沖縄で愛される中浜万次郎 その2
ジョン万次郎 1880年頃 (出典:ウイキペディア)
万次郎の漂流と一〇年間の外国暮らし
初めに、万次郎の漂流以来の足跡をスケッチしておこう。
土佐清水市中の浜で生まれた漁師、万次郎は一八四一年に出漁した船が遭難し、アメリカの捕鯨船・ジョン・ハラウンド号に救出された。
ホイットフィールド船長にかわいがられ、そこで教育を受け、さまざまな知識を得た。
一八四七年には捕鯨船フランクリン号で世界の海を航海する。一八四九年には、日本に帰る旅費を稼ぐため、ゴールドラッシュのカリフォルニアで、砂金採りなどして資金を得て、ハワイに渡り仲間二人と帰国を準備する。
ボート「アドベンチャー号」や土産物などを買い集めた。万次郎ら三人は、一八五〇年、ハワイ経由で上海に向かう商船・サラボイド号に乗せてもらう。ちょうど漂流して一〇年目にあたる一八五一年二月三日、琉球の小度浜に上陸した。
その後、鹿児島、長崎、そして土佐藩で取り調べを受けた。当時の日本は鎖国をしており、海外渡航は厳しく処罰される状態にあったからである。
万次郎は、西洋事情に通じた知識や英語の能力をかわれて、幕府に招かれた。
幕府直参の旗本となって、中浜の姓も名乗るようになる。
だが、一八五四年にペリー来航のさいに幕府は、万次郎がアメリカの不利になることは好まないだろう(つまりアメリカに味方する)、ペリーに会わせない方がよいという強硬な意見があり、通訳をさせなかった。
一八六〇年には、勝麟太郎や福沢諭吉らと咸臨丸に乗り渡米した。
一八七〇年には、フランス・プロイセン戦争の視察でヨーロッパを訪れ、その途中にアメリカで恩人のホイットフイールド船長と二〇年ぶりに再会した。一八九八年に死亡。七一歳だった。
HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に) 月刊誌「高知人からの転載」
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