これまで数回にわたり、窪田順生氏のネット記事
《 「プーチンを倒せば平和が訪れてハッピーエンド」 ウクライナ戦争をそう捉える人たちが忘れていること》
を見てきた。
最後に、私なりにこれまでのところを総括することにしよう。私は窪田氏に言いたいことがある。
私が窪田氏にまず突きつけたいのは、
「ウクライナの人々の苦境を、我々は黙って見過ごすことができるのだろうか。見て見ぬふりをすることが許されるのだろうか」
という思いである。
以前、私は本ブログで次のように書いたことがある。
「ニュースの時間にテレビをつけると、ウクライナの現況が映されることが多くなった。赤ちゃんを抱えて泣き叫ぶ母親、廃墟と化した建物を背に、呆然と立ちつくす老人たち、砲弾を浴びてたちまち炎を吹く高層ビル、瓦礫の街をとぼとぼと歩く少年少女・・・。そうした映像を見るとき、我々は胸の痛みを感じる。この胸の痛みは、何を意味しているのか。どこから来るのか。」
(3月14日《ウクライナ 映像の力を見よ》)
こう書いたとき、私は、そうした「胸の痛み」はだれもが感じるものと思っていた。
(アダム・スミスに倣って)この「胸の痛み」こそ「良心の呵責」の起源であり、「同情、共感」( sympathy )の根源だと、そう私は考える。
そう考える私は、ウクライナの人々の苦境を目にすれば、だれもが同情・共感を懐き、(彼らを助けてあげられない無力な自分に対して)「良心の呵責」を感じるとともに、このような悲惨な状況をもたらした悪人(プーチン)に対して、激しい義憤を感じるに違いないと思っていた。そして、それが人情というものだと思っていた。今でもそう思っている。
だから私は窪田氏にこう問いたいのである。
「ウクライナの人々の苦境を目にしても、あなたは胸が痛まないのですか? ウクライナの人々の苦境を、我々は黙って見過すべきだ、と、そうあなたはおっしゃるのですか?」
私のこの問いに対して、窪田氏は多分こう答えるだろう。
「ウクライナの人々を支援すれば、日本はロシアから敵国と見なされ、ロシアとの戦争が避けられなくなるのですよ。そうなれば、今度は我々日本人がウクライナの人々と同じ、酷い目にあうことになるのです。人間は、だれだって自分が一番可愛い。我が身の安全を第一に考えて、ウクライナ問題にノータッチの態度をとったほうが良いと言う、弱者思いの私のような老婆心を、あなたは非難できるのでしょうか?」
それに対して、私はこう答えよう。
(つづく)