ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

老後の真実

2021-06-03 10:12:28 | 日記
コロナ・ワクチン接種会場の、その順番待ちの列に並ぶB爺さんと、C爺さん。そんな二人の老人を眺めながら、車イスに乗ったA爺さんがこうつぶやいたことを、二人は知らない。「知らぬが仏」という諺もあるが、「知は力だ」と言った哲学者もいる。

どいつもこいつもビンボーたらしいジジイばかりだな。もちろん、カネがすべてじゃないことは、このオレがよく知っている。成り上がりの人生レースに勝ったとか、敗けたとか、そんなことは実はどうでも良いことなのだ。あいつらにはわからないだろうが、幸福とは、ホントはもっとささやかなところにあるものだからな。

車イスのA爺さんが思い浮かべたのは、週1の割合で通っているリハビリ・デイサの若い女性スタッフだった。彼女は近く結婚を控え、相手の彼氏とラブラブ状態の真っ最中なのだ。

今が彼女のいちばん好いときだよなあ。人生の春とでも言えるのだろうな。振り返ってみれば、このオレも結婚前はそうだった。・・・でも、そのうち彼女だって知ることになるのさ。結婚は人生の墓場だ、ってね。実際、このオレがそうだった。まあ、今にしてつくづく思うが、介護タクシーを頼むカネがあって、ホント良かったぜ。年寄りになってから身の回りのケアを家族に任せると、ロクなことはない、不幸の始まりだというからな。考えてみれば明らかなことだが、要介護者になった年寄りは、確実に家族の重荷になる。厄介者の年寄は家族の間に諍(いさか)いの種を撒くから、パンドラの箱をあけてしまうのだ。カネでそれを止めることが出来るなら、それに越したことはない。カネなんていくらあっても、あの世に持っていけるわけではないからな。自分の介護は、自分のカネを払って介護のプロに任せるのが、有効なカネの使い方というものだ。まあ、あいつらみたいにカネがなければ仕方がないが、そういうカネの使い道があるということを、あいつらはちょっとでも考えたことがあるのだろうか。

大体がだな、あいつらは自分がすでに家族の重荷になってしまっていることに、気づいているのだろうか。定年で退職をして、ダンナが四六時中、家にいるようになれば、妻は1日に3度も食事の世話を焼かなければならなくなる。気ままに外出もできなくなる。「夫源病」という言葉もあるくらいだ。

A爺さんは、またこうも考える。B爺さんやC爺さんのことは、もう眼中にはない。

それにしても、薄ら寒い墓場のようなこれまでのオレの人生を、なんとかすることは出来ないのだろうか。決して幸福とはいえないオレの人生だったが、オレのこれまでの人生を、なんとかすることは出来ないだろうか。ーーそうだ、「これからが、これまでを決める」と、うまいことをブログで言っていた人がいたっけな。あれはたしか「団塊シニア」さんのブログだったか。まあ、ともかく、その段でいけば、これからオレがカミさんとヨリを戻せば、これまでのオレの墓場人生は、春のぽかぽか揺りかご状態の準備期間へと変貌するということだろうか。オレのありあまるカネを、パパ活、いや「ジジ活」に使うというのも、ひょっとしたらカネの有意義な使い方ということになるのかもしれないな。でも、今更なあ・・・。

A爺さんは、ワクチン接種の順番が来て、自分の名前が呼ばれたことに気づかなかった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 運の悪い爺さんは | トップ | 理想のケータイか »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事