猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

ピンチはチャンス。

2007年10月26日 23時38分06秒 | ぶ~すか言ってやる!
子供にとって、自分の親が『最低の人間』であることを認めるのは辛いものだ。
私自身の経験から言っても

また、その『最低の親』に育てられた子が、その事実に気づくのはとても難しい。

ある時期まで、子にとって親は自分の世界の大半をなしている存在であろうし、その子の価値観のベースを形作る上において、親の教え、親の姿が大きな影響を与えるのは明らかだ。

親のほうにどんな思惑があろうとも、親がどれだけ身勝手であっても。
子供は親に、ある時期まで全幅の信頼を寄せるものだ。

.....たとえその親に捨てられたとしても。
私にはそれがよくわかる。

しかし、ある時期から、子は親を『一人の人間としてどうであるのか』、判断せねばならない。

常識はあるか。
思いやりはあるか。
卑怯ではないか。
自己中心的な人物ではないか。

その判断が出来るようになったとき、それまで歩んできた道と、己がこれから歩むべき道がよく見えるようになってくる。

世間で騒がれている亀田一家の問題。
私はあの長男を見るたびに切なくなる。
最低の親に間違った価値観を植えつけられ、過剰な自己投影をされ、いい時だけ『俺の子』と言われる。
問題が起きればオヤジは素早く逃げて、後に残されたのは子供の純粋な親を思う気持ち。
兄弟を守りたいと思う気持ち。
それだけだ。

今まで味方になってくれていた大人達は「それとこれとは別」と、冷ややかな目で遠巻きにヒソヒソ声で何事かを囁き、真ん中に経たされた20歳の子供は全身をハリネズミのようにして震えるだけ。

汚い、ウソだ、誰も信じられない、と。

しかしそれでいいのだと思う。
大人になる過程はそこから始まる。

『こいつらいつか見ていろ』と、悔しがるのもまたよしだ。
世の中は矛盾で出来ている。
そしてその世間の矛盾こそが、己の生きている社会を支えているのだと、いつか気づけばいい。

敬語がなっていない?
では完璧に使いこなせるようになればいい。

身なりが悪い?
それなら皆さんのお気に召すよう、身なりをととのえて出かけてみればいい。

世の中なんてちょろいもんだ。
敬語が完璧に使えれば『しっかりしてる人』と言われ、
挨拶が出来れば途端に『いい人』と呼ばれる。
着るものがきちんとしていれば買い物へ出かけても店員の態度すら変わるし、もしかするとサービスのひとつも受けられるかもしれない。

腹の中で舌を出したとしても。
それらのことを実行し続けていれば.....いつかは。

なぜきちんとした敬語が必要なのか。
身なりをととのえねばならないのか。
その理由が見えてくる。

そして、それが見えたとき、自分の親がどんな人間であるのかも、自然に見えてくるはずだ。

世の中は汚いものでいっぱいだけど、そんなに捨てたものでもないということも。

ピンチはチャンスだ。
自分をピンチに追い込んだものの懐に飛び込んで、味方につけるチャンス。

それがわかったとき。
『この野郎、いつか見返してやる』が、『こうなっておいてよかった』になるだろう。

人は多くのものを吸収して初めて、いつかそこから優しさを滲ませることが出来るのだから。

<以前に書いたこの問題についてはコチラ>(←クリック)
コメント (4)
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