ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

戦争の非道さは

2022-03-20 11:46:30 | 日記


「東京大空襲のときがそうだったわよね」
きのうの夕食時、テレビの画面を見ながら、妻がつぶやいた。

NHKの7時のニュースは、ロシア軍の砲撃によって破壊された無残なウクライナの街並みを映していた。あたかも東京大空襲を見てきたような妻の口ぶりだったが、そうではない。妻は昭和32年生まれの65歳。正真正銘の戦後世代、「戦争を知らない子どもたち」の世代である。

「ホントにそうだよなあ」
私がそう答えたのは、むかし写真で見たことのある、東京の焼け野原のモノクロ映像が、ウクライナの瓦礫の映像にダブって見えたからである。

「でも、不思議だよなあ。そのことを言う人がいないのは、なぜなのだろう?」

よく考えてみれば、東京大空襲があったのは、第二次世界大戦末期の昭和20年頃のこと、今から80年近くも前のことである。当時10歳の子供だった人は、今は90歳。生きていたとしても、令和の時代への発信力は無いに等しい(と思う)。

けさネットの森を散策していたら、「ゴマメのばーば」さんが次のように書いていた。ウクライナの惨状を思うと、「幼い頃遭遇した『敵機による空爆の怖さ』」を思い出してしまう、と。

「ゴマメのばーば」さんは1937年生まれ、ということは、今は84、5歳になるブロガーさんである。そのお歳でこれほど(毎日ブログを書けるほど)矍鑠としたお年寄りも珍しいだろう。

戦争を直接体験した世代による、被害者目線での心情の吐露に出くわした思いだったが、印象的だったのは、「ゴマメのばーば」さんが「敵機による空爆の怖さ」について語るだけで、「民間人を爆撃したアメリカ軍への憎しみ」を語らないことである。これは一体どうしたことなのか。

今、世間では、ウクライナに残虐な攻撃を加えるロシア軍と、その総帥たるプーチン大統領の残忍さ、非道さが何かと論(あげつら)われ、槍玉にあげられている。それと同じ伝でいけば、東京を大空襲で焼け野原にし、広島と長崎に原爆を落としたアメリカ軍の残忍さ、非道さと、それを命じたトルーマン大統領の残忍さ、非道さも激しく糾弾されねばならないはずだが、今、後者を問題にする人は皆無といって良い。これは一体どうしたことなのか。

ロシア軍やプーチン大統領の残忍さ、非道さを非難するのなら、我々は同様にアメリカ軍やトルーマン大統領の残忍さ、非道さを非難すべきだし、アメリカ軍やトルーマン大統領の残忍さ、非道さを不問に付すのなら、ロシア軍やプーチン大統領の残忍さ、非道さにも目をつぶらなければならないことになる。論理の必然からすれば、そういうことになるのではないか。

ともあれ、戦争には残忍さ、非道さがつきまとう。ロシア軍であれ、アメリカ軍であれ、ウクライナ軍であれ、日本軍であれ、それは同じことだ。ロシア軍だから、アメリカ軍だから、ということではない。

誤解してもらっては困るが、私はべつに次のように言おうとしているわけではない。
「残忍さ、非道さは戦争の然からしめるところだ。だから当然のこととして、我々はそれを受け入れなければならない」と。

そうではない。残忍さ、非道さは戦争の然からしめるところだから、だからこそ、我々は戦争を絶対に起こしてはならないのだ。私はそう言いたいのである。

巷では、そのうち中国が台湾を攻略に出るのではないかと取り沙汰している。そうなれば、アメリカ軍がこれを阻止するために出動し、同盟国である日本の自衛隊はアメリカ軍に加勢しなければならなくなる。こうして日本は否応なく米中戦争に巻き込まれることになる。

こうした成り行きを考えれば、戦争は決して対岸の火事ではなく、身近に迫る可能性にほかならない。そうであればこそ、我々はこれを絶対に避けなければならない。戦争に巻き込まれないよう、今から機会をとらえ、着実に外交的な布石を打っておくこと、何よりもこれが肝要になるが、キシダ君、ーー今や親分のアベ・ソーリと袂を分かったキシダ君、そのあたりは大丈夫だろうか。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする