ささやんの週刊X曜日

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

ゼレンスキー演説と真珠湾攻撃の問題

2022-03-21 11:38:11 | 日記


ウクライナのゼレンスキー大統領が米議会で行った演説が、いろいろ物議を醸している。
たとえばお笑いタレントの松本人志は、次のように述べたという。「真珠湾攻撃を出してきたのは引っかかる。日本人としては受け入れがたいところがある」。

問題は、ゼレンスキー大統領がどのような文脈でこの「真珠湾攻撃」なる言葉を使ったかである。とりあえず、四の五の言う前に、当該の箇所をそっくりそのまま全文手を加えずに紹介することにしよう。

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皆様、アメリカの人々。

あなた方のすばらしい歴史の中に、ウクライナ人を理解するためのページがあります。
いまの私たちを理解するため。最も必要とされるときに。

パールハーバーを思い出してください。1941年12月7日の恐ろしい朝。あなたたちを攻撃してきた飛行機のせいで空が真っ黒になったとき。それをただ思い出してください。

9月11日を思い出してください。2001年の恐ろしい日、悪があなたの街を戦場に変えようとしたとき。罪のない人々が攻撃されたとき。空から攻撃されたのです。誰も予想できなかった形で。

あなた方が止めることができなかったように。私たちの領土は毎日これを経験しているのです。毎晩。すでに3週間も。さまざまなウクライナの都市で。
(NHK NEWSWEB 3月18日配信)

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う〜む。ゼレンスキー大統領は実に巧妙な扇動者だ。私がまず感じたのは、そのことだった。ウクライナは今、ロシアという「悪の権化」から、毎日毎晩、容赦ない攻撃を受けている。
ロシアが「悪の権化」であることを示すために、彼はロシア軍による攻撃を、「(日本軍による)真珠湾攻撃」や「(テロリストによる)貿易センタービル攻撃」と同列においたのである。

「真珠湾攻撃」や「貿易センタービル攻撃」と聞けば、アメリカ人は説明するまでもなく(いわば条件反射的に)それを紛れない〈悪〉とみなすはずだ、という周到な計算が、ここには働いている。紛れもない〈悪〉、ーーすなわち即座に反撃し、撃滅すべき自明の標的ーー。この演説は、アメリカという軍事大国を味方に引き込み、(〈悪〉である)ロシア攻撃へと向かわせるための実に効果的な演説だと言えるだろう。

問題は、ロシアが「悪の権化」であることを示すために、「(日本軍による)真珠湾攻撃」を引き合いに出したことではない。真珠湾攻撃であれ、ウクライナ攻撃であれ、貿易センタービル攻撃であれ、およそ暴力(武力)による攻撃は一般に〈悪〉以外の何ものでもなく、その意味で、真珠湾攻撃が〈悪〉であることは免れない。日本人であろうとなかろうと、それを認めないわけにはいかないだろう。まっちゃん(松本人志)のように、「日本人としては受け入れがたいところがある」などと言って済ますわけにはいかないのだ。

ただ、「真珠湾攻撃」という歴史的事実には、感情がーー「チクショウ、やりやがったな、この野郎!」という敵対感情、怨恨感情がーーいまだ生々しくこびりついている。「(日本軍による)真珠湾攻撃」を引き合いに出すことで、ゼレンスキーは、日本人に対するアメリカ人の敵対感情、怨恨感情を呼び起こそうとし、実際にそう仕向けてしまったのだ。問題はこのことである。

ゼレンスキー大統領の演説に対して、「集まった500人以上の議員らは演説後、総立ちになって拍手を送り、ゼレンスキー大統領への支持を表明した」とメディアは伝えている。この熱狂的な拍手のうち何割かは、日本人への敵意と、呼び覚まされたその記憶に根を持つものだったのではないか。

戦後のベストセラーの一つに小田実の『何でも見てやろう』(1961年)があるが、この本を読んだときのことが、私は忘れられない。著者の小田実は、ヒッチハイクでアメリカ大陸をあちこち貧乏旅行するのだが、行く先々で「このジャップ野郎め、俺の息子はお前らに殺されたんだぞ!」と、ツバを吐きかけられたりしたという。(なにしろこの本、読んだのは半世紀以上も前のことなので、私の記憶もあやふやになり、表現が違っている部分があるかもしれないが、当時の日本人に対する敵対感情はとにかく凄かったらしい。)

ともあれ、そうした敵対感情の記憶が少しでもアメリカ人の意識の底に残っているとしたら、日本とアメリカとの同盟関係は一体どうなってしまうのだろうか。お隣の韓国では、日本人に対する怨恨感情・敵対感情がいまだ生々しく渦巻いている。その韓国と同盟関係を結ぶのが難しいように、日本がアメリカと同盟関係を結ぶのは難しいのではないか。

「アメリカ軍が攻撃を受けたとき、我が自衛隊が助けに駆けつけられるようにしないと、日本が攻撃を受けたとき、アメリカ軍は助けに駆けつけてくれないぞ」

そういう脅し文句によって、アベ政権は、日本が集団的自衛権を行使できるように法律を変えたが、そんなことで事が解決するほど、話は単純ではない。
アベ政権の見解の根底には、次のような期待がある。
「アメリカ軍が攻撃を受けたとき、我が自衛隊が助けに駆けつけられるようにすれば、日本が攻撃を受けたとき、アメリカ軍が助けに駆けつけてくれるはずだ。」
だが、そのように法律を変えれば、日本が中国や北朝鮮から攻撃を受けたとき、アメリカ政府は軍隊を出して、日本を助けてくれるのだろうか。真珠湾攻撃の前科がある日本。卑怯な手段で、アメリカ人兵士の生命を多く奪った日本。その日本を助けるために、はたしてアメリカは軍隊を出すだろうかーー。

ゼレンスキーの米議会での演説は、結果的に日米関係の根幹にある問題をえぐり出した点で、実に有意義なものだったと言わなければならない。



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戦争の非道さは

2022-03-20 11:46:30 | 日記


「東京大空襲のときがそうだったわよね」
きのうの夕食時、テレビの画面を見ながら、妻がつぶやいた。

NHKの7時のニュースは、ロシア軍の砲撃によって破壊された無残なウクライナの街並みを映していた。あたかも東京大空襲を見てきたような妻の口ぶりだったが、そうではない。妻は昭和32年生まれの65歳。正真正銘の戦後世代、「戦争を知らない子どもたち」の世代である。

「ホントにそうだよなあ」
私がそう答えたのは、むかし写真で見たことのある、東京の焼け野原のモノクロ映像が、ウクライナの瓦礫の映像にダブって見えたからである。

「でも、不思議だよなあ。そのことを言う人がいないのは、なぜなのだろう?」

よく考えてみれば、東京大空襲があったのは、第二次世界大戦末期の昭和20年頃のこと、今から80年近くも前のことである。当時10歳の子供だった人は、今は90歳。生きていたとしても、令和の時代への発信力は無いに等しい(と思う)。

けさネットの森を散策していたら、「ゴマメのばーば」さんが次のように書いていた。ウクライナの惨状を思うと、「幼い頃遭遇した『敵機による空爆の怖さ』」を思い出してしまう、と。

「ゴマメのばーば」さんは1937年生まれ、ということは、今は84、5歳になるブロガーさんである。そのお歳でこれほど(毎日ブログを書けるほど)矍鑠としたお年寄りも珍しいだろう。

戦争を直接体験した世代による、被害者目線での心情の吐露に出くわした思いだったが、印象的だったのは、「ゴマメのばーば」さんが「敵機による空爆の怖さ」について語るだけで、「民間人を爆撃したアメリカ軍への憎しみ」を語らないことである。これは一体どうしたことなのか。

今、世間では、ウクライナに残虐な攻撃を加えるロシア軍と、その総帥たるプーチン大統領の残忍さ、非道さが何かと論(あげつら)われ、槍玉にあげられている。それと同じ伝でいけば、東京を大空襲で焼け野原にし、広島と長崎に原爆を落としたアメリカ軍の残忍さ、非道さと、それを命じたトルーマン大統領の残忍さ、非道さも激しく糾弾されねばならないはずだが、今、後者を問題にする人は皆無といって良い。これは一体どうしたことなのか。

ロシア軍やプーチン大統領の残忍さ、非道さを非難するのなら、我々は同様にアメリカ軍やトルーマン大統領の残忍さ、非道さを非難すべきだし、アメリカ軍やトルーマン大統領の残忍さ、非道さを不問に付すのなら、ロシア軍やプーチン大統領の残忍さ、非道さにも目をつぶらなければならないことになる。論理の必然からすれば、そういうことになるのではないか。

ともあれ、戦争には残忍さ、非道さがつきまとう。ロシア軍であれ、アメリカ軍であれ、ウクライナ軍であれ、日本軍であれ、それは同じことだ。ロシア軍だから、アメリカ軍だから、ということではない。

誤解してもらっては困るが、私はべつに次のように言おうとしているわけではない。
「残忍さ、非道さは戦争の然からしめるところだ。だから当然のこととして、我々はそれを受け入れなければならない」と。

そうではない。残忍さ、非道さは戦争の然からしめるところだから、だからこそ、我々は戦争を絶対に起こしてはならないのだ。私はそう言いたいのである。

巷では、そのうち中国が台湾を攻略に出るのではないかと取り沙汰している。そうなれば、アメリカ軍がこれを阻止するために出動し、同盟国である日本の自衛隊はアメリカ軍に加勢しなければならなくなる。こうして日本は否応なく米中戦争に巻き込まれることになる。

こうした成り行きを考えれば、戦争は決して対岸の火事ではなく、身近に迫る可能性にほかならない。そうであればこそ、我々はこれを絶対に避けなければならない。戦争に巻き込まれないよう、今から機会をとらえ、着実に外交的な布石を打っておくこと、何よりもこれが肝要になるが、キシダ君、ーー今や親分のアベ・ソーリと袂を分かったキシダ君、そのあたりは大丈夫だろうか。


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習近平のジレンマ

2022-03-19 11:29:50 | 日記


ジレンマ。相反する二つの事の板ばさみになって、どちらとも決めかねる状態。ロシアのウクライナ侵攻が陰惨を極めつつある今、世界各国の指導者はまさしくジレンマ状態に陥っている。

たとえば中国。習近平国家主席は、ロシアを支持する側につくか、非難する側につくか、きわどい選択の瀬戸際に立たされている。ロシアを支持する側につけば、全世界を敵にまわし、国際社会から爪弾きにされる恐れがある。国際社会という大きな市場を失うことになるから、国家経済がこうむるダメージも大きい。仇敵アメリカも黙ってはいないだろう。

だが、こうしたデメリットを恐れて、ロシアを非難する側につけば、どうか。ロシアのウクライナ侵攻の、その不当性を認めることになり、そうなれば、自らが近いうちに行おうとしている「台湾攻略」の、その不当性を自ら認めることにもなりかねない。だからロシアのウクライナ侵攻を成功に導く意味でも、中国はロシアを支持しないわけにはいかないのだが・・・。

けさ面白い新聞記事を読んだ。中国の企業でも、ロシアに課せられた経済制裁を気にして、ロシアでの事業から撤退する動きが見られるが、その一方、ネット上では、そうした企業を「西側の犬だ」などと批判する(親ロシアの)書き込みが続出しているという。

習近平は国家指導者として、こうした国民の声をどう受けとめるのだろうか。中国政府の親ロシア政策への熱烈な賛同のエールとして受けとめるのだろうか。

その可能性もなくはないが、習近平がそうした声に引きずられることはまずないと思う。親ロシアのそうした声は、それ自体、政府が言論統制によって国民の脳裏に植えつけた洗脳教育の結果だということ、そのことを習近平はよく知っている。
彼は国民の声を、政府の国内向け宣伝放送の谺(こだま)位にしか思わないだろう。

国民の声などには構わず、この国家指導者はひたすら「国益」のことだけを考え、ジレンマの板挟み状態に向き合っているに違いない。

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地震の教訓

2022-03-18 11:47:59 | 日記



はて、北海道で大地震が起こったのは、いつのことだったか。ネットで調べると、2018年9月のことだと判った。そうか、あれからもう3年半が経つのか・・・。

そんなことを調べようという気になったのは、けさ届いた読売新聞のメルマガに、こんな見出しの記事が載っていたからである。

「首都圏でなぜ停電?広域『ブラックアウト』防ぐための意図的措置だった」

記事によれば、きのうの地震では、「震源地から遠い首都圏でも約210万戸の大規模な停電が発生した」という。なるほど、そうだった。テレビで「首都圏で停電」のニュースを聞き、私は「妙なことがあるものだ」と思ったが、我が家では停電の被害がなかったこともあって、この事象について深く考えることはなかった。「なぜ?」と疑問に思うこともなかった。

ところがである。メルマガの記事によれば、きのうの首都圏での停電は、「広域での予期せぬ全面停電『ブラックアウト』を防ぐため、一部地域への電力供給を強制的に止めた」結果だというのである。記事は次のように続ける。

「電気を安定供給するには、需要(使用量)と供給(発電量)が同じ量になっている必要がある。需給のバランスが急に崩れると、最悪の場合、発電所の安全装置が作動してブラックアウトを引き起こす。しかも東電と東北電は送配電網がつながっており、一体で需給を調整することが求められる。」

なるほど、そうだったのか。この記事を読んで、私は北海道であった大地震と、それに伴うブラックアウトのことを思い出したのである。

電気の安定供給のためには、需給のバランスをとることが大事だ、ーーこのことを私は、3年前の北海道大地震から学んだのだった。この地震から1ヶ月後、私はブログに次のように書いている。

「電力事業はお見合いに似ている。結婚したい(売電したい)と思っても、相手(消費者)にその気(買電したい)がなければ、婚約は成立しない。電力事業の厄介なところは、婚約が成立しないと、すべてがチャラになる(ブラックアウト=停電が生じる)ことである。電力に限っては、受給のバランスがすべての鍵を握っている。このことを、我々は北海道大地震の経験によって知らされたばかりだ。」
(2018/10/14《有り余る電力 原発不要論》)

このブログ記事のタイトル(「有り余る電力 原発不要論」)に示されているように、私が北海道のブラックアウトから学んだ事実(電力供給には「需給のバランス」が重要)は、私の「原発不要論」の根拠にもなった。ちょっと長いが、これも私のブログの過去ログの一節である。

「太陽光や風力を利用する再生可能エネルギーは、電力の供給量が自然条件によって左右され、不安定であるため、ベースロード電源にはなり得ないとされてきた。だが、上に述べた『受給のバランス』という基本的条件を考える必要がある。この条件を考慮に入れれば、それに替わる(原発などの)安定的な電力源を確保しても、これで用意は万全、とは行かないことは、火を見るよりも明らかである。電力が一定量供給されたとしても、電力の需要は一定ではなく、季節によって変動する。需要が変動する中、受給のバランスを維持することは、なかなか容易ではない。」

きのうの大地震で3.11(東日本大震災)を思い出したと言う人は多いが、我々はまた北海道大地震のことも思い出すべきなのかもしれない。


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地震だ!

2022-03-17 11:08:01 | 日記


昨夜はテレビドラマ「ムチャブリ!」(pm10〜)を見てから、トイレで用を済ませ、ベッドに潜り込んだ。

ベッドで横になってからは、いつものようにスマホでYou Tube。「圭Tube」の「カートークバラエティ」を見はじめたら、いきなりドーンと地震がきた。

いや、「いきなりドーン」ではない。初めはゆさゆさ。収まるかな、と思ったころ、大きな横揺れがきて、それがしばらくの間続いた。
私の部屋にさしたる被害はなかったが、ちょうど頭上のあたりに設置されたエアコンが、いつ落ちてくるかとヒヤヒヤものだった。落ちてくれば、わたしの顔面を直撃することは間違いない。

幸い、そういうこともなかったが、これがテレビドラマ「ムチャブリ!」を見た後で、「news zero」や「news23」などのニュース・ショーを見ていたら・・・と思うと、ぞっとする。その場合は、ちょうどトイレで用を足している最中か、車イスから便座に移乗している最中に、地震の大揺れを食らった可能性が高いからだ。

ともあれ、何ごともなくてヨカッタ、ヨカッタ。朝起きてテレビをつけたら、NHKでは、朝ドラが始まるまでの間、延々と十八番(おはこ)の災害報道。

それを見ながら、私はふと妻から聞いた話を思い出した。2日ほど前のことだが、妻の友人から電話があり、友人(つまり、妻の友人、の友人)の話では、京都市内で大群の野鳥が一斉に飛び立つ姿が目撃されたという。「そのうち大きな地震があるから、ティッシュやトイレットペーパーを買っておいたほうが良いわよ」というアドバイスだった。

たしかに地震は起こった。大地震だ。すごい予知能力である。ただし、震源は京都ではなく、東北地方。彼女(妻の友人)の予測では、南海トラフの関係で、静岡県の製紙工場地帯がやられるのでは、ということだったが、そうはならなかった。

朝食時の妻の話では、妻のLINEに娘や息子から「地震、大丈夫だった?」と気遣いのメッセージが入ったようだ。しかし私のスマホには、何の音沙汰もない。

春うらら 父は悲しく 洟(はな)啜る グスン

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