「フロント・ページ」 1974年 アメリカ
監督 ビリー・ワイルダー
出演 ジャック・レモン ウォルター・マッソー スーザン・サランドン
ヴィンセント・ガーディニア デヴィッド・ウェイン
アレン・ガーフィールド チャールズ・ダーニング
ハーバート・エデルマン キャロル・バーネット
ストーリー
1929年6月6日、シカゴの刑事裁判所の記者クラブ。
その裁判所の庭では、翌朝行われる警官殺しの犯人として死刑を宣告されたアール・ウィリアムズ処刑のための、絞首台が作られていた。
その頃、シカゴ・エグザミナー紙のデスク、ウォルター・バーンズは、同紙のトップ記者ヒルディ・ジョンソンをその取材に当たらせるために捜していたが、ヒルディの姿はどこにもなかった。
編集室に入ってきたヒルディは、今日限りで辞職して恋人のペギーと結婚してシカゴを離れると言う。
バーンズは仕方なくヒルディの後釜に新米のケップラーを据えた。
一方、保安官ハーマンの事務所では、エンゲルフォッファー医師がウィリアムズの心理状態を調べると称し、警官殺しの現場を再現させようとして保安官の拳銃をウィリアムズに渡す。
そして陽気に騒ぐ記者クラブに、銃声が3発響く。
記者連は色めきたち、ウィリアムズが脱走したことを知ると一斉に飛び出した。
すると、一人残されたヒルディの前に、怪我をしたウィリアムズが転がり込んできた。
ヒルディは、ウィリアムズをトリビューン紙の記者ベンジンガーの大きなロールトップの机の中に隠す。
しかしそれも束の間、新米のケップラーのためにヒルディとバーンズが脱走犯をかくまっていることがばれ、公務執行妨害でブタ箱にブチ込まれてしまい、ウィリアムズも牢へ逆戻りだ。
ヒルディとペギーは一体どうなるのか・・・。
寸評
ジャック・レモンとウォルター・マッソーが喋り捲るドタバタ喜劇だが、中でもウォルター・マッソーが光っている。
大半は記者クラブでの出来事を皮肉を交えて面白おかしく描いているが、もっと風刺を効かせてもいいような内容に思える。
記者クラブの連中はいい加減な記者たちで、各社の新聞記者たちがポーカーに興じている。
ある社の記者が本部のデスクに電話で記事内容を話しているのを聞いて、自分なりの解釈と適当な内容を付け加えて自社に連絡するような体たらくで、新聞は果たして事実を伝えているのかとの疑問を呈している。
警察署にある記者クラブらしく、警察署長が登場してくるが、この警察署長が何とも頼りない男で記者連中からバカにされている。
犯人の精神鑑定にその道の博士が登場して犯人に質問をするが、犯人に「クレイジーだ」と言われるほど変な精神鑑定医である。
主人公の一人であるヒルディは優秀な新聞記者だが、結婚を機に退職して別の土地で広告代理店に務めようとしている。
デスクのウォルターは彼の能力を買っていて、何とか彼を引き留めようとしている。
この二人の思惑が、事件とは別の所で滑稽な場面を生み出していくのだが、脱獄囚とのドタバタ喜劇より断然二人のやりとりの方が面白い。
ウォルターはヒルディを引き止めるために彼の結婚を壊しても良いと思っている人物で、これが最後の最後まで生き続けていたことが一番の面白さだ。
絞首刑を明日に行われることになっているウィリアムズは脱獄するのだが、この脱獄の顛末が馬鹿げている。
この顛末にもバカ警察署長と、クレイジーとウィリアムズに言われた博士が絡んでいて、権威者の無能力ぶりを象徴するエピソードとなっている。
一方の新聞社の方も、特ダネを取る為なら何でもやると言う姿を見せるし、市長は市長で選挙に勝利するためなら人の一人や二人は殺したっていいんだと言う姿勢も描かれていて、世の公僕たる人たちも打算で動いているのだと訴えているようでもある。
深読みすれば、そのようなブラックユーモアがあちこちで描かれているのだが、そのインパクトは弱い。
ドタバタ喜劇だからやむを得ないのかもしれないが、僕はもう少しユーモアの中にそれとは相反する笑えない感情を生み出す演出を欲したのだ。
ビリー・ワイルダーの晩期の作品の中では評価が高い作品だが、僕は少し物足りなさを感じた。
しかし、最後のオチはいい。
ウォルターはヒルディの結婚を祝して、自分が会社から貰った大事な時計をプレゼントしてメデタシメデタシとなるところで(実際僕も大団円を思ったのだが)、そこからひとひねりあって、ウォルター・マッソー最後の一言にさすがはビリー・ワイルダーだと唸らされた。
このシーンにおけるウォルター・マッソーは抜群だ。
観客の一人である僕は、「やってくれたな!」と思わず叫び声を上げたくなった。
そのために生じた結果を示す最後の処理も「へぇー、そうなんだ」と悟らせる粋なものとなっている。
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