大阪で研修があったので、大阪城に行った。最近山にあまり山に登れていないが、その分、城や歴史巡りが多くなった気がする。関ケ原や名古屋城に行ったり、沼田城・名胡桃城にも行った。大阪城は、ちょうど今、大河ドラマ「真田丸」の舞台にもなっているためか、平日だったけど、人でにぎわっていた。あまり時間がなかったので、天守閣は展望台に登って周りの展望を楽しみ、資料館は流すようにみた。大阪城のボランティアガイドさんに、40分ぐらいの時間で城内を案内していただき、石垣などの説明を受けた。案内していただけるとよくわかって、さすがに詳しいと思った。
豊臣秀吉が築いた大阪城には、秀吉は1年ぐらいしか住まなかったようである。豊臣秀頼は、1598年5歳の時に父秀吉が亡くなったあと伏見城から移り、23歳で自害するまで大阪城に住む。1614年秀頼と淀殿は、徳川との決戦を覚悟し籠城、15万とも20万ともいわれる幕府勢に「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の二度にわたって攻め立てられ、1615年ついに豊臣政権は息の根を止められた。ここに、栄華を極めた豊臣家は滅亡し、比類なき大坂城は灰になった。現在、豊臣期の大坂城は土の下に埋もれている。石垣の積み方や石の刻印などから、江戸幕府が堀や石垣に至るまで天下普請によって造り直している。つまり、巨大な石垣や深い堀は、“秀吉の大坂城”ではなく、豊臣家が滅亡した後に、徳川家がつくったものである。ブラタモリで放映していた地下にある豊臣時代の石垣がみえる穴の蓋には、鍵がしっかりしてあった。大阪城は東、北、西の三方向が上町台地の崖となり、湿地帯に囲まれ、自然の地形の力で、強固に守られていた。幕末に徳川慶喜が大阪城から江戸に逃亡する際に出火し、建造物の殆どが焼失、更に終戦前日の大阪大空襲により焼失した。1665年に落雷によって消失した天守は昭和6年(1931)まで再建されず、266年間大坂城は天守を持たない城でもあった。その後、昭和40年(1965)に大阪城整備工事の一環として再建されたものでが現在の大阪城天守である。
豊臣秀吉が築いた大阪城には、秀吉は1年ぐらいしか住まなかったようである。豊臣秀頼は、1598年5歳の時に父秀吉が亡くなったあと伏見城から移り、23歳で自害するまで大阪城に住む。1614年秀頼と淀殿は、徳川との決戦を覚悟し籠城、15万とも20万ともいわれる幕府勢に「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」の二度にわたって攻め立てられ、1615年ついに豊臣政権は息の根を止められた。ここに、栄華を極めた豊臣家は滅亡し、比類なき大坂城は灰になった。現在、豊臣期の大坂城は土の下に埋もれている。石垣の積み方や石の刻印などから、江戸幕府が堀や石垣に至るまで天下普請によって造り直している。つまり、巨大な石垣や深い堀は、“秀吉の大坂城”ではなく、豊臣家が滅亡した後に、徳川家がつくったものである。ブラタモリで放映していた地下にある豊臣時代の石垣がみえる穴の蓋には、鍵がしっかりしてあった。大阪城は東、北、西の三方向が上町台地の崖となり、湿地帯に囲まれ、自然の地形の力で、強固に守られていた。幕末に徳川慶喜が大阪城から江戸に逃亡する際に出火し、建造物の殆どが焼失、更に終戦前日の大阪大空襲により焼失した。1665年に落雷によって消失した天守は昭和6年(1931)まで再建されず、266年間大坂城は天守を持たない城でもあった。その後、昭和40年(1965)に大阪城整備工事の一環として再建されたものでが現在の大阪城天守である。
最近は、研修があると、終わった後に、城巡りをすることが多くなりました。城の多くは便が良いとこにあるし、ガイドさんの説明を聞くと、奥の深さや歴史を感じ、楽しんでいます。