アブリコのCinema散策

のんびり映画でも観ませんか

アメリ 2001年 フランス

2016-12-16 | ラブ・ストーリー
ティラミス、パンナコッタ、ベルギーワッフル・・・。
海外から紹介されたスウィーツが、日本でワーッと火がついて、サーッと下火になるという点はお馴染みである。
この映画で人気となったプリン(プディング)がこれ。
おフランス産クレーム・ブリュレである。
「ぶるりぇ」ではなく、「ぶりゅれ」。
ゆっくり発音しよう。
表面のカラメルをバーナーであぶってパリパリにしたところを、スプーン(プラスチックではなく、ステンレス製か銀のもの)の先でバリッと崩して、中のカスタードといっしょにいただく。
この商品を扱うレストランやカフェが当時ずいぶん増えたっけ。

さて本作品の主人公、マドモアゼル アメリ。
究極の不思議ちゃん。
内気な性格ながら、やることはとても大胆。
彼女のやることなすこと全てがカワイーっと、世界中で大人気となった。
これで大ブレイクしたオドレイ・トトゥ。
インパクトが強すぎたせいか、以降の作品がさっぱりだったのにはお気の毒としか言いようがない。
でもこの役は確かに彼女にぴったりだった。
ジャン=ピエール・ジュネ監督に見出されたとのことだが、髪形もファッションも実に似合っていた。
そう、とにかく全体がおしゃれなんである。
これは強みだよなあ。

フランス映画だからこそのおしゃれ感。
ヨーロッパの中でもとりわけ自然で、しかも無駄なくインテリアや服飾のコーディネイトが素晴らしいのがフランスという国である。
60年代の映画をいま観たって素敵でしょう。

風変わりでおちゃめ、そんなキャラクターでもし日本でリメイクでもしたらどんなんだろう。
妄想好きなアメリ。
『高台家の人々』で演じた綾瀬はるか、あるいは『逃げ恥』のガッキーあたりが適役か?
でもアメリの成功は彼女のキャラもそうなのだろうが、やはり周りの小道具とか色使いやらファッションなど、なかなか真似できそうでできない(できても作られた感が強くなっちゃう)し、やっぱりあのセンスの良さは、フランスの映画独特のものなんだろうな、と思う。

眺めのいい部屋 '86 イギリス

2015-12-02 | ラブ・ストーリー
眺望がいいと、その部屋、あるいは建物自体価値が上がる。
少しばかり勝手の悪いキッチンだったり、気持ち広めのリビングがいいなあ、と思っていたところへ不動産屋の一言、「この眺めですから!」で決めてしまうなんてこともあろう。
「これ、この景色が見たかった!」と、はるばる遠方からその景色を見たいがためにやってくることもある。
景観を売りにしているホテルや宿はもちろん、個人が誰にも教えたくないほど独り占めしたくなるような眺めのいい場所もあったりする。

良家のお嬢様ルーシーは、年の離れたいとこと、イタリア フィレンツェの定宿を訪れる。
シーズンなだけに部屋は満室。
ルーシーたちの部屋は、眺めのよろしくないものであった。
いとこのシャーロットは、プンスカと機嫌が悪い。
食事中も、部屋について文句を言っていた。
それを同じテーブルで耳にしたエマソン氏が、「よろしければ、部屋をかわりましょう」と言ってくれる。
男だけだから、景色などどうでもいいと。
殿方の唐突な言葉にムッとしたシャーロットは、ルーシーを引っぱって、部屋へ引き上げてしまう。(結局は、部屋をかわってもらうのだけど。)
二人は感じのよい父子だった。
息子のジョージは一見無口な青年であったが、その実、情熱的で進歩的な思想の持ち主であった。
そのジョージは、テーブルを介し、ひと目でルーシーを好きになる。

ルーシーにはおまじめな婚約者がいた。
世間知らずで、まだ恋すらよくわからない彼女にとっては、結婚についても流れにまかせるものだと思っていた。
だが、ジョージの積極的な性格に驚かされながらも、自分の気持ちと対峙し、何が真実なのかを徐々に見出していく。

ルーシーとジョージは、あのフィレンツェの宿からの、眺めのいい部屋へと赴く。
窓辺でくつろぎながら、ルーシーは弟からの手紙を読み、時折、窓の外へ目をやり、その美しい眺めに懐かしさを覚える。
一方でジョージは、キスに余念がない。
やはり男にとっては、部屋の景色などどうでもいいらしい。


恋におちたシェークスピア '98 アメリカ

2015-06-25 | ラブ・ストーリー
1999年度のアカデミー賞で主要部門をかっさらっていった本作。
主演女優賞は、当時20代のグウィネス・パルトローに輝いた。
個人的には、『エリザベス』のケイト・ブランシェットを推したかったが・・・。

かのシェークスピアが不倫!
短い間ながらも、胸を焦がす若き詩人と大富豪の娘ヴァイオラ。
身分違いの恋だから、決して実ることのないふたりだから、余計に想いは募るのであります。
このふたりの境遇をもとに、『ロミオとジュリエット』が作られたという設定で、後半盛り上がるのでありました。

若き頃(ロンドンに出てくる頃)のシェークスピアに関しての資料は乏しく、不明確であるため、どういう経路で劇作家になったかも推測によるものらしい。
ならばドラマにすれば、いかようにも作れそうな感じである。
いかようにもといっても、軽薄気味のシェークスピアだとかなりイメージが悪くなりそうだ。
あれほどの人間考察の行き届いた戯曲をいくつも作りあげた人物ゆえ、現シェークスピア研究に携わる方々の中には、眉をひそめる人もいるのではなかろうか(苦笑)。

アカデミー賞受賞作となりながら、あまりオススメの類に入らないのは気の毒だが、この映画を観る限りでは、一部にしかウケないだろうな、とは思う。
アカデミー会員の方々にとっては、期待どおりの出来だったのでしょう。

思い出してみたら、大御所ジュディ・デンチが、本作品でエリザベス一世を演じており、しかも助演女優賞をとっていた。
ならばこの年、一緒にノミネートされた『エリザベス』で、ブランシェットが同じエリザベス一世の役で女優賞をとる筈はないわな。
そういう風にできているのね・・・。



(500)日のサマー 2009年 アメリカ

2015-03-27 | ラブ・ストーリー
「俺にはサマーしかいない。 サマーじゃなきゃ駄目なんだ」
サマーに一目ぼれしたトムは、他の女性には目もくれない一途な男であった。

当のサマーは超マイペースな性格。
「わたしにとって恋は絵空事。 お付き合いはしないの」
彼女にとって、トムは友だち。
彼はサマーと恋人同士になりたい。
いつまでも一方通行の恋なのか。
ふたりがくっつくことはないのだろうか。

トムがわめく。
「会社のコピー室で、熱烈に(サマー)がキスを迫り、IKEAでの手つなぎデート。 それに浴室でのメイクラブ。 これのどこが“友だち”だっていうんだ!」
確かにやっていることは友だちとは言い難い。
しかもサマーったら、ふたりがケンカしたその夜、雨に濡れた姿でトムの家にあやまりに来る。
目に涙を浮かべて。
「ごめんなさい・・・、言い過ぎたわ」
この状況で許さない男がいるだろうか。
もう思わず抱きしめたくなっちゃうよねえ。

サマーの言動に、一喜一憂するトム。
友だちっていったって、彼女のすることを見ていれば、思わせ振りなんじゃないかと疑っても仕方ない。
トムだって、こんなことされれば期待したくなるでしょう。

話だけ聞けば、サマーって「男をもてあそぶ小悪魔的な女」というイメージを持たれそうだが、決してそうではない。
彼女は自分にも相手にも正直である。
トムはサマーを愛している。
でもサマーは、あくまでもトムを友だちとして見ているのである。
「好きよ、トム」
そう、「愛してる」わけではないのだ。
だから後にとった彼女の行動に嘘はないのである。

失恋したトムは、身も心もズタボロに。
しかしいつまでもこうしたままでもいられはしない。
前進しなくては。
トムは自分の夢であった設計の勉強を始める。
就活も始める。
そして、新たな出会いの予感に・・・。

「女はわからない」と思う男性がほとんどだろうが、サマーの行為はやっぱりわからないだろう。
でも彼女は悪気はないのである。
そこがね、男女共に意見の分かれるところだとは思う。
「友だちから始めましょう」と言われていればよかったのか。
「わたしは付き合わない、あなたは友だち」と断言されてしまえば、その時点で失恋したんだと、トムも早々に割り切るべきだったのかも。
でもそうできないのが、恋心のもどかしいところなのだろうよね。

食べて 祈って 恋をして 2010年 アメリカ

2015-03-11 | ラブ・ストーリー
〈本当の自分を探す旅〉というのは一体何なのだろう。
あちらこちらとおもむくままに旅を続ける中で、自分を見つめ直すということだろうか。
それだけの時間とお金があれば、 自分探しでも宝探しでも、何かと理由をつけて、出掛けたくなるがなあ。

ジュリア・ロバーツ演じるリズは仕事を辞め、夫や恋人とも別れ、そのよくわからない〈自分探しの旅〉に出る。
イタリアへ、インドへ、続けてインドネシアを巡る。
イタリアではガンガン食べまくる。
太ったっていいのよ、ジーンズのボタンが閉まらなくなったっていいのよと、見境なくほおばる。
インドでは瞑想の日々。
マントラを唱える。
だが、あまり身が入っているようには見えない。
そしてこの映画のメインであるラブストーリーが、次のインドネシアから始まる。
そう、運命の男と出会うのだ。
クライマックスにむけて、ふたりの恋模様が綴られていく。

とどのつまり、「自分探し=恋をすること」だとここでは云いたいらしい。
「恋をしなさい」と、老占い師からも言われていたリズ。
自分と向き合って、運命の相手を見つけろということか。
なんだかなあ。
自伝的小説の映画化という本作品。
小説で読んだほうが、共感できるのかもしれない。
ベストセラーにもなったらしいし。
なんだかなあ、と思ってしまうのは、ぎすぎすと痛々しいロバーツの演技が、ただシラケて見えてしまうからであって、ロケ地の景観やら、他の見どころでもなければ、やたらと長いこの作品を見続けるのは、結構疲れます。

『プリティ・ウーマン』の頃には戻れないわけで、作品選びにも慎重になってくるお年頃だとは思うが、だいぶ前、ロバーツの紀行番組を観たことがある。
オラウータンの森や、モンゴルの遊牧民を訪ねたりしていた。
これらのドキュメンタリー番組に出ていた彼女は、とても自然体でよかった。
そういえば、今回の作品のプロモーションで初来日したんだよね。
「日本嫌いなんじゃないか」などと密かに言われるほど、今の今まで来なかったジュリア。
しかしまたなぜ、この作品だったのか。

『食べて 祈って 恋をして』 ― この猫かぶりのようなタイトルはいただけない。
いや、それはそれでいいのだが、こうした、いかにもウキウキしそうな感じのタイトルなら、キャスティングを考え直さなくてはいけない。
原題のまま、『Eat Pray Love』のほうが大人っぽく感じるが、これをカタカナにしちゃうと(イ-ト、プレイ、ラブ)、なんだかとてもイヤラシクなってしまうのはどういうわけだろう(笑)。

ラブソングができるまで 2007年 アメリカ

2014-07-30 | ラブ・ストーリー
ヒュー・グラントはコメディ俳優ではなかったと記憶している。
若い頃の彼は二枚目で、日本でも絶大な人気があった。
初期には、『モーリス』などシリアスものを普通に(?)演じていた。
ところがいつからか、彼はラブコメ映画にはなくてはならない存在にさえなっている。
いまでは、彼が出てきただけで、なぜかおかしさがこみ上げてくるほどだ。
あのいつも苦悶しているような、困り果てているような、タレ目のへの字口の情けない表情はすっかり定着している。

本作品はラブコメ特有のベタすぎる内容だが、個人的にすごくおかしかったところといえば、グラント扮するかつてのポップスターだったアレックスの80年代のコスチュームと、あのいかにもげなプロモーションビデオ(PV)である。
やたらとシンセが響く独特の曲調。
だいぶ前のカラオケの歌詞映像のような、くさい演技のストーリー。
いま見ると異様である。
TV番組『笑う洋楽展』で、みうらじゅん氏が某アーティストのPVを観ながら80年代をこきおろしていたけど、確かに当時は意味不明なものがたくさんあった。

超人気歌手のコーラの新曲作りに、落ち目のアレックスに白羽の矢が立つ。
なんでもアレックスを気に入っているという若いコーラが、是非ともということらしいが、10年以上も曲作りをしていない彼にとっては複雑であった。
しかも彼は作詞が苦手だった。

たまたまアレックスの部屋の"植物係"でやってきたソフィーが口ずさんだ詩に、「これだ!」と飛びつくアレックス。
おいおい、いくら落ち目といったって、キミはプロなんだろう?
彼はソフィーに作詞の依頼をすることに。
かつての大人気だったPOPのボーカルが、素人のソフィーに頼むって、そんなことって・・・。

世の中には、有名な作詞家になりたいと願う人は星の数ほどいると思うが、ソフィーはいきなり話題の歌姫に詞を書いてしまったのである。
それを承諾したコーラもいい人なんだろうが。

ラブソングを書くにあたっては、本人や他人の実体験をもとにするか、あるいは「こうであったらなあ」という作者の創作によるものと思う。
アレックスが自分で書いたバラードの歌詞は、みんなの心を打つものがあった。
それはソフィーに対する彼の本心からつづられたものであった。
ありがちな愛のフレーズよりも、経験した思いを素直に表現したほうが、やはり詞(ことば)に一層の深みが増すのだろう。


マイ・ブルーベリー・ナイツ 2007年 香港・中国・フランス

2014-04-30 | ラブ・ストーリー
ウォン・カーウァイ監督の作品は、これまでにも何本か観てきた。
今回の作品を観て改めて確信したことがある。
それは、彼の作品の舞台は、「香港が似合う」ということ。
ニューヨークでもダラスでも、ベガスでもない。
カーウァイ監督の映画は、香港を舞台にして輝けるのだということ。
トラン・アン・ユン監督が、'10に『ノルウェイの森』を撮ったときと同じ感想だが、トラン監督もベトナムを舞台にしてこそ光るのであって、それぞれがその場所で確立し、いわば観ている側もその風景で免疫ができてしまうと、やたらな試みはむしろ残念な結果となってしまう。

偶然知り合った男女のうち、一方が惹かれていき、最終的に二人は結ばれる。
そんな月並みなラブストーリーをカーウァイ監督が撮ってしまったことにも驚く。
粋なやりとりもなく、愛の深みも感じられない。
やるせない感情のぶつけ合いも乏しく、監督が得意とする表現が見当たらないのである。
やたらと目につくのは、おなじみのスローモーション撮影。
今回はちょっと多用しすぎではないのか。
アクセントで使うというより、全編に近かったほどの多用ぶり。
最後のほうではさすがにイラつきました。

ノラ・ジョーンズの演技がどうのこうの言われたり、ジュード・ロウのカフェオーナー役がしっくりこなかったり、なによりこんな安直なラブストーリーでは、作品としてちょっとくやしいかな。

切ない夜には、クリームとバニラアイスをたっぷりと添えたブルーベリー・パイが食べたくなる・・・そんな気持ちになれなかったのはまことに残念。
どうしてもこの流れに共鳴できなかった。

ワン・デイ 2011年 イギリス

2013-08-20 | ラブ・ストーリー
まったく、これほどまでに人生をムダにしてしまっていいのだろうか。
純な女ぶってる彼女と、女には困っていないと強がっている彼と、お互いの想いに正直になれず、20年以上もふっ切れずにいたふたり。
一体どうしたらいいのかわからないふたり。
観ているこっちはもっとわからない。

大学の卒業式後にふとしたことでベッドインしたふたりであったが、コトは起きずじまい。
なんとなく気まずくなるふたりではあったが、その日以降、ふたりは親友になってしまうのである。
なぜ?
そこがどうもよくわからない。
でも親友になるんです。
他人には言えないことも、ふたりは必ず相談し合う。
そうだよね、親友なんだから。

想いをしまったまま、エマは勤め先の同僚と同居し、デックスは相手をとっかえひっかえ、後にはデキ婚してしまう。

卒業した日(ふたりが言葉を交わした日)が7月15日だったということで、毎年その日をカメラは追っていくのだが、その意味するところがまたわからない。
ムダが多すぎやしないか。
どうもこうも観ていてイラッとしてきて仕方がない。

男女の友情を貫こうとも、恋情を抱いてしまうこともある。
そうなったら絶対に「友達以上」に発展したくなるのはフツーだろうし、自分をおさえて「友達」を続ける前にハッキリ言っちゃったほうがいい場合もある。
いまさら・・・などと思わず、あたっていくべし。

遠回りしてやっと、なんていうパターンも多かれど、これはやっぱり遠回りしすぎでしょう。
ふたりとも愛のない生活を送るハメになるのなら、なぜもっと早くお互いの気持ちを話さなかったのか。
いや、話していた場面もあったはあったが、なんとなく冗談ぽくなっちゃって、友達期間が長いってのも、いざというとき問題だなあ。
はっきりしないふたりを非難したくもなる。
人生は、決して長くはないのだ。

浜辺でデックスがエマの背中に日焼け止めクリームをぬっていたシーン。
ちょっとソノ気になりかけていたふたりだったが、エマのほうがはぐらかしてしまっていた。
もうー、そのまま進んでしまえっての!(笑)

そんなふたりも、長い期間の辛苦を経てようやく一緒になるときがやってくる。
20年以上かけて、やっと得た幸せだものね。
その幸せがずっと続いてほしかったけど・・・。

エマ役のアン・ハサウェイは、すっかり実力派に転身してしまったが、ここでは40代まで演じることには無理があったような。
相手役のジム・スタージェスも然り。
彼、’07の『アクロス・ザ・ユニバース』のときはよかったんだけど。
ハサウェイなんぞ、口の大きさからして肉食女子風なのだし、ちょっとこの役はミスキャストだったんじゃあないかな、などとストーリーからキャスティングまで文句ばかりでいやはやすみません。

アナとオットー ’98 スペイン

2013-07-26 | ラブ・ストーリー
運命に導かれ、出逢うべくして出逢ったふたり――アナとオットー。
初めてふたりが出逢ったのは森の中。
後に同じ小学校だということに気づく。
このときすでにふたりは確信していた。
運命の相手であることを。

アナの母親とオットーの父親が再婚することとなる。
アナとオットーは兄妹になった。
しかしふたりはきょうだいなどとは思っていない。
ふたりは成長とともに愛し合うようになる。

実母と一緒に暮らしていたオットーだったが、アナと離れて暮らすことに我慢できず家をとび出す。
突然訪れたオットーに父は驚く。
「今日は水曜日じゃあないぞ」
こっちで暮らすことを話すと父は、「母さんに言ってきたのか?」
首を振るオットー。
電話をかけ、母に伝える。
父と別れてから、母は悲観的になり、唯一の心のよりどころが一人息子のオットーであった。
オットーは、母よりもアナを選んだ。
母は電話のむこうで泣いていた。

改めて“家族”として生活を始めたオットー。
仲むつまじい家族の写真もそこにある。
アナとの関係もゆるぎない。
そんな中、久し振りに訪れた実家で、彼は母の死を知ることとなる。
その死をきっかけに、ふたりの運命の歯車が狂いだしてゆく。

母がこうなったのは父のせいだとわめく。
だがオットーは言う。
一番悪いのは自分なのだと。
行き先も告げず、オットーは家を出る。
しかも父の金をすべて持って。
その後、アナも母親と一緒に家を出た。
すれ違いが続くふたり。
どこでなにをしているのか。
それもお互いわからない。
でもふたりは偶然を信じ、直感を信じていた。
その思いが通じてか、ふたりの距離は着実にせばまっていく。
もうすぐそこに、きっと、驚き、喜び合うふたりの表情が見えるはず・・・。

これはラブストーリーなのだろう。
しかしそれだけではないような気がする。
アナの瞳に映るオットーの姿。
アナを抱きしめる女性。
その女性の顔は見えない。
個人的な考えでは、それはオットーの亡き母なのではないか。
オットーは誰のものでもない。
オットーは永遠にわたしのもの。
だから、あきらめて。
そんな思いが伝わってくるような気がしてならない。

フィンランドの“真夜中の太陽”に心をうばわれる。

パリ、恋人たちの2日間 2007年 フランス・ドイツ

2010-12-21 | ラブ・ストーリー
ジュリー・デルピーという人は、なかなかの才媛である。
10代の頃から、自分で作品を撮りたいという志を持ち、いずれはアメリカへという思いを実現させている。
もともと閉鎖的なフランス映画界に不満があったようで、確かにアメリカ映画に出演する彼女は、それまで自国での役柄とは一変するものが多い。
とにかく喋るのである。

本作での彼女は監督をはじめ、脚本や音楽なども担っている。
脚本に関しては、’04の『ビフォア・サンセット』で経験済みだが、90年代には既に短編映画を撮っている。

この映画では、「男女は真に分かり合えるのか」といった疑問を投げかけたという。
ニューヨークに住む恋人同士が、彼女の実家があるフランスのパリに2日間滞在し、その間彼氏が、恋人であるマリオンの元カレたちに遭遇したり、彼女の驚くような一面を目の当たりにしたり、慣れないフランス語や習慣にとまどい、だんだんと気後れしていく一方で、喋り捲るマリオンは、なんでこんなことも分かってくれないのかと恋人のジャックを責めるのである。

分かり合っているようで、実は何も分かっていなかった、なんてことは恋人でも夫婦でもよくある話。
彼らもそこに気づき、とことんお互いについて話し合うことにした。
それでもダメだったら、それはもうその程度の関係なのだと割切るしかないだろう。

男と女は、まったく別物の生き物として認知されている以上、真に分かり合うということはかなり困難なように思うのだが、まぁ適度に分かり合いながら(そんなフリをしながら・笑)、仲よくやっていくしかないのだろう。