メディアの発達と溢れる情報によって、すべてがゴチャゴチャになってゆく恐怖。
(例えば『総合格闘技』と『プロレス』なら
「双方、それぞれのルールの上で、極められた肉体と技によって成り立つ」
という意味では同じだが、競技としてはまったく違う」)
興味本位だけで、アスリートがなんであるのかを無視し、
『結果』と一時的な盛り上がりだけを求める民衆と、
それらの野次馬根性を利用して、金儲けだけを考える人々。
かくして.....
アスリートたちはタレントと一緒くたにされて、
ある者は自分の道を見失い、使い捨てられ。
時にはアスリート自身の身体を守る為の競技上のルールまでが無視される。
無責任なマスコミと一部の観衆は『面白ければなんでもいい』のだ。
理由や、経緯や、必要性など、彼らには興味もないし、
そもそも彼らにはスポーツとエンターテイメントの区別もついていないのだろう。
なにしろ、何の知識も責任も持たない観客が『盛り上がった』結果、
選手達の身体が壊れれば、彼らは『次』に群がれば、それで済むし、
煽りたて、演出し、あらゆる者からむしれるだけむしりとった興行主や
マスコミは、金さえ手元に残ればそれでいいのだ。
そうして.....
最後に残されるのは、もはや原型をとどめなくなった『競技』のなれの果てと、
弄ばれ、翻弄された、そこに関わる人々。
文字通り命を賭けて戦うアスリートが、
そこに至るまでどれほどの試練をくぐりぬけてきたかなど、
『盛り上がり』を期待する人間には興味がないのだ。
例えば。
プロレスを何の考えもなしに「『八百長』だ」「インチキだ」と言って憚らない人間が、
『見せる技』を身につけるために、レスラーがどれほどの努力をしているのか、
強靭な身体を持っているのか、考えたことがないように。
ルールというのは、アスリート自身の身体を守るため。
または競う相手を守るためにある。
もし、どちらかがそれを無視すれば、場合によっては命だって失う可能性だってあるし、
.....それはすでに『競技』ではないのだから。
エンターテイメントとスポーツを混同し、ルールを無視して戦う選手には、
『ではもし、自分ではなくて相手がルールを無視したならば』
ということを考える必要がある。
そのとき殺されるのは.....
もしかしたら自分のほうかもしれないのだ、と。
(ちなみに私は強い格闘家などは、「対戦相手をちゃんと怖がっている」と思う。
『強い者は強い者を知る』で、その恐怖を知ってこその強さだ。
『ただのケンカ』の場合なら、恐怖を持たず、殺意をより多く持った者の勝ち、
らしいが)