おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ボクサー

2023-03-16 09:43:48 | 映画
「ボクサー」 1977年 日本


監督 寺山修司
出演 菅原文太 清水健太郎 小沢昭一 春川ますみ 地引かづさ
   伊佐山ひろ子 新高恵子 名和宏 大泉滉 唐十郎 具志堅用高

ストーリー
熱気と興奮が渦巻くボクシングスタジアムに、今日も隼の姿があった。
よれよれのレインコートに身を包んだ隼こそ、元東洋チャンピオンである。
過ぎ去った栄光の夢を追っているのかもしれないが、今はもう彼に気づく者は誰もいない。
隼が天馬と出逢ったのは弟の死が原因であった。
隼のたった一人の弟淑はビル解体の工事現場で、機械の故障による不慮の事故で死亡した。
そのクレーンを運転していたのが天馬である。
不幸にも同じ工事現場で働く仲間の事故、しかも同じ職場の女性みずえと淑は結婚を間近かにひかえていた。
そして天馬もみずえに恋心をいだいていたことから「わざとやったんだ」という心ない噂が、失意の隼の耳に伝わってきた。
「涙橋食堂」には毎日いろんな人が集まってきたが、天馬も常連の一人である。
食堂に来た隼は、天馬がボクシングジムに通っていることを知る。
天馬はチャンピオンを夢みて沖縄から上京していて、初試合の日が迫っている。
毎日のハードな練習も効果なく、天馬はマットに沈んでしまった。
彼の不自由な片足に限界をみたジムは天馬を見捨てる。
ジムを追われた天馬は隼を訪ね、チャンピオンになりたい一心で隼に頼みこむが、隼は何度も断った。
しかし、天馬の熱意に胸を開いたとき、隼の顔には笑顔がもどっていた。
隼と天馬のトレーニングが始まり、そして天馬にチャンスがやってくる。
東日本新人王決定戦をひかえて、トレーニングにも熱がはいり、天馬は予戦を勝ち抜いた。


寸評
天満は足首が悪くてフットワーク上のハンデとなっているのだが、そのハンデをいかにして克服していくのかというプロセスがないので盛り上がり感に欠けている。
トレーナーの隼も視力が低下しているようなのだが、それが物語に全くと言っていいほど絡んでこないのも消化不良を引き起こしている。
うがった見方をすれば、当時現役世界チャンピオンであった具志堅用高のシャドーボクシングと、清水健太郎のそれとの切れの違いを隠すために足を不自由に設定したのかもしれないと思うし、清水健太郎とのバランスから菅原文太も視力が落ちていることにしたのではないかと思わせる。
それでもボクシングファンだった寺山修司が監督しているので、東映らしからぬ独特のテイストがあり、寺山修司のボクシングに対する造詣の深さもうかがえる。
木場の水上に浮かんだ丸木の上でトレーニングする姿などは日本のトレーニングらしくていいシーンだ。
ボクシングファイトのシーンになると、一応の水準は満たしているものの、このような場面の描き方、撮り方はアメリカ映画に一日の長があるなと感じさせた。

隼は現役時代に勝てる試合で戦いをやめてしまったのだが、その理由が「やめたくなったからだ」というものなのだが、その延長線上に今の隼があるはずなのに、それがよく見えない。
安アパートでビラ貼りなどの仕事で暮らしているようなのだが、そうなった経緯もよくわからない。
妻とは別れているようなのだが、娘とは交流を持っているし、妻もよりを戻したそうだ。
この家族関係もなんだかよくわからない。
娘の描かれ方が、どこか訳アリ風になっているが、彼女が嘘の言い訳をして天満の試合を見に来ず旅立っていく余韻も僕には浮いたものに感じてしまった。
「涙橋食堂」に集まってくる連中は、大泉滉をはじめよくわからん連中なのだが庶民であることに間違いはない。
そこで繰り広げられる彼等の姿は物語とは直接の関係はない。
浮世離れした庶民の生活が作品とマッチングしていない感じなのだが、あれは寺山修司のアングラ劇団的なお遊びだったのだろうか。
兎に角、彼等は下町のヒーロー的な天満を応援している。
駆け出しのボクサーはこのような人々に支えられているのかもしれない。

印象に残り、驚かされたのは人生の最後を不幸な結末で締めくくったボクサーの名前が読み上げられたことだ。
名前を知っているボクサー、例えばピストン堀口、大場政夫などだが、特に戦後間もない頃のボクサーの亡くなり方に衝撃を受けた。
今となっては日本ボクシング上の歴史的人物となってしまった、かつてのチャンピオンたちの姿が懐かしい。
ファイティング原田、海老原博幸、柴田国明、西城正三などが観客としてほんのわずか姿を見せるのだが、ボクシングファンでもない僕でも「あー、いたいた・・・」と懐かしく思えた。
ラストシーンはちょっとドラマチックすぎるとは思うが、清水健太郎が菅原文太に倒れ掛かったところのストップモーションで終わるのはよかった。
寸前の血を流し張れ上がった清水健太郎のメイクが効いていた。

ボーン・アルティメイタム

2023-03-15 08:40:24 | 映画
「ボーン・アルティメイタム」 2007年 アメリカ


監督 ポール・グリーングラス
出演 マット・デイモン ジュリア・スタイルズ デヴィッド・ストラザーン
   スコット・グレン パディ・コンシダイン エドガー・ラミレス
   ジョーイ・アンサー コリン・スティントン アルバート・フィニー

ストーリー
ボーンは、モスクワの闇の中にいた。 時折、過去の記憶が頭を掠めていく。
ボーンは警官隊から逃げ延び、再び闇へと姿を消す。
数ヶ月後、ボーンはパリで死んだ恋人マリーの兄を訪ねていた。
その頃、新聞記者のロスは、CIAの暗殺部隊“トレッドストーン”計画と、ボーンの存在情報を得ていた。
新聞の一面を飾った自身の記事を目にしたボーンは、ロスとの接触を試みる。
だが、CIAのヴォーゼンが放った殺し屋により、ロスは、射殺されてしまう。
ボーンは、ロスが残したメモから、マドリッドのCIA支局長が情報源であることを突き止める。
一方、ヴォーゼンは、過去にボーンと渡り合った経験を持つパメラを捜査班に加える。
マドリッド支局に辿り着いたボーンは、過去に特別な関係にあったニッキーと再会する。
ニッキーは、支局長がタンジールに向かったことを告げ、ボーンと行動を共にする。
ヴォーゼンは、支局長とボーン、そしてニッキーの暗殺を命じるが、パメラは、ボーン達の行動には意味があるはずだと主張する。
タンジールでは、支局長が暗殺されるが、ボーンは暗殺者を撃退。
その後、ニッキーを逃がして、ニューヨークへと戻ったボーンは、パメラとコンタクトをとり、トレッドストーン計画の中枢である研究所の住所を知る。
ボーンは、ヴォーゼンからトレッドストーン計画の機密書類を盗み出し、その告発をパメラに託すと、遂に、研究所内部で全ての過去を取り戻す。
それは、洗脳を受け、暗殺者として生まれ変わった日の記憶だった。


寸評
前作で描かれたラストは、ボーンがロシアの追跡から逃れてニューヨークに戻り、パメラに電話を入れてパメラから本当の名前と生年月日と住所を教えてもらう場面だった。
今回はその続編だが、その間の出来事が上映時間の半分ぐらいを割いて描かれている。
半ばころにパメラがボーンの本当の名前を教えるという前作で描かれたシーンがそのまま持ち込まれ、シリーズを見ていた者にはここからが前作の続きになるのだということが分かる。

バイクを使った逃亡劇やカーチェイスによる追いかけごっこが随分と時間を割いて描かれているが、サスペンスと言うよりはアクションのウェイトが高いのでそれもやむを得ぬことか。
ビルの屋上を駆け巡る追いかけごっこも盛り込まれている。
兎に角、シリーズ中でも追跡劇が多い作品となっていた。
アクションシーンは相変わらず短いカットをふんだんに使って迫力を出している。

一作におけるマリーとの触れ合い、二作におけるパメラとの心の通い合いといったしっとりとした部分は少なくて、ボーンが記憶喪失から逃れて自分の過去にたどり着く様子を描いている。
最終章なので当然のストーリーと言える。
従って、マリーの兄が登場するが大した意味はなく、ボーンが妹の死を伝えるだけのもので、別段なくてもよいエピソードのように思う。
CIAの女性ニッキ―と再会するが、彼女とボーンの関係をもう少し描いても良かったのではないかと感じた。
ニッキ―はボーンに協力することで、彼女も追われるハメになるのだから、そのリスクを冒してまでボーンに協力する意味づけは必要だったのではないか。
訓練期間中に特殊な感情を持っていたような雰囲気は描かれているんだけどなあ…。

トレッドストーン計画の秘密書類が明らかになることで、計画の首謀者達が刑事訴追を受けることになるが、そんなにやばい書類なら焼却しておけばよいものをと思ったりもした。
CIAって、ここに描かれたようなことが簡単にできてしまう組織なのだろうか?
個人情報なんて筒抜けだし、通信は傍受し放題だし、場合によっては殺人だって平気で行っている。
防犯カメラの映像をたちどころに回線を通じて入手してしまうなどすごい情報網だ。
想像の世界だが、それでも本当に行われているようなイメージをCIAに抱く。
わが国にはそのような組織が存在していないが、必要と思う反面存在していればそれは国民にとっても恐ろしい組織なのだろうなと感じさせた。

ボーンは死んだと思われているが、その死体は発見されていないとのニュースが流れる。
それを聞いたニッキ―がボーンは生きていると信じてニッコリするシーンが印象的だ。
実際ボーンは生きていて、シリーズは完結を見たが、まだ続編が作られる余地を残して終わったような気がする。
同じようなシリーズに、トム・クルーズの「ミッション・インポシブル・シリーズ」があるが、僕はボーン・シリーズの方が好きだな。

ボーン・スプレマシー

2023-03-14 09:30:38 | 映画
「ボーン・スプレマシー」 2004年 アメリカ


監督 ポール・グリーングラス
出演 マット・デイモン フランカ・ポテンテ ジョーン・アレン
   ブライアン・コックス ジュリア・スタイルズ カール・アーバン
   ガブリエル・マン マートン・ソーカス

ストーリー
記憶を喪失した男、ジェイソン・ボーン(マット・デイモン)。
自らの真実にたどり着いたボーンは、トレッドストーン計画の提唱者のコンクリン(クリス・クーパー)に、「俺は死んだ。俺を追うな」と宣告し、過去を捨てる決意をした。
真実への道程を共にしたマリー(フランカ・ボテンテ)と人間らしい新しい生活を始めるために――。
あれから2年。ボーンとマリーは、インドのゴアで人目を避けて暮していた。
しかし、ボーンの記憶は完全には戻らず、毎夜のように過去の悪夢にうなされている。
その頃ベルリンでは、CIAの女性諜報員パメラ・ランディ(ジョアン・アレン)率いるチームが、組織内の不祥事の調査に当たっていた。
在野の情報屋がCIA内部での公金横領に関する資料を入手したというのだ。
パメラはこの資料を得るために取引に応じる。
しかし、厳重な警戒にもかかわらず、何者かが取引現場を襲撃、交渉約のCIAのエージェントと情報屋は殺され、現金と共に資料も奪われてしまう。
CIAのデータベースに指紋照合をすると、「トレッドストーン計画。アクセス拒否」という表示が現れる。
自分にはアクセスが許されない最高機密―パメラはCIA本部へと飛んだ。
再びインド、ゴア。ボーンは街で危険な匂いを漂わせる一人の男に気づく。
獲物にあくなき執着を見せる猛禽のようなその男キリル(カール・アーバン)は、車では現地に精通しているボーンたちに利があるとみてとると、ライフルでボーンとマリーの乗るジープに狙いを定める。
そしてジープが橋の上にさしかかったとき、キリルの銃弾が運転するマリーの頭を射抜く。
ジープごと川に転落したボーンは、必死にマリーを救おうとするが、すでに彼女は息絶えていた。
そのころ、CIAではパメラが指紋の主をつきとめていた。
それは、トレッドストーン計画最中の事故で死亡したことになっているジェイソン・ボーンという男のものだった。


寸評
続編だけにやはり第一作を見ておかないと興味が半減する。
前作の評判を聞いて本作を見たものにとっては物語の背景が分かりにくいだろう。
コンクリンて何者だということになるのではないか。
ボーンが後遺症に悩まされ、マリーと共に記憶を取り戻そうとしている様子が描かれるが、これも前作の話があってのシーンだと思う。
シリーズ物だけに、それは致し方のないことなのかもしれない。

第一の事件として冒頭で調査員と情報屋が殺され、仕掛けられた爆薬に偽の指紋が残される。
前作を見た者ならその指紋が誰のものかは容易に想像がつく。
持ち去られたファイルも勘のいい観客なら内容の想像がつくかもしれない。
なぜなら悪は一体誰なのかが前作からの引継ぎもあって早い段階で分かるからだ。

前作の引継ぎという点においては、ラブロマンスで終わったマリーとボーンが一緒に生活していることがある。
場所はアメリカから見れば地球の裏側にあたるインドで、それは姿を隠して生き延びていることの証となっている。
ボーンの命を狙っているのはCIAだけではないので、ここにも魔の手がのびて事件が起こる。
案外と早い時間帯で第二の事件とも言えるインドでの結末を迎える。

CIAではパメラというやり手の女性捜査官がリーダーとなってボーンを追うことになる。
ボーンは記憶喪失になっているが、時折断片的に脳裏をかすめる光景が浮かび、徐々に記憶を取り戻しつつあることが挿入され、度々ロシア人家族の写真が頭をよぎる。
この写真の秘密はやがて暴かれていくことになるのは期待通り。
ボーンはパメラと電話連絡を取ることに成功するが、ボーンは望遠鏡でパメラの顔を見ながら話していることを知らせるくだりが2度出てくる。
パメラの反応が画面を引き締める。
ボーンとパメラに信頼感の様なものが生まれたことを感じさせなかなか粋なエンドであった。

今回は続編ということもあって新鮮さを感じないし、ストーリ展開の描き方も平板でスリル感に欠けたように思う。
ただ全体を通じてものすごいとしか言いようのないカット割りが目に付く。
数秒間でカットを切り替えて緊迫感を出し、軽快でミステリアスな音楽かぶせていく手法は現在のハリウッド発のアクション映画では当然のものとなっているようだ。
その中でも本作は数えていないがカット数は相当なものになっていたはずだ。
編集担当の苦労と力量が感じ取れた。
ロシアでのシーンはカーチェイスの印象しか残らないが、少女の話はしんみりさせた。
マリーとの思いで写真と対になっていたと思うが、ボーンが人間性を取り戻した瞬間だったのかもしれない。
完全に記憶が戻ったのかどうかは不明なので、シリーズはまだ続きそうだ。
マット・デイモン健在と唸った作品だった。

ボーダー

2023-03-13 11:31:08 | 映画
「ボーダー」 1981年 アメリカ


監督 トニー・リチャードソン
出演 ジャック・ニコルソン ハーヴェイ・カイテル ヴァレリー・ペリン
   ウォーレン・オーツ エルピディア・カリーロ

ストーリー
ロサンゼルスの警官チャーリー・スミス(ジャック・ニコルソン)は、妻のマーシー(ヴァレリー・ペリン)の望みでテキサスの国境の町エルパソヘ引っ越すことになり、彼女の親友サバンナ(シャノン・ウィルコックス)と夫のキャット(ハーベイ・カイテル)を頼って新しい生活へと旅立った。
一方国境をこえたメキシコでは乳のみ子をかかえた母親マリア(エルピディア・カリーロ)が弟のファン(マニュエル・ビエスカス)と共に苦難の生活から何とか立ち上がろうと努めていた。
キャットと共に国境警備隊員として働くことになったチャーリーは、故郷をすて未知の国に希望を託して不法入国する人々の悲惨な状況を知り激しいショックを受ける。
その国境地域の実状の厳しさを彼に教え案内してくれたチャーリーの相棒が何者かに殺された。
不信を抱いた彼は、警備隊の隊長レッド(ウォーレン・オーツ)に会ったが、彼は事なかれ主義だった。
同じ頃彼は赤ん坊を抱きかかえたマリアを川で見かけ声をかけるが、マリアは侮蔑に満ちた表情を返す。
浪費家の妻に嫌気がさしていたチャーリーは、家では安らぎを感じられなかった。
チャーリーは、マリアに恋愛感情とは違う好意を抱き、彼女のために何かしてやりたい、彼女を助けてやりたいと思うようになる。
そしてキャットが不法入国者たちをコントロールする立場にあり、彼らを北部に送っては日銭をとっている事実を知って唖然とするチャーリー。
さらに彼らの手先のメキシコ人がマリアの子供をさらい英国系の家庭に売ろうとしていた。
キャットはチャーリーを自分たちの仲間に引きずり込もうとする。
キャットに批判を浴びせるチャーリーは、やがてマリアたちの味方についた。
様々な防害をはらいのけ、キャットら一味との撃ち合いの末、遂に赤ん坊を救い出したチャーリーに、マリアははじめて笑顔を送るのだった。


寸評
僕がトニー・リチャードソンと出会ったのは高校時代の正月休みの時だった。
友人と遊びに出かけ、ふと入った映画館(今は存在しない道頓堀の戎橋にあった戎橋劇場)でジャンヌ・モローの特集上映をやっていて、1本がフランソワ・トリュフォーの「黒衣の花嫁」で、もう一本がトニー・リチャードソンの「マドモアゼル」だった。
どちらも高校生には不似合いな内容で、見終わった後で友人のK君と「なんか、すごい内容やったなあ・・・」と語り合ったことを思い出す。
トニー・リチャードソンの名前も忘れていたが、大学生となった僕は名画鑑賞会で「長距離ランナーの孤独」を見る機会に恵まれた。
怒れる若者たちと称されたアラン・シリトーの原作も読んだ。
世の中に対する不満や反抗が湧きあがってきた年頃で、その頃の感情にはまった作品だったのだろう。
その後も「トム・ジョーンズの華麗な冒険」や「遥かなる戦場」を見ているが、それが最後となっていて「ボーダー」は僕にとって久しぶりのトニー・リチャードソン作品である。

国境警備員の不正を描いているし、トニー・リチャードソン作品なのだから不正と堕落を告発する社会映画かと思っていたら違っていた。
確かに国境警備員の不正を描いてはいるのだが、それを告発するようには描いていない。
主人公のチャーリーは不正を嫌悪するが、結局はその中に身を置いてしまう。
しかし彼自身が不正に手を染めて堕落していくわけではない。
チャーリーはどこにでもいる普通の男なのだ。
彼の妻は浪費癖のあるバカ女である。
しかし男を作るわけでもなく、貴方がいなければ私は生きていけないと泣き叫ぶ女なのだが、愛情からではなく経済的に夫を必要としているのは倦怠期を迎えた夫婦ならあっても不思議でない関係である。
ガーデン・パ―ティでは妻から給仕係を押し付けられ、料理が遅いとのクレームに切れまくるチャーリーなのだが、不満を抱えながらも離婚しようとは思っていない。
全くごく普通にある夫婦関係を思わせる。

イギリス人のトニー・リチャードソンから見れば、アメリカにはくだらないパーティでバカ騒ぎをする堕落した家庭が存在し、国境では不正が横行し、カリフォルニアはメキシコ貧民の安い労働力を当てにしているし、その為に警備員は形だけの取り締まりを行っているように思えたのかもしれない。
それを普通の姿として描いているので、主人公は正義を振りかざすヒーローではないし、マリアもアメリカに渡ることが出来ず、映画としては物足りなさを感じるところもあるが、これが真実の世界だと言わんばかりに劇的なことは起きなかったのだと思うが、それだからこそ悲惨で腐敗した世の中だと言っているようにも思える。
アメリカを目指すマリアを援助し、見返りに体を提供しようとする彼女を制し「たまにはいい人間でいたい」というチャーリーだが、今日はチョットいいことをしたかなと自己満足する僕たちの気持ちと少しも変わらない。
最後がここで終わるのかというのはトニー・リチャードソンらしいとも思えるが、ジャック・ニコルソンを使いたかった映画だけかもしれない。

亡国のイージス

2023-03-12 07:21:32 | 映画
「ほ」ですが間口を広げてみます。
前回の紹介作品です。
2020/3/24の「望郷」から「冒険者たち」「暴力脱獄」「ボーン・アイデンティティー」「ぼくたちの家族」「北北西に進路を取れ」「ぼくらの七日間戦争」「ぼくんち」「ポセイドン・アドベンチャー」「火垂るの墓」「鉄道員(ぽっぽや)」「ほとりの朔子」「炎のランナー」と、
2021/11/15の「砲艦サンパブロ」から「ボウリング・フォー・コロンバイン」「ほえる犬は噛まない」「ボー・ジェスト」「北陸代理戦争」「慕情」「ボルベール <帰郷>」「ホワイトハンター ブラックハート」「ぼんち」でした。

「亡国のイージス」 2005年 日本


監督 阪本順治
出演 真田広之 寺尾聰 佐藤浩市 中井貴一 勝地涼 チェ・ミンソ
   吉田栄作 谷原章介 豊原功補 光石研 天田俊明 鹿内孝
   平泉成 岸部一徳 原田美枝子 原田芳雄

ストーリー
海上訓練中の海上自衛隊護衛艦“いそかぜ”が、FTG(海上訓練指導隊)の溝口3佐を騙り乗り込んだ某国のテロリスト、ヨンファと副艦長・宮津の共謀によって乗っ取られた。
すでに艦長は殺害され、乗務員たちも強制的に退艦させられる中、諜報機関DAISの調査官・如月と共に艦内に残った先任伍長の仙石は、彼らの謀略を阻止すべく反撃を開始する。
しかし、ヨンファたちは対水上訓練の予定されていた“うらかぜ”を対艦ミサイル“ハープーン”で撃沈させ、さらに宮津は政府に対し、全ミサイルの照準を東京・首都圏内に合わせたことを宣言するのだった。
この前代未聞の事態に急遽召集された梶本総理以下、国家安全保障会議の面々に、宣戦布告とも取れる通告をする。
それは、米軍が極秘裡に開発した、僅か1リットルで東京中の生物を死滅させる威力を持つ“GUSOH”なる特殊兵器の存在を明らかにしなければ、その特殊兵器で東京を攻撃すると言うもので、既にそれはヨンファたちの手に落ちていた。
やむを得ず、核爆発に匹敵する熱量を生み出すGUSOHの解毒剤とも言える爆薬“テルミット・プラス”の使用を決定する政府。
だが、多くの犠牲者を出したものの、仙石たちの活躍でヨンファの計画は壊滅し、GUSOH奪還にも成功。
東京湾内を暴走する“いそかぜ”も、過ちに気づいた宮津によって爆沈し、日本は戦争の危機を免れるのであった


寸評
上映時間を2時間程度(2時間7分)にするためにカットしたシーンが相当あるのかな?原作を読んでいたら理解できるのだろうが説明不足のところが時々見受けられた。
宮津副艦長と如月の関係もよく解らなくて、挿入される如月の浜辺の回想シーンなどは原作を読んだ者から聞いて初めて理解することができた。
ジョンヒが首の傷のために言葉が発せられなくなっていることも解説書で知った。解説書と言えば、その中で如月とジョンヒの心の交流が述べられていたけれど本編ではそれはなかったから、これもカットされた部分なんだろうか。有った方がドラマの奥行きが出たかもしれない。

宮津副艦長役の寺尾聡は気のいいおじさんのようで、皆を引き付けるカリスマ性が感じられなかった。どうやら反乱軍は宮津学校の出身者らしいのだが、その結びつきの強さがよく理解できなかった。亡国のテロリストと行動を共にしている動機付けも弱かったと思う。日本側の反乱軍メンバーは全体的にひ弱で、国家に反逆している精神の高まりのようなものを感じなかった。2.26事件の青年将校たちはこんなではなかった筈だ。
しかしそれらの政治性を除いた分、サスペンスアクションとしては単純に楽しめる出来に仕上がっていたと思う。これぐらいの水準の映画を連発すれば邦画の水準上昇も夢ではない。
出演者としては如月行役の勝地涼とヨンファ役の中井貴一が光っていた。特に勝地涼はその鋭い目つきでもって、何が何でも任務を遂行しようとするキャラクターが滲み出ていたと思う。

総理が「なんで俺の時なんだ」とつぶやいて対策本部に乗り込むくだりは、事なかれ主義に慣れきった政府首脳と官僚を皮肉っていて笑いが漏れた。政府首脳といえども事実を知るのはごく一部者だけのこともあることが描かれ、事実が総理だけに知らされるシーンも有るから、果たして現実のものとなったときの対応はどうなるものやらと危惧もした。
最後にイージス艦は海の藻屑となって沈んでいくが、まるで守るべきものがない為に無用の長物を葬り去ったが如き印象を持った。葬り去ると言えば、自身の監督作品「KT」のラストで佐藤浩市を爆殺させたように、新型爆弾グソーの存在を知った真田広之演じる仙石を、その秘密維持のために抹殺した方が非情感が出たと思う。そんな政治ドラマ性を極力排除して、サスペンスアクションとしてまとめ上げたのは中途半端にならずに、かえって良かったのかもしれないけれど・・・。
専門的にはどうだか知らないけれど、VLSから発射されるミサイルや、F2戦闘機の離陸シーンや飛行シーンも臨場感が出ていて、同じ自衛隊協力映画と言っても「戦国自衛隊1549」とは格段の差がある。
専守防衛と言ってはいるけれど、実際の戦闘になれば先制攻撃がいかに有効かも描かれていて、どうも平和ボケしているハト派的平和主義者への警鐘とも受け取れる。 ただ、「それでいいのか日本人。わかったか日本人」と何回か呟くヨンファの日本人に対する想いとは何だったのだろう。彼の国連軍を利用した祖国救済革命の手段としての行動は現実としての可能性は別として、ドラマ仕立てとしては理解できるだけに、逆にその部分がよくわからなかった。
断片的に挿入される回想シーンや語られなかった関係を暗示するシーンも、作品にアクセントをつけていて、ミステリー性を高めていたと思う。
一人で、いや二人で反乱軍に立ち向かっていく様は日本版「ダイハード」だった。

ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書

2023-03-11 11:00:58 | 映画
「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」 2017年 アメリカ


監督 スティーヴン・スピルバーグ
出演 メリル・ストリープ トム・ハンクス サラ・ポールソン
   ボブ・オデンカーク トレイシー・レッツ
   ブラッドリー・ウィットフォード アリソン・ブリー
   ブルース・グリーンウッド マシュー・リス

ストーリー
1966年、アメリカはベトナム戦争で苦しい戦いを強いられていた。
戦況を視察にきた             ダニエル・エルズバーグは帰路の飛行機の中で国防総省長官であるマクナマラに戦況を報告したが、その報告はアメリカにとって望ましいものではなく、世論に指示される内容ではなかった。
祖国に降り立ったマクナマラは殺到するメディアを集め「戦況は極めて順調」と偽りの発表を行った。
しかし、通称ダンの          ダニエル・エルズバーグはその真実を記録し、機密文書として秘密裏に保管していた。
1971年キャサリンは先立たれた夫の意志を受け継ぎ、忘れ形見のワシントン・ポスト紙の代表として奮闘。
代表としての経験の浅いキャサリンは編集長のベンに業務指示するが、「指図するな」と取り合ってもらえない。
そんなある日、ライバルのニューヨーク・タイムズ社の記者であるニールのスクープにより、ベトナム戦争の調査記録である機密文書『ペンタゴン・ペーパーズ』の内容の一部が掲載されることが明らかになった。
ベンは負けじと『ペンダゴン・ペーパーズ』の全貌をスクープするべく奔走するが、その内容を容易に手にすることはできず、焦りのあまり代表であるキャサリンに対し、古くから家族ぐるみで親交の深かったマクナマラから文書を入手するように指示した。
ニューヨーク・タイムズのスクープに対し、アメリカ政府は該当の記事が機密保護法に違反しているという内容で記事の発行を差し止める要求が出されていた。
しかし、ベンは調査の手を緩めることなく、記者のバグディキアンの地道な調査で、ついに文書を記録したダニエルに直接会うことが出来、4000ページに及ぶ『ペンタゴン・ペーパーズ』の入手に成功した。


寸評
最初に登場するのはベトナム戦争の戦場で、激しい戦闘が行われているのを見た、国防総省スタッフのダニエル・エルズバーグが戦況を記録して泥沼化している戦争の実情を正直に報告したが、国防長官のマクナマラはそれを無視して、まったく反対のことを記者に語る。
これに義憤を感じたエルズバーグが、ベトナム戦争に関する政府の最高機密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」を持ち出したことが事件の発端となっている。
僕にとって米国の国防長官と言えばロバート・マクナマラの名前が真っ先に浮かぶ。
むしろ国防長官としては彼の名前しか思い浮かばないのが実情である。
それは恐らく僕の青春時代に起きていたベトナム戦争時の国防長官であったことによるのだろう。
ケネディ大統領、ジョンソン大統領のもとで国防長官を務めたマクナマラがベトナム戦争の拡大に一役買ったことは間違いないと思う。
アメリカがベトナム戦争を止めることが出来なかった理由の70パーセントが、アメリカのメンツだったと劇中で語られているが、独裁国家だけでなく民主的に選ばれた指導者であっても、メンツによって自身の政策転換を行わないことは度々目にすることである。
その時、被害を被るのは国民であることは言うまでもない。

政府のチェック機関であるマスメディアの一つであるワシントンのローカル紙だったワシントン・ポストでは、女性発行人で社主のキャサリン・グラハムが、経営安定化のために株式公開に踏み出そうとしているのだが、何やら頼りなさそうな彼女が役員会で奮闘する姿が物語から浮いているように思えていたのに、あとあとの重大な場面で生きくるという描き方はスピルバーグの上手さだ。
そのキャサリンを演じるメリル・ストリープの演技が秀逸である。
控えめで経営者らしくなく、新聞社の社主一家の一人として政界の大物たちと交流していたのに普通のおばさん風であるのがいい。
彼女の前では編集主幹を務めるベン・ブラッドリーを演じるトム・ハンクスも少々かすんで見える。
そのベン・ブラッドリーの指示で、記者のバグディキアンが昔の仲間であるエルズバーグに接触しようとするあたりは、まるでスパイ映画のようなスリリングな展開だ。
ライバル紙の、と言っても相手は一流紙のニューヨーク・タイムズが絡んできてスクープ合戦が行われる。
ニクソン政権は機密文書の暴露に激怒して、ニューヨーク・タイムズの記事差し止めを裁判所に求め、ワシントン・ポストもその騒動に巻き込まれていく。
そしてキャサリンが決断を下す場面は感動的である。
彼女の決断で男たちが一斉に動き出し、彼女は寝ますと言って去っていく姿は颯爽としていた。
彼女にとっては一世一代の決断であったろう。
すべてが終わったように見せて、ラストにその後のニクソンの策略を示すあたりも面白い。
ニクソンがワシントン・ポストの締め出しを怒鳴っていて、その後にウォーターゲート事件をさりげなく描いて終わっているのだが、僕はワシントンポストのふたりのジャーナリストを描いたアラン・J・パクラ監督の「大統領の陰謀」を思い出していた。
そう思うとリチャード・ニクソンという大統領はとんでもない大統領だったのだと思わざるを得ない。

ベンジャミン・バトン 数奇な人生

2023-03-10 07:30:44 | 映画
「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」 2008年


監督 デヴィッド・フィンチャー
出演 ブラッド・ピット ケイト・ブランシェット
   ティルダ・スウィントン ジェイソン・フレミング
   イライアス・コティーズ ジュリア・オーモンド
   エル・ファニング タラジ・P・ヘンソン

ストーリー
ニューオリンズの病院で、老女デイジーは最期を迎え、娘キャロラインに日記帳を読み聞かせるよう求める。
その日記帳はベンジャミン・バトンの物であり、物語はここから始まる。
場所はニューオリンズ、1918年、第一次世界大戦が終わった日。
生まれたばかりの赤ん坊が老人施設の前に捨てられていて、経営者のバトン夫婦が赤ん坊に気づいた。
赤ん坊の顔は、なんと老人のような顔だった。
バトン夫婦には子供がなく、クイニーは夫の反対を押し切って育てることを決意する。
医者はこの赤ん坊は老衰寸前のような状態で長く生きていけないだろうと言った。
赤ん坊はベンジャミンと名づけられて、なんとか施設の中で育っていった。
年を追うごとに若い容姿になり、杖を使って歩けるようになった。
その頃、施設入居者の孫・デイジーと出合い、ベンジャミンは自分は老人ではなく本当は子供だと話す。
施設の者はベンジャミンを老人だと思っていた。
1936年、ベンジャミンは17歳になっていて、身体も段々若くなってきた。
世界を知りたいと船員になることを決め、デイジーには、どこに行っても手紙を出すことを約束した。
デイジーはバレエ学校に入学してバレエダンサーの夢を追いかけていた。
ベンジャミンは船では老人だと思われていた。
そんな時に一人の婦人と出会い、二人の間に愛が生まれて逢引きするようになった。
しかし、そんな関係は長く続かず、婦人は離れていき、恋は終わりを告げる。
1945年、ベンジャミンは26歳になった。
再会したデイジーは都会的な雰囲気を漂わせ、二人の気持ちはすれ違い離れていった。
数年が過ぎ、デイジーがパリで事故に遭い、バレエダンサーの仕事は続けられなくなった。


寸評
80歳の赤ん坊として生まれ、年を経るほどに若返っていくという通常の反対の加齢を重ねる男に起きる出来事を描いたファンタジックな作品で、その着想が面白い。
容姿と年齢のギャップの中でベンジャミンは生きていくが、時折ユーモアを交えて語られるそれぞれの年代で起きる出来事のつなぎをもう少しコンパクトにまとめてくれていればと言うのが僕の印象である。
死期の迫った施設の老人たちに囲まれて育つ幼少時代から自らも含めた死を意識し、また間近に見てきたことがベンジャミンに自らの運命を受け入れて逆らわずに生きていくことを可能にしたのだろう。
成長の流れが逆となれば恋愛だって難しいのは想像に難くない。
ベンジャミンは恋する女性と少女時代に出会い、やがて老女と少年という関係へと向かっていく。
二人の年齢がピタリと合うのはほんのわずかな期間しかないというのが、恋愛映画の観点から見た場合いちばんの見せどころだったと思う。
僕には、前後のエピソードが長すぎてそこの部分を弱めていたように思えた。
当然ながら映画のメインは若返っていくベンジャミンと、その人生を重ねていくデイジーなのだが、印象的なのはベンジャミンを取り巻く人たちの存在である。

先ず登場するのがベンジャミン誕生前に登場するニューオーリンズの時計職人ガトーだ。
ガトーは駅の大時計の製作を任されるが、息子が第1次世界大戦に召集されて戦死した悲しみのため逆に回る時計を製作し、記念式典で時間を逆に進められれば死んだ者たちも戻ってこれると演説する。
親の悲痛な思いと反戦の叫びで、描かれるガトーの生き様とメッセージが感動的なのだが、それは物語のモノローグとしてのエピソードでもある。
一番印象に残るのは 捨てられたベンジャミンを拾って育てる老人施設の看護師クイニーだ。
クイニ―は老人の顔をした捨て子の赤ん坊を見ても、医師から長生きできないと言われても自分で育てると言う。
その後クイニ―に自分の子どもができてもベンジャミンを遠ざけることはない。
ベンジャミンの父が大金持ちだとわかっても財産に関心を示さない。
このベンジャミンの育ての親であるクイニ―の姿は感動を呼ぶ。
クイニ―が聖人とすれば悪役になるのがベンジャミンの父となるトーマス・バトンである。
自分の妻が難産の末に産んだ赤ん坊が老人の顔をしているのを見て、瀕死の妻を捨て起き赤ん坊を抱えて街に走り出し老人施設の前に置き去りにするとんでもない男だ。
ファンタジー映画として悪人を登場させたくないのか、ベンジャミンを捨てたトーマスはベンジャミンのその後を見守り、自らの余命を知るとベンジャミンにすべての財産を相続させて、すっかり善人となっている。
彼の後悔の度合いを感じ取ることはできないが、妻を亡くし孤独に生きてきた老人は捨てた子供に余生の意義を見い出したくなるのかもしれない。
デイジーが交通事故にあう事を見ると、予期せぬ出来事は偶然の産物が積み重なって引きおこる必然なのかもしれない。
何が起きるか分からないのが人生で、その観点から施設の老人が7回も落雷にあった話はベンジャミンと直接関係ないけれど、なぜか残像として脳裏に残り、船長や恋に落ちる夫人よりもあの老人が印象深い。
精神と肉体が反比例していく戸惑いが、エピソードにおいて時々置き忘れていたように思われたのが残念。

ベルリン・天使の詩

2023-03-09 08:05:52 | 映画
「ベルリン・天使の詩」 1987年


監督 ヴィム・ヴェンダース
出演 ブルーノ・ガンツ ソルヴェーグ・ドマルタン
   オットー・ザンダー クルト・ボウワ ピーター・フォーク

ストーリー
天使ダミエル(ブルーノ・ガンツ)の耳には、様々な人々の心の呟きが飛び込んでくる。
フラリと下界に降りて世界をめぐる彼は、永遠の霊であることに嫌気がさし、人間になりたいと親友の天使カシエル(オットー・ザンダー)に告白する。
彼らを見ることができるのは子供たちだけ。
大勢のその声に誘われてサーカス小屋に迷い込んだダミエルは、空中ブランコを練習中のマリオン(ソルヴェイグ・ドマルタン)を見そめる。
彼女の“愛したい”という呟きにどぎまぎするダミエル……。
一方でカシエルが見守るのは不幸な記憶や現実にあえぐ人々。
ユダヤの星、爆撃、諍いあう男女……荒んだイメージが自殺を試みる彼の瞳に映える。
マリオン一座も今宵の公演を最後に解散を決めた。
ライブ・ハウスで踊る彼女にそっと触れるダミエル。
人間に恋すると天使は死ぬのに……。
そこへ、撮影のためベルリンを訪れていたP・フォーク(本人役で出演)が、見えない彼にしきりに語りかける。
彼もかつては天使だったのだ……。
この醜い人間界も超越的な存在にはかえって、色彩と喜びに充ちた世界に見えるのかも知れない。


寸評
非常にシュールな映画である。
映画的であり芸術的でいい映画なのだが、万人が面白いと感じることが出来る作品ではないことも確か。
ほとんどがモノクロ画面で、それは天使の目線による光景である。
時折アクセント的にカラー画面が挿入されるが、それは人間目線によるものであることが分かる。

天使は永遠の命を持ち、人間世界を見つめている。人間に寄り添うことはしても語り掛けることはできない。
子供が子供であったころには素直な心を持っていて、彼等は天使を見ることが出来るが、大人たちには天使の姿は見えない。
過去の歴史が詰まっている図書館は天使たちの憩いの場で、多くの天使が人間に寄り添っており、詩人ホメロスは語り部として人間世界をさまよっている。
天使が見るのはとりとめもない会話をする人々であり、なんてこのない行動を取る人々の姿だ。
中には悩みを抱え、愛に飢える人もいて、それがサーカスで空中ブランコを行っているマリオンだ。
正に彼女は人間そのものである。
天使ダミエルはだからこそ彼女に恋したのだろう。

天使は大人たちには見えないが、中には見える人間もいる。
なぜなら彼は人間世界に復帰した元天使だからである。
彼はコーシーショップで天使に語り掛けるが、店員には天使の姿が見えないので、男が独り言を言っているように映り、怪訝な顔をする。
ファンタジック作品なら店員の不思議がる姿をオーバーアクションで見せたくなるシーンだが、三人の姿を捉えながら怪訝そうな店員の姿をさりげなく写し込む。
人間世界に溶け込む彼らの姿と街の様子が映画世界を生み出していく。
永遠の命を与えられたなら苦しいものに違いない。
人は必ず命を失うが、それまでに何をするのか、何を経験するのか、どう生きるのかを考えなくてはならない。
名前を残さなくても、それが実行できれば幸せな一生だと言えるのだろう。

ダミエルは人間世界に舞い降りるが、そこはカラフルな世界で、殺伐とした風景も美しい。
作品が撮られた2年後にベルリンの壁が崩壊したことを思うと、この作品への見方も変わってくる。
見事な予見である。
エンディングでは「全てのかつての天使、特に安二郎、フランソワ、アンドレイに捧ぐ」との一文が挿入される。
安二郎とはもちろん小津安二郎のことでヴィム・ヴェンダース監督が小津を尊敬していたことがうかがえて嬉しい。
フランソワはフランソワ・トリュフォーであり、アンドレイはアンドレイ・タルコフスキーのことだ。
トリュフォーもタルコフスキーも日本映画に造詣が深い。
トリュフォーは中平康の「狂った果実」を絶賛し、タルコフスキーは黒澤明と溝口健二に傾倒していて、新しい映画を作る前には黒澤の「七人の侍」と溝口の「雨月物語」を観る事にしていたらしい。
そのことを知るだけでヴィム・ヴェンダースは尊敬の対象となってしまう監督である。

ベティ・サイズモア

2023-03-08 11:28:26 | 映画
「ベティ・サイズモア」 2000年 アメリカ


監督 ニール・ラビュート
出演 レニー・ゼルウィガー モーガン・フリーマン クリス・ロック
   グレッグ・キニア アーロン・エッカート ティア・テクサダ

ストーリー
カンザス州の田舎町の小さなダイナーでウェイトレスとして働くベティ・サイズモアは、周囲に慕われながらも冴えない人生を送っていた。
夫のデルは浮気を繰り返し、ベティを物のように扱う最低な男。
それでもベティは、自分1人では何も出来ないと思い込んでいるため離婚もしない。
そんなベティの支えは、病院を舞台にした昼メロドラマ「愛のすべて」だった。
特に医師デヴィッド・ラヴェルに夢中で、彼と結ばれることを想像してうっとりしている。
誕生日を迎えたベティは、夜自室に篭もり録画していた「愛のすべて」を堪能していた。
そこに、デルが黒人の親子チャーリーとウェズリーを連れて帰宅した。
彼らはベティが外出していると思っているらしく、きな臭い話を始めまた。
実はチャーリー達はプロの殺し屋で、ドラッグを盗んだデルを尋問するためにやって来たのだ。
デルは助命を乞うが、早とちりしたウェズリーに頭の皮を剥がされてしまい、不憫に思ったチャーリーによって射殺された。
ドアの隙間から一部始終を見ていたベティは、強いショック状態に陥る。
動転した彼女の目にテレビ画面のデヴィッドが飛び込んで来た。
その瞬間、ベティの中で現実とドラマの世界がごちゃまぜになり、デヴィッドは実在すると信じ込んでしまう。
ベティは事件の記憶を失った上に、自分をデヴィッドの元フィアンセだと思い込んだ。
そしてデヴィッドに会うため、単身ドラマの舞台であるロサンゼルスへ向かう。
友人知人は突然失踪したベティを心配し、警察は事件への関与を疑って彼女の行方を捜索しだした。
しかし最も熱心に探していたのは殺し屋親子だった。


寸評
我が家の近くに被害妄想の老人が住んでいるのだが、普段はごく普通の老人なのだが強盗がいるとの被害妄想が起きると大騒ぎとなる。
私が初めて対応した時などは、言っていることが理路整然としているのですぐさま警察に連絡して近くの交番から警官に来てもらった。
二度目からは流石にこちらも心得たものとなったが、老人が信じている妄想の世界は計り知れないものがある。
この作品の主人公ベティは自宅で夫が殺害される現場を見てショックを受けた為に記憶が定かでなくなり、自分が熱中しているテレビドラマの妄想の世界に入り込んでしまう。
まったく信じて疑わないベティと回りの人たちとのやり取りが可笑しい喜劇が繰り広げられる。
もっとドタバタにも出来たと思うが、妄想による食い違いが適度に抑えられていることで上質な喜劇となっている。僕が妄想を繰り返す人と接した経験がベティの振舞いにリアリティを感じさせた。
僕にその経験がなかったらまったく違った見かたになっていたことだろう。

途中で寄ったレストランの女主人は、余りにもベティが真剣に話すので最初は信じていたが、それがテレビ・ドラマの世界のことなのだと気付いても、知らぬふりで励まして送り出してやる。
女主人の優しさがいい。
ロスアンゼルスに到着したベティはいきなり銃撃戦に巻き込まれ、看護婦姿の彼女は撃たれた男性を治療することになる。
テレビドラマが病院を舞台にしており、ベティはテレビドラマで描かれた方法で男の命を救ってやる場面なども、この手の作品における安易な演出と思えるが、あって当然なエピソードとして受け入れることができる。
兎に角この作品におけるレニー・ゼルウィガーが滅茶苦茶可愛いのだ。
モーガン・フリーマンが誰かに電話していて、ベティの人となりを「ドリス・デイのような女だ」と言っていたのだが、超美人ではないがきわめてチャーミングな女性としてドリス・デイを引き合いに出していたのは納得である。
「知りすぎていた男」でドリス・デイが唄っていた「ケ・セラ・セラ」も音楽として用いられている。

ひょんなことからローサ・ヘルナンデスの部屋に居候させてもらえることになったベティは例によって、探し求めるデヴィッド・ラヴェルの話をすると、真に受けたローサは捜索に協力するが、やがてその話がテレビ・ドラマと分かると怒りだし、からかい半分でテレビ・ドラマのスタッフによる事前パーティに連れ出す。
そこでデヴィッド・ラヴェル役の俳優にあったことから再び勘違い騒動が持ち上がる。
分かっている展開とは言え微笑ましくもあり楽しめる。
何と言ってもレニー・ゼルウィガーの表情がいいのだ。
ベティが正気になってからの展開はメリハリが効いていて楽しめる。
チャーリーとウェズリーがローサの家に押し入ってからの展開も面白い。
チャーリーがどうやらベティの写真を見ているうちに情が移ったのか、彼女に恋している風でもあり、最後に彼女を励まして出ていくところなどは、彼女が気に入っているテレビのメロドラマみたいにしているのもホッコリする。
「愛のすべて」に出演することになったベティの姿を、友人達は喜びと感動の中見つめ、ベティが新しく自分の人生を歩み始めたのも清々しいエンディングであった。

ベスト・キッド

2023-03-07 08:49:42 | 映画
「ベスト・キッド」 1984年 アメリカ


監督 ジョン・G・アヴィルドセン
出演 ラルフ・マッチオ ノリユキ・パット・モリタ エリザベス・シュー
   ランディ・ヘラー マーティン・コーヴ ウィリアム・ザブカ
   チャド・マックィーン トニー・オデル

ストーリー
高校生のダニエルは母親と二人暮らしだが、母親の仕事の都合によりニュージャージーからカリフォルニアへ引っ越すことになった。
ダニエルは転校なんて気が重いのだが、母の仕事の関係とあってはしかたがない。
新天地ではフレディという新たな友達もでき、フレディの誘いで浜辺でのパーティに行くことになった。
早速浜辺でサッカー遊びに興じるが、そこに居合わせた可愛い女の子アリにひと目惚れ。
彼女もダニエルにまんざらでもなさそうなのだが、偶然通りかかった不良グループのリーダー格ジョニーが、アリとダニエルの様子を見て激怒し、ダニエルにケンカを吹っ掛けダニエルを叩きのめしてしまう。
ジョニーはアリの元彼で、少年空手選手権のチャンピオンであった。
ダニエルはフレディに「空手をやっている」と豪語していたために、フレディらはダニエルのあまりの弱さに愛想を尽かしダニエルのもとから去ってしまう。
ダニエルはそれ以来ジョニーとその空手仲間達から壮絶なイジメにあうようになる。
アリがダニエルに親愛の態度をとればとるだけ、ダニエルはジョニーの一派にやつつけられてしまう。
そんな中、アリとアパートの管理人ミヤギ老人だけがダニエルに優しく接する。
ハロウィンパーティの夜、ジョニーらに仕返しを試みたダニエルは、逆にリンチに遭ってしまう。
ダニエルの意識が朦朧とする中、どこからともなく現れたミヤギがジョニーたちをあっという間に倒してしまう。
実はミヤギは従軍経験も持つ空手の達人であった。
そして、ジョニーたちの道場と話をつけた結果、決着は2か月後の少年空手選手権で付けることになり、ミヤギはダニエルのコーチを引き受ける。
その日から、郊外にあるミヤギの家で、ダニエルの特訓が始まった。
だが、ミヤギがいう練習とは、車のワックスがけ、次に床磨き、そして垣根のペンキ塗りばかりだった。


寸評
ひ弱な男の子が可愛い女の子に恋をし、腕力に勝る粗暴な男の子と対立しながら最後には勝利を得て彼女を勝ち取ると言う典型的な青春物語である。
実にベタな内容であるが、対決する中身が空手であること、空手の師匠となるのが日系人のミヤギであることが、日本人の僕には受け入れることが出来る要素となっている。
ミヤギは何度もミヤジと呼ばれ、その都度ミヤギと訂正するギャグ的シーンがあるが、アメリカ人にとってはミヤギよりもミヤジの方が馴染みがあるのだろうか。
ミヤギは日系人で、話す英語はネイティブなものではない簡単なものだから、僕のような英語力に劣る者でも何となく分かるし、ダニエルに対して「ダニエルさん」と日本呼びするのも感情移入しやすい。
なにせ話す英語は出身地の説明で手のひらに「チャイナヒや、ジャパンヒヤ、オキナワヒヤ」と語るアバウトなものなのである。
ミヤギは沖縄出身の父を持つ日系人なのだが、日系人であることがギャグになっている。
盆栽とバンザイのかけ言葉を楽しんでいたりするのである。
そして「沖縄のミヤギはみんな漁と空手を知っている」と語らせたりもしている。

ダニエルの家はシングルマザーだし裕福ではない。
相手のアリは裕福な家庭の女子である。
ダニエルから見ればシンデレレラ物語なのだが、格差社会の要素は描かれていないに等しい。
またミヤギは日系のアメリカ人としてドイツと戦った経験を持っているのだが、当時の日系人がアメリカ人として戦いながら冷たい仕打ちを受けていたと言う事実も描かれているのだが、その内容も紹介程度で何かを訴えるものとして描かれてはいない。
ミヤギの妻は難産で母子共に亡くなっているのだが、軍人だったミヤギは妻の最期にも会えず、その時の電報を今でも大事に持っている。
ダニエルはミヤギにその時の子供の生まれ変わりと思われていたのかもしれない。
哀しい物語なのだが、映画はあくまでも単純娯楽作品として出来上がっている。

相手の道場はコブラ会と言い、単純明快な悪役ネームであり、師範も絵にかいたような悪役である。
クライマックスは当然空手大会で、ダニエルもコブラ会の連中も順調に勝ち上がってくる。
コブラ会の一人と準決勝で対決するが、師範はためらう弟子に反則を指示しダニエルを動けなくする。
対戦相手は反則を詫びるので、実は言い奴なんだと匂わせる。
ジョニーも不戦勝では納得いかなかっただろうが、そこは映画でダニエルとの対決となる。
ここでも師範のスポーツマンらしくない指示が飛ぶ。
秘儀によって勝利を得るのも予想されたものであるが、ジョニーに「お前が真の勝者だ」と叫ばせているので、悪いのは少年たちではなく師範なのだと言っている。
それにしても、空手の試合シーンは何とかならなかったものか。
余りにも漫画的過ぎて僕は興ざめしてしまった。
ミヤギさんは印象深いキャラクターで、続編も作られた。

ペイルライダー

2023-03-06 09:32:40 | 映画
「ペイルライダー」 1985年 アメリカ


監督 クリント・イーストウッド
出演 クリント・イーストウッド マイケル・モリアーティ
   キャリー・スノッドグレス シドニー・ペニー リチャード・キール
   クリストファー・ペン リチャード・ダイサート ダグ・マクグラス

ストーリー
ゴールド・ラッシュ時代のカリフォルニアのカーボン峡谷と呼ばれる谷あいの村と付近の町で、金採掘の権利を巡る小競り合いが繰り返されていた。
他の峡谷が、大きな鉱山会社を経営するラフッド一家に牛耳られている中で、このカーボンだけは、ラフッド一家の手から逃れられているが、その陥落も時間の問題だった。
15歳の少女ミーガン、母のサラと、その婚約者ハル・バレットは、このカーボンの村に暮らしていたが、この日もラフッド社のいやがらせに遭い、ミーガンは失った愛犬の墓前で神に奇跡を願うのだった。
ハルは村の修復のための材料を調達に行った町で、ラフッド一味の4人にからまれ暴行を受ける。
ところが、その場に現れた流れ者の男に、4人はあっという間に叩きのめされてしまう。
ハルが彼を連れて村に帰ると、ミーガンは彼を神につかわされた男だと直感した。
サラはかつて夫に蒸発され男性不信になっていたが、カラーをつけて牧師の扮装で現れた男に警戒を解いた。
一方、町での騒動を聞いたラフッドの息子ジョシュは、牧師を追い出そうと大男クラブを連れて村へ乗り込んでいくが、あえなく牧師に撃退されてしまう。
強さを兼ね備えた牧師を身近に得て、迫害に屈しかけていた村人たちは再び団結していく。
ラフッドは自分の持つ鉱脈も枯れて政治家から水力採掘も禁止されそうな状況に焦り、牧師を取り込むことや金を払うことで村人を立ち去らせようと目論む。
しかし、そのどちらも成功しなかったためにラフッドは最終手段として、金で動く冷酷な保安官ストックバーンとその凄腕の部下たちを雇う。
ストックバーンらが町に乗り込んでくると牧師は姿を消した。


寸評
善良だが弱い一家が強欲な支配者ともめていて、そこに流れ者がやって来て一家を救うと言う物語は西部劇の定番のようなもので、たいていは牧場の利権をめぐるものであるが、ここでは金の採掘場の権利となっている。
僕は内容的に「シェーン」を思い浮かべたが、男がガンマンではなく牧師と言うのが目新しい。
母親のサラと牧師の間に微妙な感情が生まれるが、「シェーン」ほどのお互いに秘めたものという感じはしない。
二人の気持ちが交差するシーンは少ないし、どちらかと言えばサラが牧師に好意を寄せているように見える。
サラと牧師の間に割って入るのが娘のミーガンなのだが、母が15歳の時に結婚したと言う早婚の時代だったとしても、15歳のミーガンが牧師に愛を打ち明けるのはしっくりこなかった。
牧師を巡る母と娘の間に沸き起こる嫉妬心を描くなら、ミーガンの年齢設定をもう少し上にすべきだったのではないかと思う。

クリント・イーストウッドの牧師はスーパーマン過ぎて、ピンチになるようなことはなく常に一方的な勝利を得ている。
拳銃ではなく木刀のような木片で相手をやっつけるなどは面白いと思うが、ここでもまるで日本の剣豪のような木刀の扱いで相手をやっつけてしまう。
ラフッドの息子ジョシュでは相手にならず、いとも簡単に手を撃ち抜かれている。
大男のクラブも急所を痛めつけられ、氷を求めて去っていく始末で全然相手にならない。
このクラブの描き方はよくわからなくて、ラフッド側にいるのだが善良そうな振る舞いを見せる。
ミーガンが襲われそうになった時も止めに入りそうだったし、牧師とハルが襲ってきた時も助太刀するような態度を見せている。
彼がそのような態度をとる理由は何だったのかよく分からない。
もう一人、かつてラフッドの所で働いていたスパイダーという男が今はハル側にいるのだが、なぜ彼がラフッドのもとを離れたかも不明のままである。
多分、ラフッドの扱いがひどかったためなのだろうが、ラフッドの悪人ぶりは描かれていないと言ってもいい。

暴力で追い出そうとするのは通常の描き方だが、ここではラフッドが1000ドルという破格の補償金を提示して、彼らを立ち退かせようとしている点が変わった描き方となっている。
そのことで採掘者たちが戦うか、立ち退くかで議論する場面が面白く描けている。
牧師がいなくなって彼らが動揺するのも、彼らは虎の威を借りていたのだと、弱者の狡猾さを描いている。

最後はクライマックスとなるストックバーン一味との対決場面である。
牧師が姿を見せないでストックバーンの手下を一人、また一人と倒していく描写はなかなか見せるものがある。
ストックバーンと牧師の関係は推測するしかない。
おそらくストックバーンはかつて牧師と争うことがあって、牧師を殺したものと思い込んでいたのだろう。
同じように6発の銃弾を浴びたストックバーンが死んで、牧師は何故生き延びることができたのかも謎である。
最後はまるで「シェーン」である。
ジョーイ少年は「シェーン!」と叫んだが、ミーガンは「愛してる・・・ありがとう」と叫ぶ。
クリント・イーストウッドが魅力を振りまいて楽しめるが中身のない作品だったようにも思う。

兵隊やくざ

2023-03-05 10:05:23 | 映画
「へ」は以下の2回にわたって紹介しています。
2020/3/16から「ペーパー・ムーン」「ペコロスの母に会いに行く」「ヘッドライト」「別離」「ベニスに死す」「HELP!四人はアイドル」「ベルリンファイル」「ベン・ハー」 と
2021/11/13から「ヘアスプレー」「ペイチェック 消された記憶」でした。

今回も少ないです。

「兵隊やくざ」 1965年 日本


監督 増村保造
出演 勝新太郎 田村高廣 北城寿太郎 滝瑛子 淡路恵子 早川雄三

ストーリー
昭和十八年、極寒の地ソ満国境に近い孫呉の丘に、関東軍四万の兵舎があった。
そんなところに、浪曲師の門を追われ、やくざの用心棒をやっていた大宮貴三郎(勝新太郎)が他の新兵といっしょに入隊してきた。
そして、この貴三郎の指導係を命じられたのが、名門生れのインテリで幹候試験をわざとすべった三年兵・有田(田村高廣)であった。
星一つちがえは天地ほどの隔りをもつ軍隊で、貴三郎の倣慢な態度は上等兵達の敵意を買った。
なかでも大学の拳闘選手だった黒金伍長(北城寿太郎)は砲兵隊の権威をかさにきて貴三郎を痛めつけた。
腹のおさまらない貴三郎は、数日後単身、再び黒金と相対した。
しかし相手は多勢で、さすがの貴三郎も血まみれになった。
だが、そこへ有田が駆けつけた。
古兵の出現に事態は逆転し、黒金は指の骨を全部折られたあげく泣き寝入りとなった。
そんなうちに貴三郎と有田の間に力強い男の絆が生れた。
執念深い黒金は、全師団合同大演習の夜、再度貴三郎を襲い、歩兵隊と砲兵隊の喧嘩に発展してしまった。
やがて事件が上官にも知れ、貴三郎は外出禁足令をくらった。
だがその夜貴三郎は兵舎をぬけ出し、将校専用の芸者屋で音丸(淡路恵子)と遊び戯れていた。
身柄を預かる有田は自ら制裁することを誓って、貴三郎を不問に附した。
戦況は切迫し、有田の満期除隊の夢も潰え、貴三郎のところには、南方へ出動命令が下された。
だが、今は有田と離れがたい心情にかられた貴三郎は、故意に無断外出の禁を犯し、営倉入りした。
やがて大隊全員に転進命令が下った。


寸評
勝新太郎は大映映画「悪名」「座頭市」そして「兵隊やくざ」のシリーズで人気が絶頂となった昭和の映画史に名を残す大スターである。
役柄は豪快なアウトローばかりで、彼の風貌も役柄に一役買っていたと思う。
勝新太郎が演じる大宮貴三郎は軍隊と言う非民主的な社会を打破するヒーローとして存在している。
戦争を描いた作品だと軍隊の戦闘を真っ先に想像してしまうが、ここでは戦闘場面はなく、兵営内での班長を頂点とした生活組織である内務班の生活を描いている。
型破りな兵隊である大宮貴三郎が、インテリ上等兵の有田とともに上官の横暴などと闘う内容となっている。
内容的には相手が違うものの上官による大宮貴三郎への制裁と彼の反撃、そして大宮を助ける有田が描かれ続けるのでストーリー的には変化が少ない。

冒頭で有田による「兵隊の話は、もうごめんだって? 私も同感だ。20 年経ったいまでも、カーキ色を見るたびに、胸糞が悪くなる。なにしろ、故国を何百里と離れた満州の、それも北の果て、ソ連との国境に近い孫呉という街で、四年も兵隊の生活をしていたのだから」というナレーションが入る。
軍隊の非民主的な行為として画一的とも言えるビンタ、ビンタの連続で、描き方としても”もうごめんだ”と言いたくなるのだが、大宮の反撃には軍隊生活を経験していない僕でも「よくやってくれた」と溜飲を下げることが出来る。
大宮が自己紹介的に「新宿の親分の命令を受けて、露天のショバ代を徴発して歩くのが自分の商売で、その前は浪花節になりたかったが、一年と師匠のところはつとまらず破門された」と言っているから、彼は芸人修行のなかばで素行が悪くて破門され、腕っ節を買われてやくざになったという男のようだ。
ヤクザのもめ事で人を殺したが、身代わりが務所に入ってくれたようで、身代わりと残された家族のことを気にかける善良な部分も見せている。
そのあたりがインテリの有田が一目置くところなのだろう。

大宮貴三郎は兵隊なのに上官が行く慰安所に通い音丸を贔屓にする。
有田は大宮をいたぶった炊事班の石神軍曹の不正を慰安所のみどりから聞き出す。
満州の慰安所なら中国人や朝鮮人の慰安婦が居ても良いはずだが、あえて日本人の慰安婦しか登場させていないと思われる。
慰安婦問題に気を使ったのかもしれない。
大宮たちの部隊は南方へ派遣されて全員戦死を遂げてしまうが、当時そのような命令を受けた兵士たちの気持ちはどんなだっただろう。
戦死を覚悟して命令に服しただろうから、戦争とはむごいものでる。
階級の差による非道は想像できるが、兵役の長さによる上下関係も重要な要素だったようで、戦場を知らない僕は戦地における上下関係がよく分からなかった。
当時の状況として戦地では有田上等兵が中沢准尉に対してあのような態度をとれたものなのだろうか。
大宮の指示、音丸の協力で有田と大宮は脱走に成功する。
最後に有田が大宮にかける言葉も痛快であった。
未読である原作の意図がどこにあるのかは知らないが、映画は反戦を意識させない痛快娯楽作であった。

ブンミおじさんの森

2023-03-04 09:08:58 | 映画
「ブンミおじさんの森」 2010年 イギリス / タイ / フランス / ドイツ / スペイン


監督 アピチャッポン・ウィーラセタクン
出演 タナパット・サイサイマー ジェーンジラー・ポンパット
   サックダー・ケァウブアディー ナッタカーン・アパイウォン

ストーリー
タイ東北部のある村に、腎臓の病を患うブンミ、19年前に死んだブンミの妻の妹ジェンとトンがやってくる。
ブンミは家で、使用人ジャーイの手伝いで腹膜透析をする。
ブンミとジェン、トンが夕食を囲んでいると、ブンミの妻フエイが現われる。
さらに、数年前に行方不明になったブンミの息子ブンソンの声がする。
ブンソンは森で撮影した写真に不思議な生物が写っているのを見つけ、それをつきとめるため森に入っていったところ、それは狼の精霊で、彼も猿の精霊となって妻をめとり、メコン川の北に移っていった。
ブンミは妻と息子に、フエイの願いで養蜂場を作った農場や、フエイの葬式の写真を見せる。
ブンミはジェンに、農場を継ぐよう頼む。
農場暮らしの経験のないジェンは渋るが、ブンミは死んだ後も助けに来るから心配いらないと言う。
翌日、ブンミはジェンを養蜂場に連れていき、2人は小屋で休み、ブンミは腹膜透析をする。
ブンミは自分の病気を、共産兵や農場の虫を殺したカルマだと言う。
ジェンの父も共産兵を殺したが、人を狩りに行った森で動物を狩り、動物の言葉がわかるようになるまで森にいたが、幽霊にはならなかった。
ブンミに最期のときが訪れ、ブンミはジェンに遺品を渡し、フエイ、ジェン、トンとともに森の洞窟に入る。
ブンミは夢で見た未来の話をし、その話が終わると、ブンミは静かに目を閉じる。
タイの風習にならって、トンは僧門に入る。
ブンミの葬式の夜、寺で眠っていたトンは不思議な音を聞く。
怖くなったトンは街のホテルにいるジェンとルンを訪ね、トンは普段着に着替え、ジェンを食事に誘う。
部屋を出ようとしたトンが振り返ると、ベッドの上に3人で横になり、テレビを見ている自分たちが見えた。


寸評
死者が現世の者のもとに現れる作品は今までにもあったが、「ブンミおじさんの森」はドラマらしいドラマがないという点において少し風変わりな映画である。
ストーリーを追うと何が何やらわからず、一体これは何を描いているのか理解に苦しむことになる。
腎臓の病気で死期が近いブンミおじさんが、自分の農園に亡くなった妻の妹ジェンを呼ぶと、まもなく彼らの食卓に妻の霊が現われ、さらに行方不明になっていた息子が猿の精霊になって現われる。
妻はジェンの姉でもあるのだが年齢は死んだときのままで、今のジェンよりも若い姿である。
現世の人間たちは驚く風でもなく、ごく普通に彼等に接している。
死者と会うことで劇的なことが起きるのかと思っていたら、一向に事件は起こらず淡々とした会話だけが交わされるだけで、映画としては少々退屈してくる。

前世占いなどというお遊びがあって、それぞれの前世がリスであったり、ゾウであったり、モグラであったりということで愉快に騒げるお遊びである。
作品ではそんな前世遊びを思わせるような場面が何か所か見受けられる。
ブンミも自分の前世は森の動物かもしれないと語っているし、途中で登場する王女は水の中でナマズとエッチなことをするのだが、この王女の前世はナマズに違いないと思わせる。
王女は水面を覗き、そこに若くて美しかった頃の自分の姿を見る。
人は誰もが年老いていき、醜態となっていく。
また、永遠に生きる人もいない。
誰かが死に、誰かが生まれる。
それが関係者の中で起これば、「この子は亡くなった人の生まれ変わりだ」などと思われたりする。
輪廻転生の思想は、宗教観などを持たなくても自然的に感じるものなのかも知れない。
ここでもその輪廻転生を感じさせるシーンがあるものの、その宗教観を押し付けているわけではない。
明確なメッセージを打ち出すのではなく、観客それぞれに自由に考えさせるのが狙いなのだとは思うが、進むにつれて観念的な雰囲気が漂ってくる。

死期が近づいてきたことを悟ったブンミは皆を伴い森の中へ分け入っていく。
日本人には自然崇拝があり、山や大きな岩、大木などに神の宿りを見出してきたが、森は神聖な場所として古来よりあがめられているところも多い。
ブンミが分け入った森にも猿の精霊がたくさんいるようである。
たどり着いた洞窟はCGではない本物の美しい光景を見せてくれるが、そこで登場する意味深な写真や、ブンミが話すことも分かるような分からないようなというもので、僕はちょっと戸惑ってしまう。
葬式の後のホテルでの出来事はいったい何だったのだろう。
カンヌ国際映画祭で審査委員長のティム・バートンが絶賛したというのだが、僕にはこの映画の良さがイマイチ理解できないでいる。
僕の感受性のなさか、宗教観がなく無学のせいなのかもしれない。

フロント・ページ

2023-03-03 09:39:31 | 映画
「フロント・ページ」 1974年 アメリカ


監督 ビリー・ワイルダー
出演 ジャック・レモン ウォルター・マッソー スーザン・サランドン
   ヴィンセント・ガーディニア デヴィッド・ウェイン
   アレン・ガーフィールド チャールズ・ダーニング
   ハーバート・エデルマン キャロル・バーネット

ストーリー
1929年6月6日、シカゴの刑事裁判所の記者クラブ。
その裁判所の庭では、翌朝行われる警官殺しの犯人として死刑を宣告されたアール・ウィリアムズ処刑のための、絞首台が作られていた。
その頃、シカゴ・エグザミナー紙のデスク、ウォルター・バーンズは、同紙のトップ記者ヒルディ・ジョンソンをその取材に当たらせるために捜していたが、ヒルディの姿はどこにもなかった。
編集室に入ってきたヒルディは、今日限りで辞職して恋人のペギーと結婚してシカゴを離れると言う。
バーンズは仕方なくヒルディの後釜に新米のケップラーを据えた。
一方、保安官ハーマンの事務所では、エンゲルフォッファー医師がウィリアムズの心理状態を調べると称し、警官殺しの現場を再現させようとして保安官の拳銃をウィリアムズに渡す。
そして陽気に騒ぐ記者クラブに、銃声が3発響く。
記者連は色めきたち、ウィリアムズが脱走したことを知ると一斉に飛び出した。
すると、一人残されたヒルディの前に、怪我をしたウィリアムズが転がり込んできた。
ヒルディは、ウィリアムズをトリビューン紙の記者ベンジンガーの大きなロールトップの机の中に隠す。
しかしそれも束の間、新米のケップラーのためにヒルディとバーンズが脱走犯をかくまっていることがばれ、公務執行妨害でブタ箱にブチ込まれてしまい、ウィリアムズも牢へ逆戻りだ。
ヒルディとペギーは一体どうなるのか・・・。


寸評
ジャック・レモンとウォルター・マッソーが喋り捲るドタバタ喜劇だが、中でもウォルター・マッソーが光っている。
大半は記者クラブでの出来事を皮肉を交えて面白おかしく描いているが、もっと風刺を効かせてもいいような内容に思える。
記者クラブの連中はいい加減な記者たちで、各社の新聞記者たちがポーカーに興じている。
ある社の記者が本部のデスクに電話で記事内容を話しているのを聞いて、自分なりの解釈と適当な内容を付け加えて自社に連絡するような体たらくで、新聞は果たして事実を伝えているのかとの疑問を呈している。
警察署にある記者クラブらしく、警察署長が登場してくるが、この警察署長が何とも頼りない男で記者連中からバカにされている。
犯人の精神鑑定にその道の博士が登場して犯人に質問をするが、犯人に「クレイジーだ」と言われるほど変な精神鑑定医である。

主人公の一人であるヒルディは優秀な新聞記者だが、結婚を機に退職して別の土地で広告代理店に務めようとしている。
デスクのウォルターは彼の能力を買っていて、何とか彼を引き留めようとしている。
この二人の思惑が、事件とは別の所で滑稽な場面を生み出していくのだが、脱獄囚とのドタバタ喜劇より断然二人のやりとりの方が面白い。
ウォルターはヒルディを引き止めるために彼の結婚を壊しても良いと思っている人物で、これが最後の最後まで生き続けていたことが一番の面白さだ。
絞首刑を明日に行われることになっているウィリアムズは脱獄するのだが、この脱獄の顛末が馬鹿げている。
この顛末にもバカ警察署長と、クレイジーとウィリアムズに言われた博士が絡んでいて、権威者の無能力ぶりを象徴するエピソードとなっている。
一方の新聞社の方も、特ダネを取る為なら何でもやると言う姿を見せるし、市長は市長で選挙に勝利するためなら人の一人や二人は殺したっていいんだと言う姿勢も描かれていて、世の公僕たる人たちも打算で動いているのだと訴えているようでもある。
深読みすれば、そのようなブラックユーモアがあちこちで描かれているのだが、そのインパクトは弱い。
ドタバタ喜劇だからやむを得ないのかもしれないが、僕はもう少しユーモアの中にそれとは相反する笑えない感情を生み出す演出を欲したのだ。
ビリー・ワイルダーの晩期の作品の中では評価が高い作品だが、僕は少し物足りなさを感じた。

しかし、最後のオチはいい。
ウォルターはヒルディの結婚を祝して、自分が会社から貰った大事な時計をプレゼントしてメデタシメデタシとなるところで(実際僕も大団円を思ったのだが)、そこからひとひねりあって、ウォルター・マッソー最後の一言にさすがはビリー・ワイルダーだと唸らされた。
このシーンにおけるウォルター・マッソーは抜群だ。
観客の一人である僕は、「やってくれたな!」と思わず叫び声を上げたくなった。
そのために生じた結果を示す最後の処理も「へぇー、そうなんだ」と悟らせる粋なものとなっている。

プロフェッショナル

2023-03-02 07:18:05 | 映画
「プロフェッショナル」 1966年 アメリカ


監督 リチャード・ブルックス
出演 バート・ランカスター リー・マーヴィン ロバート・ライアン
   ウディ・ストロード ジャック・パランス ラルフ・ベラミー
   クラウディア・カルディナーレ ジョー・デ・サントス

ストーリー
1917年、メキシコ革命の時代。
数百名の革命派くずれの無法者たちが、山賊となって国境付近で暴れまわっていた。
その頃テキサス油田の持ち主グラント(ラルフ・ベラミー)の妻マリア(クラウディア・カルディナーレ)が彼らに誘拐され、身代金10万ドルを要求されていた。
グラントは妻をとりかえすため4人の男を雇った。
彼らはそれぞれの特技をもつ戦争専門家だった。
ファーダン(リー・マーヴィン)は、射撃の名手で4人のリーダー格。
エーレンガード(ロバート・ライアン)は馬に関しての専門家、ジェイク(ウディ・ストロード)は追跡と狩りの名人で、ナイフと弓矢の術は抜群だ。
そしてドルワース(バート・ランカスター)はダイナマイトの専門家といったぐあい。
4人は出発したが岩山と砂漠が広がる長い旅となった。
途中何度か革命軍に襲われ、各自の特技をいかしてきり抜けた。
メキシコ鉄道を見下ろす丘の上で4人は周囲を偵察した。
政府軍に守られた機関車が来た時、首領ラザ(ジャック・パランス)を先頭に数十人の革命軍が現れた。
列車はおさえられ乗員は全員射殺された。
敵の根城の近くまでたどりつき、その夜4人は攻撃を始めた。
ダイナマイトを仕かけ、マリア救出におもむいたところ、ファーダンとドルワースは意外な光景を目にする。
彼らはマリアを連れ出し、敵の本拠を爆破した。
4人のプロフェッショナルとマリア、一行5人の脱出が始まった。
砂嵐の中を、ラザ一味が追ってきた。


寸評
特殊な技術をもつ精鋭がミッションをこなす話は戦争アクション映画をはじめ何度も描かれてきた内容で、今回は西部劇の世界で繰り広げられる。
スターの名で客を呼べる映画があるとすれば、この「プロフェッショナル」はその内の1本であろう。
リーダーはリー・マーヴィンで、彼はバート・ランカスターと共にメキシコ革命軍に身を投じていた時期があったようで、今は山賊となっているジャック・パランスも同じ部隊で戦った仲間たちだ。
ジャック・パランスが誘拐しているのがクラウディア・カルディナーレで、彼女の救出に向かう仲間としてロバート・ライアンとウディ・ストロードがいるというキャスティングで、その名前を聞くだけでウキウキしてしまう。
それぞれの特技が披露されながら物語が進んでいくがロバート・ライアンの活躍場所がなかったように思え、年齢的にも渋い役回りの期待感が削がれた。

西部劇ではメキシコ革命もよく取り上げられる出来事で、1910年から1917年にかけて起きた革命だからここで描かれた時期はその最終局面の時代であろう。
リー・マーヴィン、バート・ランカスター、ジャック・パランスたちは革命軍に参加した傭兵だったのかもしれないが、彼らの革命に対する思いがいかほどの物であったのかはよく分からない。
クラウディア・カルディナーレは革命の大義に賛同していたはずだと言うが、バート・ランカスターは金の為だったと言い返している。
果たして彼らの本心は何処にあったのか。
バート・ランカスターとジャック・パランスは同じ部隊で共に戦った親友なのだが、親友としての描写は岩山の対決時のやり取りで感じさせるものの、もう少し何らかの方法で描き込んでいれば、二人の関係はもっと味わい深いものになったであろう。

初期の段階ではウディ・ストロードが活躍し、弓で相手を倒したり襲ってくる相手の人数を正確に把握する。
後半になるとバート・ランカスターがカッコ良すぎるくらい活躍する。
相手側の女チキータといい仲だった時があるようで、彼女との別れもホロリとさせられる。
何より岩山で一人、また一人と倒していく姿はヒーローを独り占めしている感がある。
お互いに傷つきながらジャック・パランスと会話を交わす場面は味わいがあり、その後の展開を納得させる。
意表を突いたのは、その前に描かれるジャック・パランスとクラウディア・カルディナーレの関係である。
誘拐事件の経緯も語られラストへの伏線となっている。
物語的には面白い展開であった。

プロフェッショナルのタイトル通り、彼らは仕事をやり遂げて手のひら返しを見せる。
これぞプロという結末が爽快であった。
「暴力教室」、「熱いトタン屋根の猫」、「冷血」などを撮ってきたリチャード・ブルックスにしてはこの作品は完全娯楽作で、監督作品をすべて見たわけではないが彼の作品歴の中では異色のように思う。
人物描写は単純明快、ストーリーも単純明快で気軽に見ることができる西部劇となっている。