アブリコのCinema散策

のんびり映画でも観ませんか

カールじいさんの空飛ぶ家 2009年 アメリカ

2014-08-20 | アニメーション
最愛の妻を亡くし、思い出の詰まった家に独り残されたカールじいさん。
幼なじみだった妻のエリーがいつも座っていたソファーを見つめ、壁に飾ってある妻の写真を眺め、エリー自作の『わたしの冒険ブック』を時折開いては、静かにため息をつく。

ふたりで過ごした大切な家。
家の周囲は土地開発が進み、残されたのはこの一件のみ。
むろん、地上げ屋が気になる。
施設行きなんてもってのほかだ!
誰がなんといおうと、この家を壊すことなんて絶対に許さんのだ!

じいさんは考えた。
空が隠れるほどのたくさんの風船で、家を運んでしまおうと。
色とりどりの風船が空いっぱいに広がって、カールじいさんと思い出の家具を積んだその家は、見事大空へと浮き上がっていったのだった。

目指すはエリーと約束した、南アメリカ大陸にある前人未到の秘境、『伝説の地、パラダイスの滝』。
そこへ向かう途中、ふたりが子どもの頃からファンであった人気冒険家のチャールズ・マンツと出会うことに。
カールじいさんは大喜びだ。
なにせ「僕らのヒーロー」だったマンツに会えたのだから。
彼は謎の怪物を捕らえるまで、帰らないと宣言していたのである。
ところが・・・。

オープニングから、カールとエリーの出会いから別れまでを順に映し出していくさまが感動的である。
苦楽を共にしてきた夫婦のいたわりの気持ちが深く伝わってくる。
だからこそ、彼のこの家への思い入れの強さには十分共感できる。
しかし人生の中では、究極の選択をしなくてはならないときが必ずやってくる。

形あるものは、いつかは失うときが来るかもしれない。
でも、心の中にしまった大切な思い出は、決して失せることはない。
そこに気づいたカールじいさんは、とても前向きになったように感じられた。

かつてエリーが描いた、パラダイスの滝の上にあるクラブハウス。
その絵と重なるラストシーンを見たときは、この作品に携わったみなさん、ありがとう!と言いたくなりました。

借りぐらしのアリエッティ 2010年 日本

2012-08-09 | アニメーション
人間界でもいま、「借りぐらし」が流行っているらしい。
車は維持費がかかるし、使うときにレンタカーを利用すればいいと考えたり、子どもが生まれればベビーベッドもレンタル。
高価なブランドもののドレスやバッグも買うのはちょっと・・・となれば、これも借りてしまう。
無駄がないのはいいかもしれない。

小人のアリエッティ一家のそれは、「拝借しますよ」と、人間に断ってするものではなく、密かに「いただいてしまう」ことである。
しかし、彼らの命をかけての“狩り”は真剣そのもの。
なにせ人間に見つかってしまったら大変だからだ。

その日、アリエッティは父親と一緒に“狩り”に出掛けた。
初めて見る人間の部屋。
なんて広いの・・・。
驚いているのもつかの間、早いところ務めを終えないと危険である。

落ち度はなかった・・・はずなのに。
目が合ってしまった少年とアリエッティ。
「大丈夫、怖がらないで」
父が「急ごう」とうながす。
アリエッティは動揺し、母に頼まれていた戦利品の角砂糖を床に落としてしまう。

結構ドキドキしながら楽しめた映画だった。
この中では一応悪者(!)になるお手伝いのハルさんがいなければ、この話はなんの盛り上がりもなくなってしまうわけで、彼女の重要さは明らかである。
少年とアリエッティの心の通い合いだけであったらベタすぎてしまうところだが、そこは宮崎氏の脚本のよさであろう。
今回初監督を担った米林氏にとっても、上々の出来映えだったのでは。
個人的には師匠をしのぐほど、ジブリ作品の中でもトップに近い作品であると思う。

アリエッティ一家に協力した同族のスピラーが、どうやらアリエッティに恋してる様子。
終盤、一家の引越しに付き添う道中、彼はアリエッティにある物を差し出す。
それは、『となりのトトロ』に出てくる幹太が、雨宿りしているさつきに、ボロ傘(失礼!)を強引に貸そうとしたシーンと重なる。
そこはちょっとマネしたのだろうか。

ルパン三世 カリオストロの城 ’79 日本

2010-12-03 | アニメーション
キネマ旬報のアニメ部門で堂々の1位となった本作。
「何度観てもよい」という意見が多いのも納得である。
個人的にも『となりのトトロ』とそろってひいきにしている作品だ。

70年代の中頃から、アニメといえば宮崎駿監督によるものが多かった。
しかも名作といったものはほとんどそうだった。
カリオストロ大公家の元庭師の顔は、ハイジのおじいさんと見間違うほど似ている(笑)。

奇想天外なシーンの数々はルパンの真骨頂。
ドタドタ、ワハハハ、そしてしんみりと、的確にツボを押さえての展開もルパンならでは。
エドガー・アラン・ポーの恐怖小説のようなカリオストロ伯爵の最後は、衝撃的でもあった。

数あるルパン映画の中でも、この作品が圧倒的に支持される理由は何なのか。
やはり人間味の濃淡が、くっきりと際立っているところにあるのかもしれない。
もちろん、柔らかな描写も懐かしみを感じさせる。
驚くのは、あのルパンが金銀財宝何一つ盗んでいないという点。
しかし銭形のとっつあんは言う。
「いや、奴はとんでもないものを盗んでいきました。 あなたの心です」
ここでもし、ルパン自身が直接彼女に、例えば、「クゥラリスちゃんのハートを盗ぉーちゃったもんなぁー」などと言っていたら、この感動は無くなってしまうわけで、ここは第三者が、ここではとっつあんがルパンを代弁してクラリス本人に伝えたからこそ名シーンになったのである。

クラリスを抱きしめたいその気持ちをぐっとこらえるルパン。
大人である。
そういうところが彼の優しさなんだなぁ。
そういえば昔、学生の頃にルパンが理想の男性だと言っていた女の子がいたっけ。
気の休まるときがなさそうだけどね(笑)。

崖の上のポニョ 2009年 日本

2010-06-21 | アニメーション
アンデルセンの童話『人魚姫』や、小川未明の『赤いろうそくと人魚』は悲しい結末である。
児童向作品だからといって容赦なく、失恋し、泡と消えてしまう切なさや、裏切った人間たちへの復讐といった終わり方は、“めでたしめでたし”からは程遠いものである。
子ども時分であれば、単に〈かわいそうな人魚〉でくくられてしまいそうだが、もう少し時が経ってから読んでみると、さまざまなものが見えてくるほど深い話だ。

ポニョは、金魚、人面魚、半漁人という表現をされていた。
人魚というイメージではないのだろう。
自分を助けてくれた男の子を好きになり、どうしても人間になりたいと望むようになるポニョ。
やがておたまじゃくしのように、足が出、手も出てくる。
顔も蛙みたいだ。
そして髪もサラリと生え、可愛らしい、やんちゃな女の子になる。

自分が入っていた緑色のバケツをいつも持っているポニョはかわいい。
ポニョは、本物の人間になることを許される。
魔法はもう使えないし、海に帰ることも許されない。
でもいいの。
ポニョは、宗介のそばにいたいの。
「ポニョ、そうすけ、スキーッ!」

人間に恋をしたポニョはまだ子どもだ。
その相手は、5才の男の子である。
宗介は、5才にして重荷を背負うことになったのだ。
宗介の家は、ポニョを後見しなくてはいけないという条件がある。
ポニョは依存度がかなり高そうだ。
宗介よ、頑張れ。
成長しても、他の女子に目を向けてはいけないよ。
なにせポニョの実家は、ものすごいパワーをお持ちだ。
宗介くん、責任重大だよ(汗)。

もし万が一なんてことで、冒頭の人魚たちのような事態になってしまったら・・・と、マイナス思考になった人は多かれ少なかれいると思う。(いないか・笑)

リトル・レッド レシピ泥棒は誰だ!? 2005年 アメリカ

2009-04-28 | アニメーション
幼い頃に読み聞かされた童話や昔話の根本が、実は怖いものだと知ったときは、多少なりとも衝撃的であった。
それに関連した書籍が、前にずいぶんと流行ったが、子どもに道徳的な手本となるこうしたお話が、ひっくり返すと、人道に反した大人への戒めともとれてしまうところが何とも興味深い。

『赤ずきんちゃん』も本当はかなり際どい話であったりして、よくよく考えてみると、うーん、ちょっとどう考えても子どもにはよくないだろう、という内容ではある。

さて、この作品の赤ずきんちゃん ―― リトル・レッドはどうであろうか。
もちろん原作とは遠くかけ離れてはいるが、おしなべてアメリカ的な作りである。
レッドがもう少し可愛ければ、日本でもウケたとは思うが。

しかし感心するべき部分もきちんと備わっていたところが、本作品の評価すべき点である。
ある意味、「怖い」のである。
それは何か。
オオカミか?
串カツ屋の大男か?
ウサギなのか?
それとも、カエルの長い足か?
個人的には、レッドのおばあさんが“トリプルG”だったってことが、一番コワかったのである(笑)。

ペイネ 愛の世界旅行 ’74 フランス・イタリア

2008-06-23 | アニメーション
愛の讃歌と呼ぶにふさわしい作品。
相良直美の『ふたりのため~世界はあるの』を思わず口ずさんでしまいそうだ。

70年代は、世界的に激動な時代であった。
戦争や核に怯え、だからこそ人々は、〈愛と平和〉を強く訴えかけていた。
歴史的な流れを背景に、愛し合うふたり、バレンチナとバレンチノは世界中を旅する。

自由自在にどこへでも行き来できるふたりは、各地で様々な人々と出会う。
それも歴史上の偉人たちや有名人が、時代に関係なく普通に現れるところが楽しい。
個人的に気になった点があったので述べさせていただく。
イギリスへやってきたふたりは、エリザベス女王夫妻に宮殿へ招かれる。
そこにビクトリア女王も顔を見せる。
彼女から紹介され、ビートルズ(とおぼしき)の4人組が登場するのだが、ポール(らしき人物)は右利きで演奏していたし、リンゴ(らしい男)はドラムではなく、ギターを弾いていた(笑)
ふたりはその後、日本へもやってくる。
外国の方の表現方法としてはやむを得ないのかもしれないが、どう見ても日本ではない(苦笑)
どうしても他国(よそ)が雑ざってる感じ(汗)
仕方ない、大目にみましょう。
当時日本が、エコノミック・アニマルと批判されていたのは上手く風刺してましたね。

ふたりのラブ・パワーには圧倒されますが、バレンチノが、「愛と平和は夢でしかないのか」という言葉には切なくなります。
エンニオ・モリコーネのテーマ曲は必聴。
就寝前に聴けば、安眠が約束されそうなほど心地良いメロディーです。
もしもこのDVDを借りた際は、付録映像の〈旅行ガイド〉も鑑賞すると一層楽しめますよ。

耳をすませば ’95 日本

2008-06-08 | アニメーション
人生で最初の岐路に立つのが、15才という年ではないだろうか。
一般的に高校受験という、義務教育にない、「受ける」「判断される」という双方の見定めによって道が分かれる。(今では、幼稚園からのお受験も増えてきているが。)
15才で自分の進路を決めるのは難しい。
「まわりも当たり前のように進学するから」という本音だってあると思うが、将来こうなりたいと、漠然とでもいいから、その夢にむかって走り続けるのは素敵だ。

中学3年生の雫は、自分が借りた本の読書カードに、必ず同じ男子生徒の名前があるのに気づく。
「一体誰なんだろう。 いつもわたしより先に読んでいるなんて」
気になる、気になる。
多感なお年頃。
どんな人なんだろうー。

雫はある日、電車内で出会ったデブ猫(名前はムーン)を追いかけて行く。
そこで彼女が見つけた一軒の店。
「坂の上にこんな素敵なお店があったなんて」
雫はそこで、運命の人と再会する。

進路に悩む雫の力となるきっかけをもたらしたのが猫であった。
猫がいると、福を招いてくれるという話を聞いたことがあるが、我が家のニャンコはどうであろうか。
横で気持ち良さそうに寝ているが、そっと耳打ちしてみよう。
「おーい、期待してるゾー」(笑)

時をかける少女 2006年 日本

2007-08-28 | アニメーション
みずみずしく、さわやかな青春ファンタジー。
幾度か映像化された中では、’83に原田知世主演で映画になった作品が印象深い。
あのときは確か、薬師丸ひろこ主演のものと二本立てだったような・・・?(この頃は同時上映が主流で、今考えるとお得だった・笑)

初めてのアニメ版ということで、中味も現代風にアレンジされ、全体的にかなり明るくなっている。
本作品では、アニメーションならではの良さが存分につまっていた。
主人公である真琴の弾けかたが、観ていても清々しくて気持ちがいい。

男子同級生二人との友情関係も実にさばさばしている。
でもそのうちの一人、千昭からの思わぬ告白に驚く真琴。
以後、千昭に対して妙に意識してしまう。
永遠のテーマ、〈男女の友情は成り立つか〉に背いてしまいそうな状況の中、真琴はその現実を、“タイムリープ”という力を借りて、なかったことにしてしまうのである。

「うわ~ん」と大泣きする真琴。
真実を知り、ようやく自分の本当の気持ちに気づかされた彼女の姿に、キュンと胸が痛くなるような切なさを感じる。

「未来で待ってる」

“魔女おばさん”の姪である彼女だが、性格はまるで違う。
果たして真琴も、この叔母のような意志を持つのかどうか・・・
大人になってみないとわからないかもね。

火垂るの墓 ’88 日本

2006-06-25 | アニメーション
これこそかつて何かの作品のキャッチコピーで言われた、『涙でスクリーンが見えません』いや、『見えなくなる』に値する映画だ。
毎年、終戦記念日頃に放送される、野坂昭如の原作をアニメ化した本作。
話の筋がわかっているだけに、何度観ても、目がうるうる状態になってしまう。

声優陣がまたよく合っていたのにも、悲壮感を高めているように思われる。
映像にアテレコするのではなく、先に声優が脚本を読み、それに映像を合わせていったというのには驚いた。
そうすることによって、より情感のこもったものになるのかもしれない。

唱歌『埴生の宿』を聴くと、本作品と『ビルマの竪琴』を思い出す。
もっと前だと、『二十四の瞳』だろうか。
かすかに希望の光が見えてくるようだ。

戦争はすべてを破壊してしまう。
家も木も、人も心も。
でも、また立ち上がらなければならない。
前に進まなければならない。
いつの時代も、人はそうしてきたのだから。

あらしのよるに 2005年 日本

2005-12-28 | アニメーション
ヤギのメイとオオカミのガブは、お互いが似たもの同士だと気づいた時点から、真の友情を育んでいく。
オオカミはヤギの天敵である。
どう考えても、彼らの友情なんてあり得ない。
だが、我々が言う「あり得ない」という固定観念を、まず捨て去ってみてはどうだろうか。

命にかえても相手を守ろうとするその姿は友情をも超え、いたわり合う想いは男女のそれをも超越している。
外見や固定観念にとらわれない ― 即ちそれは、現代における人種差別や宗教問題にも当てはまる。
周囲からの反発を受けながらも友情を貫いていく様子は、ある意味、敵国同士の恋や友情、はたまた身分違いの恋といったロマンティシズムにも映る。
オオカミは、ヤギはこういうものといった概念を払拭し、お互いを必要とし合える関係は、言うなれば理想論に近い。

きむらゆういち原作の絵本を映画化した本作は、子供のみならず、大人が観ても深い感動を得られる。
むしろ社会に疲れ、優しさを忘れかけた者たちが観るべきものかもしれない。

メイが言う。
「ガブと出会えてよかったなぁって」

出会えてよかったと思える、そんな出会いが持てれば、人生の深みもまた違ってくるものだろう。