おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

あらかじめ失われた恋人たちよ

2024-04-08 06:51:20 | 映画
「あらかじめ失われた恋人たちよ」 1971年 日本


監督 清水邦夫 / 田原総一朗
出演 石橋蓮司 桃井かおり 加納典明 岩淵達治
   内田ゆき 正城睦子 緑魔子 カルメン・マキ
   蟹江敬三 蜷川幸雄

ストーリー
「日本人の心のふるさと、日本海へようこそ!!」、そんな大きな看板の立った北陸の白く乾いた道を気ままに旅する、快活で、饒舌で、気まぐれた青年哮(石橋蓮司)。
彼は、バスの中で乗り合わせた中年夫婦に人なつこく話をしかけ、夫婦が降るとそのあとにくっついて行き、突然刺身包丁をつきつけて明かるく「金、出してくれませんか」と強盗を働いた。
彼は、オリンピック候補にあげられた棒高跳を断念し、つぎのスポーツとしてかっぱらい強盗を選んだ。
ある町にはいった哮は、全身に金粉を塗った若い男女(加納典明、桃井かおり)に、わけもなくひきつけられてしまい二人の行くあとをつきまとい、この二人が聾唖者であることを知る。
ある夜、町の若者たちが、二人の仮りの宿を襲撃し、女をさらっていく。
翌朝、引き裂かれたブラウスをまとったまま、若い女は何事もなかったように帰ってくる。
そのあとで、哮と若者は、石炭石の採掘現場に行き、そこで働いている、女をさらった若者たちを、ナイフと刺身包丁でつぎつぎに刺して報復する。
内灘にやってきた聾唖者の男女と哮は、米軍の残していった空の弾薬庫をねぐらにする。
二人だけの身体と身体の会話に、哮のはいり込む余地は全くないように見える。
哮は、この聾唖者の若い男女からどうしても離れることができず、かつて饒舌に口をついて出た言葉が、次弟にひどくむなしいものに感じられてきて、ある夜、哮は、突然、しゃべることをやめてしまう・・・。


寸評
典型的なATG映画という作品で、物語があるようでなく演出もあらかじめ決められたものなのか即興なのか、あるいはその両方なのかその境目がない。
僕には絵になる場所で絵になるシーンを人脈を通じて集めた役者達を使って撮り続けたと言う印象しかなく、音楽が流れるシーン以外は少々飽きが来た。
当初は興味を持って見ることができたが、後は同じことの繰り返しで何が言いたいのかよく分からない。
あらゆるものが脈絡なく唐突に目の前に差し出されてくるような印象なのだ。
ストーリーで観客を惹きつける映画でない事は分かるが、だからと言って何か画面に惹きつけるものがあるかと言えばそうでもない。
桃井かおりと加納典明が聾唖者のなので、石橋蓮司が喋りまくっているだけの単調な話になってしまっている。

扉を開けた途端に突然カルメン・マキが現れてリンゴをかじっている場面とか、石橋蓮司と頭のおかしな役の緑魔子が蓮池に浮かべた板の上でシュールなやり取りをする場面などが挿入されるが、いったいこれな何なのか整理するのに一苦労したが、結局よく分からないままであった。
僕には、カルメン・マキと緑魔子が駆けつけてきて、急遽彼女たちの登場シーンを組み入れたとしか思えない。
石橋蓮司がアドリブも交えて孤軍奮闘しているが、作り手の狙いであると思うものの、言っていることが観念的なものなので心に響いて来ない、
これはこの映画の致命的な欠点だったと思う。
聾唖者なので桃井かおりは言葉を発することがないので、あの独特の話し方をする彼女の個性を味わうことはできなかったが、時折アップで睨みつけた目が捕らえられるがその表情は魅力的であった。

三人は米軍の残していった弾薬庫跡をねぐらにする。
そして警官隊の砲撃を受け、聾唖者の加納典明と桃井かおりは目も失い盲目となってしまう。
何か言いたげな展開だが、作者の主張は感じ取れなかった。
兎に角、難解に感じる。
最後に石橋蓮司は加納典明や桃井かおりと同じように、疑似的に言葉を捨て去る。
言葉という欺瞞的なものを捨てて行動を起こしたのだと思う。
彼らの行動とは、主張とは何だったのだろう。
自分たちが存在している場所が自分たちの土地だと土着してしまうのではなく、人々よ我々と同じように放浪の旅に出よということだったのだろうか。
僕も短い期間ではあったが放浪の旅をしたことがある。
実に自由でその土地の文化や人々に接しながら、時間を気にすることもなく、気の向くまま足の向くままの満ち足りた日々であった。
旅は楽しいものだが、全ての人が一生を放浪の旅で過ごせるわけではない。
大抵の人は短い時間を俗世から逃れて、再び現実の縛られた生活に戻っていく。
放浪の旅と聞いて僕が思い浮かぶのは画家の山下清と、「男はつらいよ」の寅さんと登である。
あんな風に過ごせたらいいなと思うことはあるが、それでも僕は寅さんになりたいとは思わない。