「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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沖縄通信・・・知られざる高知人・黒岩恒 その4

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信

尖閣列島の命名者となる


 



015.jpg黒岩氏の功績で忘れてはならないのは、尖閣(せんかく)列島を探検し、島名、地名の命名者であることだ。


尖閣列島は、八重山諸島と中国の間の東シナ海に浮かんでいて、中国と領有権をめぐり争いがある。


この島々の存在は、古くから知られてはいたようだ。琉球王国は、一四世紀から中国皇帝の臣下になり、琉球国王が中国に朝貢し、皇帝が冊封使(さっぽうし)を派遣し国王として任命していた。


冊封体制のもとで、中国との貿易も盛んだったので、琉球と中国の間を定期的に船で往来していた。海を渡る時、船が那覇港を出ると、慶良間(けらま)諸島、久米島と見ながら進み、次には尖閣列島を目印にして、中国へと航海したという。


この尖閣列島を最初に探検したのは、福岡県から沖縄に商売でやって来ていた古賀辰四郎という人物だった。古賀は、県内の無人島を探検していて、一八八四年(明治一七年)、尖閣列島を探検したという。


 


古賀は、まだ黒岩氏が農学校の校長になる前の教師時代に、理学士宮島幹之助とともに、尖閣列島の風土病、伝染病、ハブ、イノシシ、その他の有害動物の有無や飲料水の適否などの調査を委嘱したという。


黒岩氏らが上陸して調査した結果、マラリアや伝染病はなく、ハブ、イノシシも生息せず、四島のうち魚釣島だけ湧水があることも発見された。古賀は、尖閣列島の借地請願を政府に出して、日清戦争の後、島を三〇年間にわたる無償借地の許可を得て、開拓事業も行った。


 


黒岩氏はこの島々を探検して「尖閣列島探検記事」を『地学雑誌』(一九〇〇年、明治三三年発行)に掲載している。一九〇〇年五月三日に那覇港を出港して五月二〇日に帰り、往復一八日間かかったという。


 


宮島博士は黄尾嶼(久場島)の一島に留まり、黒岩氏は魚釣島など「他の列島を回遊せり」「余は窃(ひそ)かに尖閣列島なる名称を新設することとなせり」と記す。


さらに、魚釣島の最高地点を当時の奈良原県知事の名前をとり「奈良原岳」と名付け、水流の流れているところは、八重山島司・野村道安の名前をとり「道安渓」、岬には沖縄師範学校長・安藤喜一郎の名前から「安藤岬」、さらに「イソナの瀬戸」「伊沢泊」「新田の立石」「屏風岳」などといった地名を次々に付けたそうだ。


 


黒岩氏は主に、島の地質や生物を調べた。鳥類はアホウドリ、クロアシアホウドリが群集してきていることを確認した。


植物は、琉球列島と異なるのは、松、沖縄松に限らずない、蘇鉄は皆無、八重山列島とも大いに異なるところがあると述べている。そして、たくさんの植物を採集し、その植物名の一覧表を掲げている。


 


黒岩氏の業績を顕彰するために、一九六八年秋に、名護市内の名護城跡の公園内に顕彰碑が建立された。沖縄を離れて五〇年近くも後から顕彰碑が建つというのも、その人柄と業績が沖縄、とくに山原の人々に伝えられていることを示すものだろう。


黒岩氏は、一九二〇年(大正九年)に和歌山県に移住し、高野口町で一九三〇年、七二歳で没したという。


 


黒岩氏が拠点としていた沖縄本島の山原(やんばる)地方は、中南部と違って、山々が連なり、深い森林におおわれ、ヤンバルクイナやノグチゲラなど固有動植物が数多く生息している。


このやんばるの森を含め琉球列島が世界自然遺産の候補地にリストアップされるほど、世界的にも貴重な自然が残る場所である。


 


しかし、いま豊かな自然と貴重な生態系が壊されようとしている。開発の波が押し寄せ、特に必要以上に林道建設が進められている。山を削り赤土を河川と海に流し込み、自然と環境に重大な悪影響を与えている。


 


一方で、山原の広大な国有林が在沖米国海兵隊の北部訓練場(約七五〇〇㌶)となっている。演習場の一部返還と合わせて、東村に米軍のヘリコプターの離着陸用の軍用施設(ヘリパッド)の建設が進められようとしている。


その上、名護市辺野古には、ジュゴンの生息する美ら海(ちゅらうみ)を埋め立てて、V字型滑走路をもつ巨大な軍事基地を新たに建設しようとしている。


米軍の新たな基地建設は、いずれも貴重な自然と生活環境、平和と安全を危うくするとして、多くの住民、県内外の人々が建設反対の声を上げている。


 


黒岩氏が現代に生きていれば、この沖縄北部の現実をどう見るのだろうか。きっと、「なんという愚かなことをするのだろうか」と驚き、悲しみ、そして憤るだろう。


「貴重な自然と環境を守れ!」という声を上げるのではないだろうか。教育者で博物学者として、黒岩氏が打ち込んできた仕事と研究からみて、私はその思いを強くする。      (終わり)


HN:沢村   月刊誌「高知人からの転載




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