おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ウンタマギルー

2023-08-31 06:36:18 | 映画
「ウンタマギルー」 1989年 日本


監督 高嶺剛
出演 小林薫 青山知可子 平良進 戸川純 ジョン・セイルズ
   照屋林助 エディ

ストーリー
1969年、米軍統治下の沖縄では多数の日本復帰派と少数の現状維持派、沖縄独立派に分かれていた。
いずれにも属さないギルーは西原製糖所で働きながら、西原親方の養女で美人のマレーに思いを寄せていた。
ある晩ギルーはマレーを毛遊びに誘い出し、運玉森で情交にふけるが、他人の夢を見破るウトゥーバーサンに知られてしまった。
マレーが豚の化身であることを知ったギルーは親方の怒りを買い、槍で命を狙われることになった。
製糖所の放火魔の濡れ衣を着たギルーは娼婦で動物占い師の妹・チルーの手引きで、豚の種付け屋のアンダクェーと運玉森へ逃げ込んだ。
ギルーは妖精キジムナーの手で眉間に聖なる石を埋め込む心霊手術を受けて超能力をもらい、義賊となってウンタマギルーと名乗った。
ウンタマギルーは金縛りの術や液体浮遊の術で米軍倉庫や悪徳日本動物商会を襲い、沖縄独立派の喝采を浴びた。
散髪屋のテルリンはウンタマギルーの活躍を芝居にしようと考えた。
ウンマタギルーは親方に度々槍を投げられたが、うまくかわしていた。
ウンタマギルーは沖縄のヒーローとなり芝居にも出演するが、上演中客席にいた親方の槍が命中した。
月日は流れ、安里製糖所ではギルーと瓜二つのサンラーが働いており、マレーの姿もあった。
そんなある日、安里親方は作業員たちに沖縄の日本復帰を告げると、マレーを道連れにダイナマイトで無理心中したのだった。


寸評
沖縄の映画と聞くと沖縄戦を描いた作品だったり、沖縄返還後の基地問題を扱った作品を想像するが、「ウンタマギルー」は戦争が終わり沖縄が本土復帰を果たす直前の沖縄を描いた作品である。
しかも社会性を追求したものではなく、むしろ土着の風俗を前面に出したファンタジー作品である。
内容以上に土着と言う印象を強くするのは、話される言葉が聞きなれない沖縄の方言であり、意味は字幕によって我々に知らされるという形式をとっていることによる。

話は奇想天外なものだ。
ギルーは憧れていた美人のマレーと関係を持つが、マレーは西原親方が大事にしている豚の化身であったことを知ってしまう。
秘密を知られた西原親方はギルーの命を狙うが、ギルーは運玉の森へ逃げ込み木の精の妹を助けたことから、木の精である男から空中浮遊など"神の技"を伝授され、動物を操る能力も身につける。
義賊となったギルーは住民から慕われ自分をモデルとした芝居に出演するが、西原親方の投げた槍を頭に受けてしまうという訳の分からないものである。

おまけに彼を取り巻く人々も訳の分からない人ばかりだ。
ギルーにはチルーという霊感力の強い娼婦の妹がいるのだが、このチルーは米軍の高等弁務官に差し出されたところ彼に恋をしてしまうという変な女性である。
過食症の母親はサイのステーキ、バクの金玉スープ、アルマジロの甘酢がけが食べたいなどと意味不明なものを要求している(間違っているかもしれないし、他にもあったと思うが、あまりにも変なものなので記憶は不正確)。
極めつけは豚の化身であるマレーである。
豚の化身だけあって豊満な肉体である。
豚に戻った時は本当の豚が赤い毛氈の上に寝そべっているのだが、その姿を見るとマレーは本当に豚の化身に見えてしまうのだから、人の持つイメージとはおかしなものである。
そして盲目の西原親方は、ブタの精霊であるマレーの純潔を守ろうとして自らは去勢しているという男である。
ファンタジーには想像を膨らませた登場人物や動物が出てくるが、それにしても「ウンタマギルー」の登場人物は滅茶苦茶である。
これらの人々を受け入れられなければこの作品を見続けることはできないだろう。

印象に残るのは銃撃戦となった時にギルーが「アメリカでも日本でもない。琉球が故郷だ!」と叫んだシーンだ。
何だか中国が喜びそうな叫びだが、実際本土復帰に際して琉球として独立する案もあったようである。
僕は車がまだ右側通行だった頃に沖縄を訪れたことがあったが、幹線道路を外れた村での老人との会話や、目にする異文化でもって、沖縄はやはり本土とは全く別の土地なのだと思ったものだ。
琉球国は薩摩に支配され、中国にも貢物をする二重外交をやっていた国だと実感したのだ。
最後にマレーが吹っ飛んでしまうのは、沖縄が琉球国であった歴史をふっ飛ばした瞬間でもあったように思う。
本土に翻弄される沖縄というイメージがどうしても湧いてしまうのである。