)
三郎さんの昔話・・・田舎の王様さん
三郎さんの昔話・・・怖い落雷
三郎さんの昔話・・・一言三文なり
三郎さんの昔話・・・狐の嫁入り
三郎さんの昔話・・・気ちがい
三郎さんの昔話・・・産 火
三郎さんの昔話・・・よばい(夜這い)
三郎さんの昔話・・・狼と猪
三郎さんの昔話・・・卯ヱ門さん 余談
三郎さんの昔話・・・卯ヱ門さんと狼(二)
三郎さんの昔話・・・卯ヱ門さんと狼(一)
三郎さんの昔話・・・豪傑卯ヱ門さん

三郎さんの昔話・・・怖い(首吊り)
三郎さんの昔話・・・火 玉
三郎さんの昔話・・・怖いこと、昔も今も
三郎さんの昔話・・・天狗とおまん
三郎さんの昔話・・・おかみ(神)さん
三郎さんの昔話・・・小吉と小鳩
三郎さんの昔話・・・山姥
三郎さんの昔話・・・嫁かつぎ
三郎さんの昔話・・・犬神の話し
三郎さんの昔話・・・犬神付き
三郎さんの昔話・・・花嫁おばけ
三郎さんの昔話・・・大六と弁当

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三郎さんの昔話・・・雷の子

2011-03-17 | 三郎さんの昔話

                                                 雷の子

 ある村里から隣村へ越すに小高い小山は峠の山道である。
村里から少し離れた峠に近い道ぶちに小屋が一軒あり、そこに住む住人は三十五才になる喜助とゆうきこり(薪を切ったり炭木を焼く山師)と二十八才になる好とゆう若い夫婦が仲良くひっそりと暮らしていたが、夫婦になって十年も日がたつに子供がなく子宝を望んでいたがなかなかに出来なかった。

梅雨明けも近いある日のこと、おなか大きい夫人の旅人がこの峠道を歩いていた。
この時、天にわかに掻き曇り大つぶの雨がざわさわと降りだし遠くに雷をまじえて雨は降り止まず、旅の夫人は何処か雨やどりをと見回すと道端に小屋がある、駆け寄って雨やどりを願うと、家にいた好か「えらいさだちじゃのぅ、ここへ腰を下ろし、やまして行き」と言いながら番茶を入れてくれた。夫人は頭をさげ番茶を静かに飲んでいた、その時、雷が近づいて来たのか、すぐ近くの空でゴロゴローをドドンドンと小屋を揺るがし、家から少し離れた杉の大木に落雷した。

その雷鳴の大きかったこと、好も旅の夫人も身震いした。
その雷鳴の異常なショックに腹太の夫人が急に腹が痛みだした臨月の陣痛である。
好はあわてて夫人をむしろ敷の座敷に入れ腹をさすったり介抱する。
その内に喜助が帰って来た、この様子を見て「どうしたがぞ」と好は「大変じゃ旅人が雨やどりに寄ったら、さっきの大雷で腹が急に痛うなって子ができゆうが」、「そりゃおうごとじゃ」、
「早ぅ湯を沸かしちょいて」と喜助は「おう」と答えて竈へ、産婦はウンウンと息んではハァハァと息を吐いては又息むが母体が衰弱しているのと難産で夜になって子どもがやっと産まれた。

産まれた子どもは丸々と太ったりりしい男の子であった。
母親は衰弱に難産の苦痛で出血が止まらず弱り息もたえだえで、枕もとで見守ってくれている喜助と好に「この子のてて親は真面目で丈夫な働き者でしたが、この子を身籠もって間もなく、ふとしたはやり病で急死しました。亭主には身寄りがなく、窮して私は遠縁を頼って行く途中でした。図らずもお宅にご迷惑をお掛けし色々とお世話になりました。
ほんとうに有り難うございます。私の体はもうつきました、お見かけするにお家にはお子さんがいない、この子の親になってお育て下さい、私は野辺からこの子が立派な人になるよう見守っております。」と言って息絶えた。

喜助、好の夫婦は子どもを授かった嬉しさと、この母親の不幸を哀れみ、翌日に落雷のあまった大杉のそばの近くに穴を掘り仮埋葬し子どもの守り神として山石を立てた。
子どもの名前は落雷に驚き産まれた子じゃきに雷太と名付けて育てることにした。

 さて、産まれだちの赤子を育てるのは大変、玄米をいって粉にひき湯でまぜて乳糖をつくって飲ませたり、村里に乳飲子の母をたずねて、もらい乳して、一生懸命だいじにしてふとらした。
夫婦の愛情とかわいがりで、すくすくと元気に育つ、喜助はきこりの生で、山うさぎやきじ小鳥など輪差を掛けて捕獲する技を心得ていて、うさぎや鳥など捕ってきては雷太に食べさした。

十年程たつと雷太は並の子どもよりも身体はぐんと大きく力強く優しいえい子どもになり、父親の薪切りや炭焼きの手伝いもし、薪や炭も背負うたり担って山裾の里の家々を回って売り歩き、父母の手助けをよくする孝行者の元気な怪童であり、里の人々から褒められ噂されていました。それから三年の月日がたった、雷太十三才になった、身体は大人よりもずんと大きく筋肉たくましく、父母の仕事の手伝いも良くできて、喜助、好の渡世もよくなった。

その年の秋のこと隣の町に大相撲の興行があり、親子三人で見物に出かけて、もの珍しく見入っていたら、里から見にきていた人々から雷太の怪童に相撲を取らしてみたらと話がもち上がり、興行師に話したら、よしと言うことで、雷太をすすめて土俵に上げた、下っぱの弟子から組んだが、雷太はぴらぴらと四、五人投げ飛ばしたりぶち付けた。
観衆の手が鳴り歓声が上がった。これを見ていた相撲の親方が、この子は見込みがあると、相撲の取り組みが終えると、親方が喜助ら夫婦を呼び止めて相談に係った。喜助夫婦はこの子は家の手伝いをする大切なえい子じゃけと断ったが、親方はこの子は見込みがある三、四年仕込んだら立派な相撲取りになる。

そしたら親孝行をさすけ、少しの辛抱じゃと言いくるめられ喜助夫婦も雷太が出世できるなら、自分等はまだ若い五、六年は元気で働けると腹を決めて、相撲の親方に預けることにした。
 それから五年の歳月が過ぎた。村里に毎年やって来る薬売りの噂によると、今、江戸で雷伝と言う強い相撲取りがいて負けを知らずの大人気じゃとのこと。

その後の雷太は弟子入りしてからは技子名も雷伝と名乗り、熱心に稽古に励み、持ち前の体躯と腕力を活かして相撲に取り組み負けることなく大関に出世し、賞金や花(祝儀)を稼ぎ大金を里山の父母に送り付けてきた。喜助と好はその金で家も新築し、次々の送金で孝行息子の雷太に感謝し、健在を祈りつつ、老後を気楽に過ごすことができた、と。

◎関取 雷伝為ヱ門の伝説、人助けは他人のためだけでない。

 

 

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三郎さんの昔話・・・もの言う地蔵さん

2011-01-13 | 三郎さんの昔話

もの言う地蔵さん

 昔、ある城下町に近い山里に、五作とゆう男の子と母親の二人が、ほそぼそと暮らしていました。
 貧しい暮らしに無理がいて母親は病気になり、床につき寝たきりになってしまいました。それで五作は毎日山に行って薪を拾い集めては、それを背負い、山を下って町に出て薪を売って、その日その日を過ごしていました。

 その内にお正月もちかい暮れになりました。町の家々ではペッタンコペッタンコとお餅をつく音が、あちらでも、こちらでもして、薪を売り歩く五作の耳にたまらなく聞こえてくるのでした。

 翌日の朝も早くから山に行き薪をたくさん作って背負い山を下りながら、町の餅つきの様子を頭に浮かべ、五作は、
「ペッタンコ、ペッタンコ餅ついて、おっ母あに食わしたいなあー」
と二、三度言った。

 そしたらどこかで、
「ペッタンコ、ペッタンコ餅ついて、おっ母あに食わしたいなあー」
と二度聞こえてきた。
 五作はふしぎに思って見まわしてみたが誰もいない。草道に、道ばた地蔵さんが一つこちら向いて立ってるだけ。

 五作は頭を傾け、お地蔵さんを見ながら、
「ペッタンコ、ペッタンコ餅ついて、おっ母あに食わしたいなあー」
と言うてみたら、お地蔵さんの顔がニッコリと笑うように見えて、
「ペッタンコ、ペッタンコ餅ついて、おっ母あに食わしたいなあー」
と言うた。

 五作は、も一度言うてみた。お地蔵さんは五作の言うたとうりに、もの言うた。
 五作は興奮したが、心おちつけ手を合わし拝みながら、お地蔵さん、私と町へ出て、ものを言うて下さいと頼み、薪とお地蔵さんを背負い町に出た。

 五作は大きな声で、
「ものゆう地蔵さんじゃー、ものゆう地蔵さんじゃー」
と。その声を聞いて人々が集まって来て、もの言わしてみいと。五作はお地蔵さんをだいじに下ろし、手を合わし拝んでから、
「ペッタンコ、ペッタンコ餅ついて、おっ母あに食わしたいなあー」
と言うと、お地蔵さんも、
「ペッタンコ、ペッタンコ餅ついて、おっ母あに食わしたいなあー」
と、ものを言うた。

 集まった人々はビックリしたり感心したり、五作の親孝行をめでてお地蔵さんがもの言うたがじゃ、と薪は値良うに買うてくれるし、注文もあるで五作は喜んでいた。
 そのうちに、この話がお城のお殿様の耳に入り、五作はお城に呼び出された。お殿様やご家来衆大勢の前で、
「五作とやら、その地蔵にもの言わしてみよ。」
と。五作はお地蔵を大切にすえて拝み、
「ペッタンコ、ペッタンコ餅ついて、おっ母あに食わしたいなあー」
と言うと、お地蔵さんが、
「ペッタンコ、ペッタンコ餅ついて、おっ母あに食わしたいなあー」
と、ものを言うた。これを聞いたお殿様、
「五作あっぱれである。その方の孝心をめでてのお地蔵のご慈悲じゃ」
と、おほめの言葉とご褒美の金すを載き、五作は喜び家に帰った。

 ご褒美のお金で薬も買えて母親の病気も良くなり、五作は精出して働き立派に成人したと。
 お地蔵さんは大切に元の所に納め、お堂を立てていつまでもあがめたと。

 この話はずっと前に聞いたのを書きました。

 

 

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かたりべ、三郎さんの昔話 (作者紹介)

2010-12-31 | 三郎さんの昔話

「れいほく」地域の、昔話を書き綴った、かたりべ

これまでの「高知ファンクラブ」での連載を、まとめました。

 

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三郎さんの昔話・・・作者紹介

 

昔話の作者
  本名北村寿雄1916年(大正5年1月28日)
  高知県長岡郡本山町本山生まれ
  ペンネネーム三郎(病床にてお三倉様より名前をいただく
  元日本専売公社を定年後、昔話の制作を始め現在までに
  200作近く制作している。
  現住所は高知市東秦泉寺515-110
  TEL 088-875-8202 妻澤子との2人暮らし。

※ 北村寿雄様は、2008年3月17日ご逝去されたそうです。
  ご冥福をお祈りしながら、「三郎の昔話」を多くの方にお知らせすることで 北村寿雄様の偉業を 称えたいと思います。


かたりべ
「かたりべ」とは祖父母や父母が小さい子供に生きて行く上での、注意事項や危ないこと、経験談に昔話を添えて、面白く楽しく話し聞かしてくれた。
 明治になって小学校が出来て、庶民が読み書きを習うようになった、それまでは、字の読み書きが出来たのは神官、坊さん、学者、武士に商人の一部で、 貧しい一般庶民は文盲で読み書きできなかったので、大切なことや注意事項などに面白い話しを加えて、子供や孫へと話しで語り伝えてきた。
 其れが「かたりべ」であり、これは庶民の知恵であり歴史の一旦でもある。
 七,八十年も昔、祖父母や父母の「かたりべ」を懐かしく思い浮かべて、昔話を書き綴ってみた。(北村寿雄)

 

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三郎さんの昔話・・・地獄の門(二)

2010-12-31 | 三郎さんの昔話
                              地獄の門(二)

  

 この世の中へ産まれ出る時は男女共に赤子である。

あの世に飛び込んで来る者は男女を問わず零歳から百歳を超す老体に至るまでの全ての年代の者、ただ年令によって多少の差はあるが、とにかくこの世に日々に誕生する赤子の数に匹敵する数の様々な霊者が、次から次に送り込まれてくるが、不思議なことにあの世に来たら色も影もかたちも無いから無数に散らばる。
 

霊球が競り合いもこち合うこともなく、来た順に宇宙の次元に従って何時とも無しに地獄の門を潜ると、真暗い空洞のタイムトンネルをどれだけの時を掛けたのか知れないが、やっと通り抜けた闇の中に灰色の明るさ、そこは広々とした無庭、その正面に立派で大きな御殿があり、一段高き座敷に小錦を一回り大きくした体躯に、古代中国の王様の衣服をまとい、頭には角に王字マークのえ帽子をかむり、右手に大きい笏を持ち、左の手には極秘戒経の法典を握りしめ、舟靴をはいた足を八の字に開き、中央の床ぎにどっかと腰をすえ、こちらを向いた面体は大きく角張った顔に、眉は濃くはね上がり、目は太く光り輝き、鼻は団子のいこり鼻、口は大きく開いてガッと叫び、口髭はほぅから顎へ長い希少髭、着いた衣の腹部が丸く透き通って見える、これぞ特有の秘眼鏡である。

この出で立ちは厳しいとゆうより威嚇そのものの閻魔大王である。
 

大王の右側に比沙門天に似た、左側に多聞天に似た武将を従えて、その外庭の両脇に立ったるは仁王のごとき赤鬼が右に、左に青鬼がひかえた、これぞこの世にまで知れわたった閻魔大王の霊球現世の善悪を裁く大御殿なり。
 

 いつとも無しのタイムで進み来て閻魔大王の前で停まると、秘眼鏡に霊球の過去の行状がそのままに写し出されて走馬灯のごとく回って過ぎる、嘘も隠しも待ったも無く、真実そのままに出て無言のままに裁かれて、閻魔大王の笏が行き先を指すと、示された場所を求めて霊球は静かに何時とも無しに消えて行く。

その行く先は、幼児や子供は罪もなく秘眼鏡に写し出される事もなく地蔵のおはす幼児の園や子供の里へ。
 

 さいの川原で小石を一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、三つ積んでは身のためにと、重ねた数は果てしない。
 
欲深く他を顧なき者、怠け者で働きもせず食いつぶした者は地獄の軽い苦道へ、犯罪や他人に苦難をしいた極悪者は針の山血の池の連なる大地獄へ、貧しさに絶えて良く働き家庭を愛した者や善心ですごした者はのどかな楽園の村へ、我が身を顧みず世のため人のために尽くした聖人君子は天童のかなでる神楽に導かれて、羽衣を靡かせて空天に舞う天女達の仕える菩薩のおはす天国へ静かに昇天する。
 

交通事故などで来た無法な若者は再教育道へ、病弱であえなく来た哀れな青少年は菩薩のおはす慈悲の園へと、次から次に送り出す、閻魔大王の元へ続いてくる千差万別の霊球の数は限り無く続く、あの世の現実を綴じた瞼の奥の心眼で密かにのぞき見ることができた。

他人が知らぬと 思う善悪でも
 やがて 地知る 天知る 人が知る。

 




三郎さんの昔話・・・地獄の門(一)

2010-12-31 | 三郎さんの昔話
地獄の門(一)
 
 見た事のない物を見たい、さわった事のない物にさわって見たい、これは人間の本性で、幼児の頃から人の一生持ち続ける好奇心と希望であると思われる。

この世の中では、希望があれば見たいと思う書物や美術の展覧会も、知らぬ彼方此方の名所や雄大な外国や都市も、テレビや映画芝居まで、見たいと思ってなに一つ見ることの出来ないものはない。と思うが、たった一つだけ見ることの出来ない事がある。

それは人々が現世を離れて他界していくあの世とやらである。
聞くところによると極楽あり、地獄あり、天国もあると言うが、一度見てみたいと思うが誰も知らない。それもそのはず、あの世とやらへ行って帰って来た者がないから、聞くこともできない。

そこで目を閉じて心の目で見ることにした。夜寝ることにし、床に入り電灯を消す、真暗いなにも見えない、ただ闇の世界。しかし少し間をもつと、とじた瞼を通して闇のなかで窓の明るさが薄っすらと見えてくる。

真っ暗いタイムトラベルの空洞を何時とも無しに進む。どのくらいたったか時間が無いので計り知れない。

やっと空洞を出たのであろう、闇の明るさがはてしなく広がった。

よく見ると幼児から小学生、青少年に働き盛りや老人に至るあらゆる男女が、色々な出で立ちで空中に点在しているが、此処には色が無いから昔の黒白映画のごとく無声で声もなく静かで、欲も得もないので無表情にただ平然として、皆んな先を競うことも無く、あの世に来た順に、宇宙の中央に偉大に聳える地獄門「天安門か羅生門」に向かって、扇のごとく空中に点のごとくに散らばった老若幼男女の霊が、扇の要め地獄門へいつとも無しのタイムで吸い込まれるように消えてゆくが、後が切れることなくあの世を求めて次から次へと、老いも若きも続いて来る、不思議なこと無の世界。

 




三郎さんの昔話・・・家伝の名灸

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

家伝の名灸

 今どき、やいと(灸)をすえるなんて言うたら、医学や薬学、治療の進んだ現代人に笑われるが、さてふと病気になって入院したり通院で大体の病気は回復するが、病気によっては再発したり癖づいて持病になって、お医者さんと仲良しになって体病に苦労する人があります。
 外科的な病気は手術で根が切れることが多いが、内臓の病気はなかなかに根絶が難しいです。
 病魔に住み着かれて悪くなれば入院し、良くなれば家と繰り返して、何とかして良くなりたいと「溺れる者が藁をも掴む」気持ちで名灸を探してすえに来る。痛さを辛抱してすえる。
「良薬口に苦し」「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」とか。お灸の少しの痛さ熱さを辛抱して病を治したら、病魔は根絶し元の健康体を取り戻す。お灸とはほんたい体にきくもんじゃと感服する。
 祖父の寿太郎爺さんは父の豪傑の体躯に似ず、母の体に似て骨の細いすらっとした痩せ形で、子供の時は病身で喘息を患い、昔のことでお灸をしょっちゅうすえ詰めてやっと一人前になったと。
 それで俺らも仕事だけでなく灸点を覚えて少しでも人助けしようと古老から喘息と心臓の名灸の伝授を受け、病身な数々の人に灸をおろしてすえさして治した。
 その名灸は父に伝わり、子やらいの中年の婦人で喘息の持病で、ヒーッコンコンと夜も満足に寝れず、窓を開けてヒューヒューと呼吸に苦しんでいたお方が、お灸を知っておろしに来て一週間ほどすえつめたら、こっとり治って大変喜んだ。
 大川村の若い大男が心臓を患い、嶺北病院に二年間入院して養生していたが治らず、父の名灸を聞いてやって来たのでおろし、母が二日すえてやったら調子がえいとすぐ退院して帰った。
その後十日ほどすえたらしい。それで全快して、何か用があって本山に出て来たら必ず立ち寄って「お陰で命びろいした」と礼を言いに寄った。
 父も喘息や心臓の悪い人で灸をすえて治したいという人にはおろして治し、後で喜んでもらった。
 心臓病で心筋梗塞という名称が出来た時期に、六十過ぎの父がその病気にこっとり罹り、何かしていてもああしんどい、胸が締め付けるように苦しいとその場で横になること度々、灸おろしでも自分の背にはおろせれず、そのとき私に伝授して私が父の背におろし母がすえた。五日ほどすえると治ってしもうた。父はその後三十年近く長生きしましたが、心臓病のけはありませんでした。
 家伝の名灸を伝授引き継いだ私も、仕事の関係で嶺北一円を回りましたが、話していて心臓が悪くて医師の薬を飲んでいるが良くならんと言う方で、治れば痛くてもお灸をすえてみるという人には灸をおろしてあげた。
 辛抱してやいとをすえて治った人は数々あり、心臓が停まったら人は死ぬのでほんとに恐い。一度心臓を患い、やいとで治った方はお灸の効果を知っていて、一、二年に一度お灸をすえて体を大切に保っている。
 やいと(灸)はもぐさに火を付けて直接体を焼くのでほんとに痛いと思うが、さほどでもない。たばこの火をさし付けたら飛び上がるほど痛いが、もぐさの火は人間の知恵で、こらえ切れないほどは痛くない。
 けんじょう(肩)の凝った人にお灸をすえていたら、大方の人は気持ちが良くなってうとうとと眠りだす。腕や足の神経痛は痛むところを押して、そこに灸をすえたら治る。
 私の経験談。仕事がら昔の重い自転車で荷を積んだ重いリヤカーを十年余り踏みつめた過労で、四十過ぎに重い座骨神経痛に罹り、腰から足へ痛みつめてウンウン唸って夜も昼も眠れず、お医者さんに日に二、三回来て貰い、注射を打ち薬を飲んでも痛みはとまらず、一週間で患う右足は老人と同じ骨と皮にひすばった。
 この痛みは病知らずには感知できない。痛みはとまらず堪え切れず痛いところを押して、やいとをすえつめた。
 家内に朝早くから夜中まで、学校往きの子供の炊事食事以外の時はずうっとすえ続けた。神経痛の痛みよりやいとの痛さがこらえやすかったので、痛むところに灸をすえていると、そこの痛みが治まり痛むところが変わっていく。
 変わったところを追うて毎日朝から晩遅く迄灸を一ヶ月ほどすえ続けて痛みも無くなり、神経痛は治ったが体が衰弱して、痛んだ足は細り歩行不能になりましたが、徐々に訓練してまともに歩けるようになるに半年掛かりました。
 銭湯で私の灸跡を見てみんな驚きました。その筈、片足に灸跡が二百箇所あまり、点々が蜂の巣のごとく隙間なしでした。
 その二年後、左足も神経痛になりましたが、やいとをすえ続けて治しました。灸の傷痕は時がたつに従って次第に消えて無くなりますが、背中の跡は少し残ります。
その後三十年余り、患った足は少し弱いのであしらってはいますが、やいとで治った神経痛は再発しません。
 お灸とは熱くて少し痛いが、痛いだけよくききます。が、やいとを私は人に薦めはしません。痛いことなので。それでも話を聞いて来る人がたまにあり、灸をおろしてあげます。
病気が治ったらケロッとしています。
 さて現在の高知市でもお灸の好きな人がいます。元酒屋の奥さんで、今はご隠居さんで退屈しのぎにたばこを売ったり縫物をしていますが、その人の言うこと。
「私はお医者さんと病院が嫌いで、月に一回は必ずお灸を色々とすえております。お陰でこの通り元気で病気はせず、風邪もろくに引きません」と。やいとは健康法じゃと力んじょります

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三郎さんの昔話・・・嫁とり

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

嫁とり

 若いしが一人前の男になった。家の息子に嫁を貰おうと、密かに話を進めやっと決まった。
 「北また(屋号)の若いしゃ、嫁とりじゃと」噂は口伝えでたちまち近所隣からへと広がる。
 「酒屋のお嬢さんが、呉服屋富屋の若旦那へ嫁入りする婚礼じゃと」この噂も町内から他のまでパッと伝わった。
 当時(半世紀以前)は、大家の婚儀は「婚礼じゃ」と言い、貧乏人の婚儀は「嫁とりじゃ」「嫁入りじゃ」言うてもてはやされた。
 今の結婚式は大宴会場で盛大な挙式。花嫁さんは文金高島田に金ぴら衣装、お色直しはまるでファッション装の艶やかさ。まことにきらびやかで豪華さは見事。
 それに比べて、昔は今のように美装の花嫁さんなんて、めったに見ることはなかった。
 北風吹く初冬の短い日は西の山に入り、夕焼け空が少し薄らいだ夕方、酒屋のお嬢さんの婚礼じゃ、立派な花嫁衣装を見にゃあと、町内はじめ近郷から女子供がどっと押し掛けて、酒屋から富屋まで二丁たらずの道路は見物人でうずまった。
 まだ薄暗うもないのに、羽織・袴に扇子を前腹に差し、屋号の入った柄付きの丸提燈をかざして七、八人出て来た。門いでのほろ酔い機嫌で声を張り上げ「花嫁じゃー、花嫁じゃー」と。
その後へ続いて、高島田に白い角隠し、目も覚める奇麗な帯や金糸の裾模様の出で立ちの花嫁さん。介添えに付き添われて静々と出て来た。
観衆は初めて見る見事に着飾った花嫁さんに「こりゃ奇麗な、奇麗な」と、うめきと歓声、手拍子でどよめき、人垣は揺らいだ。花嫁の後へ続くはタンス長持ち鏡台その他、幾竿続くことやら、まるで大名行列の観。
 さて当時、貧しい一般家庭の嫁とりは大変な大行事。「男女七歳にして席を同じゅうするなかれ」の昔の言い伝えが続いていたのか、若い男女が今のように気軽に話や交際ができない時代。惚れて好きあう恋愛結婚なんて、たまにあっても百に一つの希れ話。
 「うちの息子も信用組合へ勤め、年も二十四になったけ、嫁とりをせにゃーいかんがねや」、「あの教頭先生くへ女中に来ちょる可愛いい娘を好きで、貰いたい言いよるが」、「そうか、そんなら詮議せにゃいかん」と早速に叔父二人が娘の在所へ調査に行って、帰った話では、「知り合いから近所隣でこっそり聞いたが、あそこはどうも血統が悪いけ、いかんぞ」ということで、さっぱりとあきらめさせられた。
 (詮議とは、貧富は別に先代にハンセン病や気違い、障害者の伝統でないか、それに父母や祖父母の評判などを調べた。)
 あの娘がいかんでやまったけ、くるわん内に早よう嫁もらわにゃいかんと、きようて(急いで)世話好きに頼むと、早速仲人を引き受けてくれて、系統も家柄も良うてえい娘が丁度おるということで、そちこちと何回となく足を運び、やっと見合いにこぎつけた。
 さて、見合いは娘方の叔父の家に決まり、当日は夕食も早めにすまし、春宵月の薄明かりを、仲人のおばさんと話しながらてくてく歩いて小一里足らずで当家に着く。
身づくろいして座敷に上がってびっくり。
 娘の父母、親戚、弟妹で大広間にずらりと並んでいる。嫁さんを見どころか、こちらがこじゃんと見られた。仲人と相手方で少しの世間話で、当人同士は話もせず、顔をちら、ちょろ見ただけで見合いは終わり。その後、話はすんなり決まった。
 吉日選んで結納となる。結納は仲人と叔父が名代で、つの樽酒にするめ、こんぶ、小鯛一対(二尾)米一升、結納金は時の給料一ヶ月分の三十円也。それらの金品を持参して納め固めができた。
 挙式は準備その他の都合で半年先の十一月になった。それからはなんとなくわくわくしていたたまれず、仕事を終えた夜、一週間か十日おきに顔を見に、弟妹への手土産さげて行くのが楽しみになった。行ってもお茶を持って出てくる元気そうな姿を見るだけで、ほっとして父母と少し話しては帰る。通いつめた半年は長かった。
 嫁とりの日がせまるにつれて、貧乏ぼろ家は畳替えやらふすま張り、障子の張り替えと気ぜわしいこと。
 その内に期日を迎えた。さあ大変、近所の女ごしや親戚が朝からどっと手伝いにやって来た。貧しい家には物がないので、近所隣から皿や皿鉢、会席その他、座布団に至るまで借り集め、買い出しやら寿司握り、煮物・あえもの・五目と色々な料理を作る。皿鉢の組み込みまでそれぞれ小器用な料理人が居て、朝からざわついたが夕方には宴の準備すべて整った。
 さて嫁迎えじゃ。仕事も早引きして、きようて帰り、羽織袴を初めて身に付けた。しゃんとしたが固苦しいこと。向こうへ出向く。仲人のおばさんと叔父とで四時頃出掛けて、嫁の家に着くと、新客で来る身内も揃い準備もできて待っていた。
座敷に上がると先ずお茶を受け、仲人の挨拶、「本日はお日がらも良うて、ほんとにお目出度うございます」と。身内の方々と頭を下げ合うてすむと、夫婦杯、親族の紹介を受け、祝いの謡い。それがすむと近所の人々も上がり込んで祝宴となった。
「嫁とりの婿は、一応用がすんだら座をぬけてさっと帰れ」と言われていたので、挨拶もせず抜け出て一人さっさと帰ってきた。
 「もう来るか」と待つ間は長い。十一月下旬冬の日暮れは早い。薄暗くなった六時半頃か、上の道路で誰かが「嫁さんが来たぞ、来たぞー」とおらぶ(叫ぶ)声がした。
 前後ろに提燈、身内に付き添われた嫁さん、やっと来着いた。隣の女の子が介添えで引き入れ役。まず介添えが嫁さんの手をとり家に上げる。
続いて父上と伯母さん(母は子供が小さいので名代)が上がり、こちらも父母と三人で仲人と立ち会い、屏風の内で三三九度の杯、妁は男子は弟、女子は引き込みの女の子で、親子の契り杯、謡い三つ謡い夫婦杯の形式がすむと、屏風も障子もはずして嫁見せで、皆に見てもらう。
 同行の新客が上がり着座し、双方縁者の紹介でぺこぺこ頭を下げあう挨拶がすむと、近所の人も次々に上がり祝宴となる。少し間をもって新客は嫁娘を一人残して帰る。
くつろいだお客は時がたつにつれ酒もまわり、歌や箸拳、話し声まで高くなり、祝宴は夜のふけるを忘れてわんさと賑わう。
 若かりし当時のことを思いうかべ、ほくほく笑みながら書いてみた。

 余談
 「縁は異なもの、味なもの」とか。別々に育った者同士が恋愛もせず、見合いでよう一緒になれたもの。財産も教育もない貧乏家の長男に、ようまあ来てくれたこと。
男前でも良かったろうか、それとも田舎じゃ少ない安月給取り(専売局雇員)で真面目なのを見込んで来たがじゃろうか?
 難しい親に仕え、子育てと苦労も多かったに、よう辛抱してくれた。家内が嫁に来てから泣き笑いで五十四年の歳月は夢のよう。
あれからずうっと女の家(嫁)に大事に養われて、八十才に近い年になったが、まだ生き延びている。ありがたいこと。

 

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三郎さんの昔話・・・はんこ(印鑑)

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

はんこ(印鑑)

 昭和七、八年頃の田舎の町はまだ開けてなくて、道路は一間半の狭い土の道路、その道端に一抱えもある大きな杉丸太の電信柱が五十メートルぐらいおきに立って電線が張りめぐらされていて戸々の家に送電され、暗くなると、きんちゃくなすを少し大きくしたような透明の電球が灯って、電球の芯は横文字を書いたように赤い線が明るく、家中を照らしていた。
 道路の片側には電話線を張った小丸太(直径五、六寸)で、送電柱の半丈程の電信柱がやや近めに立っていた。当時の電工さんは、電気の方は会社の工夫さん、電話の工夫さんは郵政省のお役人で少し鼻が高く偉そうにしていた。
 その当時電話があったのは、町内では官公署、病院、大きい商売人の一、二軒で、遠方への急な連絡は郵便局に出向いて電話を掛けていた。
 電線や電話線の工事の時、工夫は電柱に上がるに、体をゆわえるロープ(親指の太さ)と、たくり上げのロープを肩に、腰にペンチやナイフの小物入れの袋付きのベルトをしめ、柱に突き刺さる金具を靴にくくり付けてコツコツと電信柱に上がると、足を決めて体をゆるく柱に束ねて、吊り上げのロープを下げて作業となる。
 さて電工さんが仕事をするに電線や碍子、ボルトなどの金具を吊り上げるに、下に手伝いの人夫がいる。
 青葉の繁った六月の下旬に電話線の工事があり、駐在員の工夫さん一人は町内にいたが、沖(高知)から応援が来て工事が始まった。
 その時に、下での手伝い人夫に雇われ、仕事に行って一週間程した時、「郵政の支払日は決まっているので、今まで働いた賃金を支払うので、今夜宿で書類を書いて判をついてお金を渡すけ、判を持ってこい」ということで、近い家に走って、前に父から貰っていた使い古しの少し欠けた小さな木判の認め(印鑑)を持って行って渡し、依頼した。
 夕方から梅雨上げの大降りで、しけ(台風)のようになった夜、日が暮れて遅い夕餉。二親に弟らと膳をならべて食べながら、賃金貰うが嬉しくて判こを渡したことを話した。
 とたんに親父の雷が落ちた。「判を自分で見て押さずに、人に渡す馬鹿があるか。判(印鑑)というものは実証の証拠じゃ、お金を借りる時とか、受取の金を確認してから押すもので、人任せで押させたら、何をせられてもわかるまい。これからすぐ行って取って来い。電信の役人に、こう言え。父が、判こは人に貸すものではない、書類を見た上で押しますと。」
 夕飯もそこそこに大雨の吹きぶるなか、破れ蓑笠で中古のぼろ自転車に乗り、カンテラに蝋燭つけて出掛けたが、横降る雨で明かり火はすぐ消えまっ暗闇。
 荒雨に叩かれて石ころの道路は吉野川に沿い、山のうねさこでくねり回って大杉の宿まで三里半。大杉の手前の高須の峠は難所、登り下りで一里余はあろう。
 自転車に乗ったり突いたりしながら二時間余りかかって、やっと大杉の三宮旅館にたどり着き、宿の女中さんに電工さんを呼んでもらった。
 二階から降りてきて、私の濡れぼっちゃの姿を見て、おくれた声で、「この大雨におまんどうしたがぞ」と言うので、泣きそうな声で父に言われた通り話すと、「それがたまるか、判は押して出すだけで、ごまかしたりはしやせんに、お父さんは堅い人じゃのう、済まざったと言うちょいて。気をつけて帰りよ」といたわりのような言葉に励まされて、雨に濡れ寒さに耐えて歯を食いしばり、暗闇に目を光らして道を見据えて、自転車に乗ったり歩いたり、苦闘のすえ夜中前にやっと家に帰りついた。
 判を取り帰ったことを話すと、父は「よう行ってきた、判の大切さを忘れるなよ。体を拭いて風邪ひかんよう早う寝え」と言ってくれた。
 この話は私が十七才で、今から六十余年も前の出来事である。当時父は、金の貸し借りや土地の登記に関連した仕事が多かったので、はんこ(印鑑)の大切さを痛感していた。若輩の私に印鑑の大切さを伝授してくれた。
 お役所の机の前に座っていると、朝から晩まで判(認め印)を押すことがほんとに多い日本の社会である。判こは手軽に扱うが、本来は大切なものである。
 あの時のうるさかった出来事は身に染みて、生涯忘れることはない。今も小さい欠けの木判を宝物として大切に持っている。この印鑑である。

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三郎さんの昔話・・・大蛇と万次

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

大蛇と万次

 大石の奥の万三能山のふもと、集落では一番の山奥に、万次という男が、嫁はんと五つになる可愛いお花という女の子と三人で、畑を少々作り、大方は山仕事でほそぼそと暮らしていた。
 夏も終わりに近い。嫁はんは次の子供がお腹でつわりがえらい。
 万次は今日も山へ薪切りに行く準備していたら、嫁はんが、「お前さんわたしゃ今日は具合がよけえ悪いが、ひいといだけ、お花を連れていてくれんかよ。」
 万次は、「おおええとも、おんしは大事な体じゃ。大事にして、ええ男の子を産んでくれ。」言うて、親子の弁当を持って二人は山へ行き、お花を見ながら仕事をし、やがて昼になった。
 万次はお花に、「そこの小道をちょっと行ったら、お水が出よるけ、お茶瓶に水汲んでき。」言うたら、お花は「うーん」言うて、茶瓶持って小走りに走っていった。
 すぐに帰れる距離じゃのに、なかなか帰って来ない。万次は少し心配になった。ころんで怪我でもしたのかな。そのとき万次に不吉な予感がした。
 万次は押っ取り柄鎌で水場へ走った。着いて見たものは、小丸太ほどもある大きな大きな蛇が水場に横たわり、その中ほどが一回り大きくなってうねっている。
 万次は驚いた。とたんに冷や汗がじーっと身体に回り、震い上がったが、歯を食いしばり目を閉じ、山の神、八幡、三宝様、お花をお助け下さいませと、悲鳴に似た声で念じて目を開き、怖さを捨てて、心を鬼にして大柄鎌を振り上げ、大蛇のふくれの脇を見さだめて、日ごろ鍛えた木切りの枝で、やーっと満身の力を込めて切り下ろした。
 大柄鎌は寸分たがわず大蛇を切り裂いた。腹からお花の身体が滑るように出て来たが、早や、こと切れていた。
 万次はお花を抱き抱え、山の神八幡、三宝様、お花の命お救い下さいと、子供の身体を揺すりながら念じ続けたら、静かに目が開き、胸うちだした。
 万次はお花を抱き締め手を合わし、山神様の方に正座して涙ぼろぼろ落としながら、ありがとうございましたを繰り返し、お花良かったなあと、万次の涙は止まらなかったと。
 お花が成長してからも、大蛇に一度呑まれたせいか、人並みより頭の髪の毛が少なかったと。
 子への愛は強し。

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三郎さんの昔話・・・侍小平太

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

侍小平太

 時は江戸末期、小平太は伊予西条の藩士で、剣道、居合共に人に勝れた達人で、その容貌は色白な顔、眉濃く頭髪は多くふさふさと、背丈は人並みより小柄でガッチリとした体で、身なりはややおしゃれだがキチンと着こなし、腰に差した大小のうち大刀はやや長く、小平太の出歩く姿は人に目立ち、城下でも有名な侍であった。
 その小平太が城主の参勤交代のお供で江戸へ出た。当分の間は役務多忙で出歩けなかったが、やっと暇になり休みをもらって、今日は待望の江戸見物と、小平太せっぱいのおしゃれをして、例の大小を腰に江戸のお町に出かけた。
 町は活気があり人も多く賑やか、中でも歌右衛門の忠臣蔵はなかなかの人気。
 小平太この芝居を見ろうと、芝居小屋に入る。大入りで座れず立ち見になり、立ったまま芝居を見ていたら、後ろに雲助のような大男が来て、小侍が体に似合わん長刀を差し駄じゃれちょる。
 どうせ田舎侍じゃと侮って、大男吸っていた煙草の火を、小平太の頭の真ん中にぷーと吹き落とした。
 煙草の火は小平太の頭の上でジュウジュウ煙りよる。見物の芝居客はあきれて、芝居より小平太を見よるが、小平太は声も出さず、びくとも動かず、やがて頭の火も消え芝居も済んだ。その時・・・
 小平太後ろを向いた。とたんに大男の頭の上で長刀がピカピカと光った。
 帰る人のどよめきで人々が揺れたとき、立っていた大男はばっさりと倒れた。
 見ると、大男は頭から空竹割りに斬られて即死。人が斬られたと騒ぎ出す。
 やがて役人が二、三人来て、出口で刀を取って見て、血のりを調べる。小平太出掛かる。役人「その刀よこせ、見る。」と。
 小平太「刀は武士の魂じゃ。他人に渡すわけにはいかぬ。とくとご覧あれ。」と、小平太の手が刀の柄に掛かったかと見えた。
 とたんに役人の眼前でピカピカと光った。役人目をまばたいた。
 小平太の長刀は鞘に納まっていた。役人おくれて後ずさり。小平太は静かに帰って行った。
 役人は小平太の居合の早業に度肝を抜かれて、ただ茫然としていた。

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三郎さんの昔話・・・古狐おさん(二)

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

古狐おさん(二)

 御殿場の下の集落に、兵七という三十歳の夜相撲もとる小元気な、すけべえな男がいた。
 嫁はんもあるが、小柄で百姓がえろうて病身なひ弱な人じゃった。
 そのせいもあったろう。兵七は夜が来ると、きょろきょろと出歩きよった。 秋も終わりに近い小寒い晩に、後家やらへらこい娘を捜してそちこちしたが、ええ口も無うて、夜半も過ぎて一本松へもどりかかったら、向こうからとぼとぼと人が来よる。
 大松の下でばったりと向かい合った。兵七が見た顔は、年は四十ともいかん、若年増のええ女ごじゃ。
 兵七とっさに、「おまさん、今頃どこへ」と聞いたら、「わたしゃ、上関の知り合いを尋ねていったが留守で、夕方まで待ったがもどらんけ、あきらめての帰りじゃが、しょうだれた。」言うて道端へ座り込んだ。
 兵七見れば見るばあ、ええ女ごじゃ。兵七日頃のくせが出てもやもやとした。「おまさん、嫁はんか、後家かよ」と聞いたら、「わたし、去年の春に亭主が死んで若後家で、しょうむごいぜよ。」
 兵七、これがたまるか、むらむらっとして女に飛びかかろうとしたとき、若後家に、「おまさん、汗臭い。そうあわてずに、そこのゆ溝でちとゆすいできいや。」と。
 兵七あわてて横の兼山掘りへ飛び込み、水をシャブリ掛けてザブンザブン。そのうちに若後家は消えて居らん。
 おさんにこじゃんとだまされちゅう兵七、夜が明けるまで、ぶるぶる震えもって水をザブリザブリと。
 そこへ名主の与兵衛さん、急ぎの用で朝も早いに通り掛かってこの様を見て、「こりゃ兵七、おんしゃー何しよりゃー」言うたら、兵七やっと気が付き、正気にもどって溝から上がり、ガタガタ震いよる。
 与兵衛さん大きな声で、「おさんの古狐のやつ、すけべーの兵七化かしよったわ」言うて行った。
 しわい古狐の化かすがは、てこにあわんぜよ。

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三郎さんの昔話・・・古狐おさん(一)

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

古狐おさん(一)

 本山の上町公園は、昔土佐の殿様から派遣の侍が三人で詰所と居り屋があり、御殿場と言いよった。
 その前の道は、町からお伊勢坂を上り御殿場の前を通り抜け、一本松から天神前の方へ、その道幅は広うて昔の大通りであった。
 道の脇を兼山掘りのゆ溝が流れ、春の宵は蛍が多く子供の頃よく取りに行ったが、一本松はなにせ怖い話のところで、長居はようせず、暗くなったらさっさと帰りよった。
 おまん等まだ生まれちょらん前の話じゃがの、おさん言うて人を化かして、てこにあわん古狐がおったと。
 春のおそ月の夜中に、安いうて、にえきらん男が一本松へ通り掛かった。大松の枝影で月明かりもまばら、その下に娘が立ちっちゅう。こわごわ近う寄ってみたら、それは器量良しの可愛らしい娘、安さんうっとりしちょったら、にやりっと愛嬌顔で、「安やん、わたしゃーちょっと用があってその先まで行っちょったが、ここへ来てから寂しゅうて、よういなんが。家はほんのそこじゃが、連れて行ってもらえまいか。」
 安さんえつにいって、「おお、楽なことよ。」言うて、その娘について行ったらなかなかに立派な構えの家じゃ。
 「さあ、上がって」言うので入ったら、「もうおそいけ、みな寝よる。風呂がまだ沸いちゅう。だれたろ、早ようはいって。」風呂場に案内されて、安さんえつにいり、風呂に入る。
 そしたら娘は尻からげて赤いお腰の下は白い足、素足で来て背中を流してくれる。
 安さんこんな結構なことに遇うのは生まれて初めて。えつに入りきっちょったら、娘は床のべてくるけ、言うて出て行った。なんでか安さん、眠とうなって風呂の中で寝てしもうた。
 そのうちに夜が明け始め、あたりがうっすらと明るくなった。
 安さん寒うてうつろに目が覚めたら、春田の泥の中で体も着物も泥もぶれ。安さんなんだかさっぱりわからん。ぶるぶる震えよる。
 古狐のおさん、こえ山からそれを見て、安の間抜けをこじゃんとだましちゃったと、喜びこけて跳ね回りよったと。
 てこにあわん=手に負えない。

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三郎さんの昔話・・・一つおぼえ

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

一つおぼえ

 田舎の町に男の血気盛りで、年は二十五、六歳で体はお仁王さんのやぅに赤黒いえい体格の好馬とゆう頭の抜けた気違いでもない男がいて、身なりは黒木綿の半じばんに猿股で地下足袋、大きな腕と腿を荒はに出して、日よりには必ずひと握りもある大きなさす(棒)の両端に青い刈り草の束を突き刺して担いで、朝の日だけと夕方に通る。
 通る道々なにかモゴモゴと言ぃながら大足で歩いているが、誰か人に出会うと大きな手の親指を、人差し指と中指の間にはさんで手まめをかざして
「チ〇ポ、チ〇ポ、イ〇コ、イ〇コ」と言ぃながら顔をゆるめて通る。草刈りの行き帰り出会うた大人でも子供にでも皆んなに手まめのしょしゃをするので、男の子は皆な知って好馬と行き違う時には小さい手で、手まめを好馬に向けて「チ〇ポチ〇ポ、イ〇コイ〇コ」、と言ぅて通り抜ける。
 しかし女の子はお仁王さんの様ぅな大男がみょなこと言ぅので、怖がって好馬が見えたら皆んなすぐ逃げた。子供等は皆な親に、好馬はこまい時に病気してあんなになったがじゃけ、いらんこと言ぅて手ゃわれん怒ったら怖いけ、とゆわれていた。
 子供心にどうしてあんな人になったのかなぁ?、と不信に思っていた。ところがある日、大人達の話をそっと聞いた。たねやんが物知りのさかやんに「半気ちのあの好馬はいつっもチ〇ポじゃイ〇コ、イ〇コ言ぅて、こども等にしょう為がよぅないがどぅしてじゃろう」と聞くと、さかやんは「たねやんは知らんのかょ、好馬の家は元は大家じゃったが今は、お母は小んまい店でそばゃすし一杯のみ屋の飲食店、親父は馬喰しよるろぅ」、うぅん、「好馬の弟も結構 人並みに渡世をしよる、二親はあの好馬がこまい時えい賢い子で特に可愛かった、処がはやり病の熱が高ぅて下がらず頭がぼけてしもうたが、体は丈夫であのとおり立派に成人した。
 親は並にない子ほど可愛いとゆぅが、その通りで二親は好馬の体は人並み以上に立派な男じゃのに病気のからでこんなになった、人並みなことも知らずにこのままで残して自分らが死ぬのはむごい、一度だけでもえぃことさしちゃりたいと、私案の挙げく、こっそりと貧しい若後家に「絶対秘密にして他言はせん、おれいは十分にするけ」、と無理にくどいて話をこぎつけた。
 二親は好馬にくどくどと言ぃふくめて、ある晩実施した。薄暗い部屋で、若後家は顔を見られるのがいやで布で顔を覆うて身をまかした、好馬のやつは体力が強いので長いことしてやっとすんだ、若後家が逃げるように帰ろうとした時に、好馬はさっと若後家の覆ぅいをむしり取って顔を見たと、それでたまるかゃ、あんなことを言ぃもって毎日日にち若後家を追い回しだしたは、秘密もなにもあったもんじゃない人は皆な知って、その若後家は恥ずかしいのと追い回されて家にも居れず、こっそりと 夜逃げして何処かへ行ってしもた。
 貧乏したとはいえ後家さんは惨いことよのぅし、好馬のやっはあほぅの一つおぼえで、それからあんなことしか言ぅことを知らんよぅになったがょ」、たねやん「そんなことがあったの初めて知ったわ、うっかり何も知らん半気ちや馬鹿には大事なことは教えられんのぅし」、さかやん「親は子がなんぼぅ可愛ゆぅても、馬鹿や、たらん者にはいらんことを教えたら後で後悔し、人も皆んなぁ困るぜょ」、たねやん「ほんとじゃのぅし」。私しゃ子供のくせに 聞かんふりして聞いてしもぅた。

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三郎さんの昔話・・・プップー兵太

2010-11-26 | 三郎さんの昔話

プップー兵太

 昔ある村に、のんきできさくな兵太とゆうお百姓がいた。
 野良着にかるさんをはき、腰にたばこ入れの大きな どうらんを差しぶらさげて、ほうかむりで鍬をかつぎ、畑の行き来によく通る道々、鼻歌機嫌でいつも大きなへぇーを歩くたんびにプップー、プップープのパァー、と愉快に屁えをこきながら通る。
 ひょうきんな兵太。ある時名主が兵太に、「おまやあ何時もプップゥ、プップーと人前でもどこでも、屁えをこきよるが、はずかしゅうはないか」と言ぅたら、兵太はにやりと名主の顔を見て言うこと、「屁えをひって、かならず恥と思うなよ、屁えは鳴り物の王なるぞ、おなかがすいて気が晴れて、琴と三味線と異なりて、匂いの出る音ほかに無し。」まだあるぞ、「公家も旦那もお女郎まで、プゥッ、スゥーと屁えこかぬ人は、広い天下に一人も無しと学者が言うた。」はっはっはーと高笑し「ラッパの鳴りは身体の調子よ。」といいながら、プップゥープー、パァーと、ひときわ高く吹き鳴らしながら、行ってしもた。
 名主は頭をかきながら、「兵太のやつに一本取られたわ」と。(屁えとはおならのこと)。

 余談。
 あるお見合い席、婿方は若いしと仲人のおばはん。嫁方は娘とその父母で、五人でささやかなお見合い。
 若い二人、初めの内は少し緊張していたが、話進むうちにややくつろいでうちとけた。その時小さい音で「プゥー」とおならの音がした。皆が顔を見合わした時、娘が恥ずかしそうに、「まあお父さん、いや」と言うと、父親は頭をかきながら、「こりゃ何とも失礼しました」と苦笑い。無事に婚約は成就した。
 これは娘の才知で、恥を父親が受けた。婿も気づいた。この娘は健康で賢いと惚れてしもた。

◎「屁えは健康のバロメーター」
 「でもの はれもの、処ろきらさず」とか。

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