ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

再掲 核抑止論について考える(その2)

2024-07-31 09:29:32 | 日記
核抑止論について以前論じたブログ文を再掲する。読んでいただければ幸いである。
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理性は感情の奴隷である。」こう述べたのは18世紀のイギリスの哲学者・ヒュームである。我々の行動の原動力になっているのは感情であり、理性はこの感情の指令に奉仕するだけの役割しか持っていないというのである。ふつう我々は、理性が感情をコントロールすると考えている。だがその理性の根底に、ヒュームは感情の働きを認めるのである。

こんなことを持ち出すのは、ほかでもない、このヒュームの考え方に沿って見るとき、我々の前に岩盤のように立ちはだかる、あの度し難い「核抑止論」はどういうことになるのか、それを考えてみたいと思うのである。

言うまでもなく、核兵器の使用は悲惨な現実をもたらす。8月6日のヒロシマの光景が、8月9日のナガサキの光景が、まざまざとそれを語っている。地獄のような酷たらしいその光景を目にするとき、我々は「核のない世界」の到来を心から願う。この願いは、感情からくる願望にほかならない。

この願望に基づいて、我々は「核廃絶」を訴え、「核保有国は即刻、核兵器を廃棄すべきだ」と要求する。おととし2021年にやっと発効を見た「核兵器禁止条約」の、その発効を主導したのは、こうした要求だったと言えるだろう。

ところが、核保有国の政治的リーダーはこの要求を退け、頑として聞く耳を持たない。彼らはこう主張する。

「ロシアのプーチンを見よ。北朝鮮の金正恩を見よ。核兵器で脅しを掛けようとするこうした悪玉が存在する以上、我々は核兵器を放棄することはできない。我々が核兵器を放棄すれば、世界は彼らに支配されることになってしまう。そんなことはだれもが望まないはずだ。」

ここに語り出されているのは、「核抑止論」以外の何ものでもない。この「核抑止論」は言うまでもなく理性的な判断に基づいている。

とすれば、ここにあるのは、(感情に基づく)「核廃絶」の要求を(理性に基づく)「核抑止論」が退ける、という構図であり、我々はヒュームに反して「理性は感情に勝る」と言うべきではないか、とも思えてくる。

だが、「核抑止論」の根底にある理性的判断の、そのまた根底にあるのは何かといえば、それはやはり感情ではないだろうか。「あんな人でなしの独裁者の言いなりになるのは、嫌だ」という感情、つまり、束縛を嫌い、自由を望む人間生来の感情である。

この感情のほうが、核兵器の使用に伴う悲惨な結果を忌避する感情を凌ぐとすれば、それは、核兵器の使用に伴う(あまりにも!)悲惨な結果に対して、我々の想像力が及ばないからにすぎない。ヒロシマの原爆資料館の展示物は、「被爆の実相」を我々に突きつけ、我々の(日常に染まった狭小な)想像力を補ってくれるだろう。

こんなふうに書きながら、私が次に私が示したいのは、(1)核兵器の使用に伴う悲惨な結果を忌避する感情と、(2)束縛を嫌い、自由を望む人間生来の感情と、ーーこの2つの感情を比較するとき、(1)が(2)を凌ぐ動向が、今新たに(アメリカでも!)生み出されつつある、という現状である。

人間は自由を望み、幸福を望む。だが自由も幸福も生命(いのち)あっての物種である。この意味で根源的である生命を、瞬時にごっそりかっさらっていく悪魔の兵器、核兵器が忌避されるのは当然といえば当然であるが、これについては、あすのブログで書くことにしよう。
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(2023/8/8《核抑止論を越える》より)


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