猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

何のための.....

2006年10月31日 23時54分48秒 | ぶ~すか言ってやる!
ここ数日。
ニュースを賑わせている『履修逃れ問題』

ついには、とある高校で校長が自殺をするまでの事態に発展した。

この履修逃れについては、思うところがたくさんあったが.....。
この校長は、いったい何のために死んだのだろうと、腹が立ち、また、やりきれない思いでいっぱいになる。

彼は、いずれ何らかの救済措置で救われるはずの罪のない生徒達に、永遠に、いわれのない罪の意識を植えつけた。

『責任を取る』
『生徒に不利益にならない処置を求め、一命を副えてお願いする』
という、大義名分を遺して。
一人でさっさと逃げ出したのだ。

いや。
こんなことを言えば、きっと
「死者に鞭打つとは何事か」
と非難され、読む人を不快にさせるだろう。

しかし、自ら死を選ぶことが、何かの解決策になることなどあるのだろうか。

一命を副える覚悟があるのなら。
一命を賭して何かが出来るというのなら、その命を無駄に散らせる前に、生徒達を全力で守ることは出来なかったのか。

この校長さえ生きていれば、生徒達は、いずれこう思っただろう。

「いやあ、俺たちのときはさ。例の履修逃れの問題があって大変だったよ。まったく腹がたったけど、無事に卒業出来てよかった。今思えば、あれも印象深い出来事だったかもなぁ」
と。

しかし、校長が死んだことで、彼らは一生苦い思いを抱えることになる。

自殺とは。
『自分の今』しか考えることの出来ない、想像力のない人間のすることなのだ。

私は以前、
「自殺は家族殺しだ」
と書いた。

家族が自ら死を選んだ時。
遺された者は、自分の人生すら生きることが出来なくなってしまう。

自分が『今』から逃れたいからといって、家族の.....
または誰かの人生を奪う勝手など許されないのだ。

『死んで責任をとる』などとよく言うが、死んで何がどう責任をとることになるのか。
説明できるというなら、してみて欲しいものだ。
また、『楽になりたい』などと死を選ぶ人間は、自分さえ『楽』になれれば、家族や周囲の苦しみなどどうでもいいのか。

私は受験のための勉強など、どうでもいいと思う人間だが。

生徒達にとって受験が大事であることを知っていたがゆえに責任を感じたはずの人間が、補習授業の大変さを味わう羽目に陥った彼らに、自分の死の責任まで押し付けるなんて。
あまりにも勝手すぎやしないかと思う。

こんなことを言えば、非難されるかもしれないけれど.....

私にはやはり。
どうしても自殺する人間が卑怯に思えて仕方ないのである。
コメント (12)
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