ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

人生、苦もあれば

2022-04-12 11:25:28 | 日記



きょうも「団塊シニア」さんのブログ・ネタで恐縮だが、けさの散策時に目を通すと、そこにはこんなふうに書かれていた。

「老後は過去の楽しかったことを記憶しておいて、いつもその実感として生きればいい」

長い人生、苦もあれば楽もある。苦の記憶をいつまでも引きずるのではなく、楽の部分をしっかり身体に刻みつけ、その記憶に満たされながら生きる、ーー「団塊シニア」さんは、これこそ「老後の生き方で大切なこと」だと言うのである。

「団塊シニア」さんの言葉に触発されて、いくつか思うところがあった。一つは、五木寛之氏の近著『捨てない生き方』についてである。私はこの本を読んでいないが、最近の「断捨離」ブームを批判した内容だという。

勝手に想像すれば、この本は次のように言おうとしているのではないか。モノはただ闇雲に捨てればいいというものではない。一つひとつのモノには、それと交渉を持ったときの時代が、その記憶が刻み付けられている。それらのモノに囲まれながら、そこにこびりついた数多の記憶と共に生きることで、我々の老後の人生は数段豊かになる、ということなのだろう。

我々は〈今〉だけに生きているのではない。過去があり、現在がある。現在があり、未来がある。我々の〈今〉は、過去の記憶と未来への希望によって成り立っている。「断捨離」によって、モノと一緒に過去の記憶まで捨ててしまっては、我々の老後は実に薄っぺらな侘しいものになってしまうだろう。

「団塊シニア」さんの言葉で思い出したもう一つのことは、ニーチェの「永劫回帰」の思想である。我々の生の一瞬一瞬は、互いに密接に結び合っている。「おお、素晴らしい!」と思えた一瞬は、他の一瞬一瞬ーーなんの変哲もない平凡な時や、辛い・苦しいと思えた時ーーとの連関によって成り立っている。だから「おお、素晴らしい!」と思い、その瞬間を肯定するとき、我々は、他のすべての瞬間を全肯定しているのではないかーー。

「この世界は、全てのもの(大いなるものも卑小なものも)が、まったく同じように永遠にくり返される」とするニーチェの永劫回帰の考え方は、そうした生の実感から来ていると私は考えている。

なんの変哲もない平凡な日々があり、辛く苦しい日々があってはじめて、「おお、素晴らしい!」と思える一瞬がある。おととい4月10日、ロッテの佐々木朗希選手がプロ野球史上16人目となる完全試合を達成した。この快挙は彼の「花」といえるが、この「花」が開くまでには、日々の辛く苦しい練習という「幹」や「根」の部分があったことを忘れてはならない。

年老いてジジ/ババになってから、「おれ/あたしには、『花』と呼べる時などなかったなあ・・・」とぼやいている老人は、自分が若い頃、「根」を張り「幹」を太くする努力をしたかどうかを、一度、自分の胸に聞いてみるべきだろう。

人は運に左右され、また、持って生まれた才能にも左右されるが、それだけではないと私は思う。


コメント
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