アブリコのCinema散策

のんびり映画でも観ませんか

ラブソングができるまで 2007年 アメリカ

2014-07-30 | ラブ・ストーリー
ヒュー・グラントはコメディ俳優ではなかったと記憶している。
若い頃の彼は二枚目で、日本でも絶大な人気があった。
初期には、『モーリス』などシリアスものを普通に(?)演じていた。
ところがいつからか、彼はラブコメ映画にはなくてはならない存在にさえなっている。
いまでは、彼が出てきただけで、なぜかおかしさがこみ上げてくるほどだ。
あのいつも苦悶しているような、困り果てているような、タレ目のへの字口の情けない表情はすっかり定着している。

本作品はラブコメ特有のベタすぎる内容だが、個人的にすごくおかしかったところといえば、グラント扮するかつてのポップスターだったアレックスの80年代のコスチュームと、あのいかにもげなプロモーションビデオ(PV)である。
やたらとシンセが響く独特の曲調。
だいぶ前のカラオケの歌詞映像のような、くさい演技のストーリー。
いま見ると異様である。
TV番組『笑う洋楽展』で、みうらじゅん氏が某アーティストのPVを観ながら80年代をこきおろしていたけど、確かに当時は意味不明なものがたくさんあった。

超人気歌手のコーラの新曲作りに、落ち目のアレックスに白羽の矢が立つ。
なんでもアレックスを気に入っているという若いコーラが、是非ともということらしいが、10年以上も曲作りをしていない彼にとっては複雑であった。
しかも彼は作詞が苦手だった。

たまたまアレックスの部屋の"植物係"でやってきたソフィーが口ずさんだ詩に、「これだ!」と飛びつくアレックス。
おいおい、いくら落ち目といったって、キミはプロなんだろう?
彼はソフィーに作詞の依頼をすることに。
かつての大人気だったPOPのボーカルが、素人のソフィーに頼むって、そんなことって・・・。

世の中には、有名な作詞家になりたいと願う人は星の数ほどいると思うが、ソフィーはいきなり話題の歌姫に詞を書いてしまったのである。
それを承諾したコーラもいい人なんだろうが。

ラブソングを書くにあたっては、本人や他人の実体験をもとにするか、あるいは「こうであったらなあ」という作者の創作によるものと思う。
アレックスが自分で書いたバラードの歌詞は、みんなの心を打つものがあった。
それはソフィーに対する彼の本心からつづられたものであった。
ありがちな愛のフレーズよりも、経験した思いを素直に表現したほうが、やはり詞(ことば)に一層の深みが増すのだろう。


少年は残酷な弓を射る 2010年 イギリス

2014-07-13 | ミステリー&サスペンス
少年の心の内は、誰にも察することのできない残忍さで満たされていた。
頭もよく、運動能力も秀でている。
相手によって弁口を変え、それは家族をもだます巧みさだ。
ケヴィンは、一見線の細い美少年である。
母に見せる冷ややかな微笑、奥に潜む冷酷さ。
その目は、何かを捕らえようとする鋭さと、凍てつくような冷たさを湛えていた。

ケヴィンは赤ん坊の頃から母親を悩ませる子どもだった。
子どもというものは、少なからず親を悩ませるものだが、ケヴィンの場合はその度合いが強すぎた。
母親はくたびれ果てる。
ノイローゼになってもおかしくないほどだ。

不思議と父親にはなついていた。(いや、それも子どもなりの演技だったのかもしれない。)
母は思うのであった。
― この子はどうして私にはすべてに対して反発するのかしら。 何ひとつ受け入れてくれない。
まるで母親を小馬鹿にしているようだわ ―

ケヴィンは母が嫌いなのか、憎いのか。
妹が生まれ、一時は母に甘える様子を見せたことがあった。
めずらしくケヴィンにせがまれ、絵本を読み聞かせる母。
その絵本に描かれていたものに、ケヴィンは鋭い反応を後に示すようになる・・・。

凄惨な事件を起こしたケヴィン。
ケヴィンの母親に対しては誰一人、同情の目を向ける者はいない。
嫌がらせや嫌悪の情を突きつけられることはしょっちゅうであった。
しかし彼女は、ひたすら耐える。
耐えて、耐えて、耐え続ける。

面会の日、母と息子の会話はほとんどない。
ここで、分かることがある。
母は息子を愛しているということ。
これほどのむごい出来事があっても、どれほどひどい仕打ちを受けてきたにせよ、ケヴィンを、わが子を突き放すことを母はしない。

果たして、ケヴィンは本当に母を憎く思っていたのだろうか。
個人的には逆に思えてしまうのである。
彼は異常なほどに母を慕っていたのではないのか。
それは、ひどく屈折した愛だったのではないか、と。
そしてこの親子は時折、よく似た仲のよい母と息子に見えたのも確かなのである。