ニュースの時間にテレビをつけると、ウクライナの現況が映されることが多くなった。赤ちゃんを抱えて泣き叫ぶ母親、廃墟と化した建物を背に、呆然と立ちつくす老人たち、砲弾を浴びてたちまち炎を吹く高層ビル、瓦礫の街をとぼとぼと歩く少年少女・・・。そうした映像を見るとき、我々は胸の痛みを感じる。この胸の痛みは、何を意味しているのか。どこから来るのか。
戦禍のただ中で、悲嘆にくれるウクライナの人々。我々は想像を働かせ、彼らの苦境に自分自身を投げ入れる。そして投げ入れた想像上の自分に、悲痛の念をいだくのだ。「おお嫌だ、見るだけでぞっとする。こんな目には遭いたくないものだ」、「ああ、こんなおぞましいことは御免だ。とても耐えられない。ソッコーやめてくれ!」等々。
我々が感じるこうした生理的な疼きは、言い方を変えれば、「良心の呵責」と同質のものである。「けしからん、とんでもないぜ。人の道に悖る卑劣な行いだ。プーチンには良心というものがないのか!」
そう憤るとき、我々が感じる心の疼きは、戦場と化した無残な日常に、我々が自分を重ね合わせるところから来ている。
(たしかアダム・スミスが『道徳感情論』の中でこれと同じことを言っていたが、今、手元にテキストがないので、正確にどう言っていたかは断言できない。)
テレビの画面に流されるウクライナの惨状は、ほとんどの視聴者に「こんな非人道的な蛮行は、とても許されない!断固抗議する」と叫ばせる力を持っている。映像の迫真性は、ペンの力よりも遥かに強い広範な影響力を持っているのだ。ウクライナの映像を流す日々のテレビ番組は、「ロシアの敵」をあまた作り出すマスプロ製造機だと言えるだろう。
情報機器が発達した現在、映像マスコミを相手にして、もはやロシアに勝ち目はない。今や全世界がロシアの敵となり、プーチン批判に余念がないが、こうした国際世論の創出にテレビが果たす役割は実に大きいのである。
このような成り行きを考えると、国際的ハッカー集団「アノニマス」が先日行ったロシアに対するテレビ・ハイジャック攻撃は、プーチンの独裁体制に風穴を開け、これに大打撃を与える実にあっぱれな快挙だったと言えるだろう。「アノニマス」のハイジャック作戦は、ロシア国内に反体制の「プーチンの敵」を何人生み出しただろうか。
今やロシアは国内外に数多の敵をかかえ、敗色濃厚、ほうほうの体と言ってよい。この軍事国家が事態を収拾するには、砲弾攻撃を即座に中止し、停戦交渉でウクライナ側との妥協に持ち込むのがやっとだろう。
プーチンよ、今が引き際だぜ。