ネット上の便利百科事典 Wikipedia によれば、優生学という学問は、ゴル
トンなる人物によって「人種の先天的な諸特質を改善する、あらゆる様々な影
響に関する科学」と定義された学問であり、「そこには究極的に優れた状態へ
人間を発達させることも含まれる」とされた。ゴルトンは『遺伝的天才』(1
869年)の序文で、次のように書いている。
「人間の本性の持つ才能はあらゆる有機体世界の形質と身体的特徴がそうであ
るのと全く同じ制約を受けて、遺伝によってもたらされる。こうした様々な制
約にも拘らず、注意深い選択交配により、速く走ったり何か他の特別の才能を
持つ犬や馬を永続的に繁殖させることが現実には簡単に行われている。従って、
数世代に亘って賢明な結婚を重ねることで、人類についても高い才能を作り出
しうることは疑いない。」
優生学の創始者とされるゴルトンの、その学説の詳細に立ち入って検討を加え
ることは避けたいが、今は特筆すべき点として、次の事実を指摘しておこう。
それは、ゴルトンの学説に関して、それが「誤りだ」という反論がなされな
かったことである。哲学者のカール・ポパーは、「どのような手段によっても
間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない」と述べたが、このポ
パーの見解に従えば、ゴルトンの学説は「科学ではない」ことになる。
事実、ゴルトンの学説は、科学的言説というより、イデオロギー的色彩が濃い
ものであり、「積極的優生学」、「消極的優生学」という形で展開された。積
極的優生学とは、子孫を残すに相応しいと見なされた者が、より子孫を残すよ
うに奨励する言説であり、消極的優生学とは、子孫を残すに相応しくないと見
なされた者が子孫を残すことを防ごうとする言説である。
特筆すべきもう一つの点は、以上のような形で展開した優生学のイデオロギー
が、ナチスによって利用され、ジェノサイドのための口実として用いられたこ
とである。ナチス・ドイツが連合軍に敗れたことによって、優生学のイデオロ
ギーは、ジェノサイドに直結する危険思想とみなされるようになった。その結
果、第二次世界大戦以降は、優生学はマジメに論証したり反証したりするに値
する、マトモな科学とは見なされなくなってしまったのである。疑似科学、エ
セ科学の扱いである。
日本で優生保護法が制定された1948年には、(世界的に見れば)優生学を
危険なエセ科学と見なす思潮が形成されていた。こうした新しい思潮を無視し、
優生学の負の側面に目を配ろうとしなかったこと、優生学を盲信して、これを
あたかもマトモな科学であるかのようにとらえ、これに基づいて法律を制定し
たことが、当時の法曹界の最大の誤り(=過ち)だったと言えるだろう。
平成の世が終わろうとしている今、糾弾されるべきはこの誤り(=過ち)であ
る。この過ちをおかしたのは「当時の法曹界」だと私は書いたが、さて、そう
だとした場合、この過ちに対しては、だれが責任をとればよいのだろうか。そ
の責任のとり方は、どういう形にすればよいのだろうか。う〜む、難しい問題
である。
この問題を処理するために組織された超党派議連のWTは、先日、救済法案を
公表した。そこには過ちに対する「謝罪」も、「謝罪」する主体も明示されて
いない。明示していないのに、「お詫び」のしるしとして(つまり賠償金とし
て)、なにがしかの「救済金」を支給するというのである。この報道に接した
とき、私は、ずいぶんおかしな法案だな、と思ったが、以上のような経緯を踏
まえれば、それもやむを得ないことと言わなければならないのだろうか。
トンなる人物によって「人種の先天的な諸特質を改善する、あらゆる様々な影
響に関する科学」と定義された学問であり、「そこには究極的に優れた状態へ
人間を発達させることも含まれる」とされた。ゴルトンは『遺伝的天才』(1
869年)の序文で、次のように書いている。
「人間の本性の持つ才能はあらゆる有機体世界の形質と身体的特徴がそうであ
るのと全く同じ制約を受けて、遺伝によってもたらされる。こうした様々な制
約にも拘らず、注意深い選択交配により、速く走ったり何か他の特別の才能を
持つ犬や馬を永続的に繁殖させることが現実には簡単に行われている。従って、
数世代に亘って賢明な結婚を重ねることで、人類についても高い才能を作り出
しうることは疑いない。」
優生学の創始者とされるゴルトンの、その学説の詳細に立ち入って検討を加え
ることは避けたいが、今は特筆すべき点として、次の事実を指摘しておこう。
それは、ゴルトンの学説に関して、それが「誤りだ」という反論がなされな
かったことである。哲学者のカール・ポパーは、「どのような手段によっても
間違っている事を示す方法が無い仮説は科学ではない」と述べたが、このポ
パーの見解に従えば、ゴルトンの学説は「科学ではない」ことになる。
事実、ゴルトンの学説は、科学的言説というより、イデオロギー的色彩が濃い
ものであり、「積極的優生学」、「消極的優生学」という形で展開された。積
極的優生学とは、子孫を残すに相応しいと見なされた者が、より子孫を残すよ
うに奨励する言説であり、消極的優生学とは、子孫を残すに相応しくないと見
なされた者が子孫を残すことを防ごうとする言説である。
特筆すべきもう一つの点は、以上のような形で展開した優生学のイデオロギー
が、ナチスによって利用され、ジェノサイドのための口実として用いられたこ
とである。ナチス・ドイツが連合軍に敗れたことによって、優生学のイデオロ
ギーは、ジェノサイドに直結する危険思想とみなされるようになった。その結
果、第二次世界大戦以降は、優生学はマジメに論証したり反証したりするに値
する、マトモな科学とは見なされなくなってしまったのである。疑似科学、エ
セ科学の扱いである。
日本で優生保護法が制定された1948年には、(世界的に見れば)優生学を
危険なエセ科学と見なす思潮が形成されていた。こうした新しい思潮を無視し、
優生学の負の側面に目を配ろうとしなかったこと、優生学を盲信して、これを
あたかもマトモな科学であるかのようにとらえ、これに基づいて法律を制定し
たことが、当時の法曹界の最大の誤り(=過ち)だったと言えるだろう。
平成の世が終わろうとしている今、糾弾されるべきはこの誤り(=過ち)であ
る。この過ちをおかしたのは「当時の法曹界」だと私は書いたが、さて、そう
だとした場合、この過ちに対しては、だれが責任をとればよいのだろうか。そ
の責任のとり方は、どういう形にすればよいのだろうか。う〜む、難しい問題
である。
この問題を処理するために組織された超党派議連のWTは、先日、救済法案を
公表した。そこには過ちに対する「謝罪」も、「謝罪」する主体も明示されて
いない。明示していないのに、「お詫び」のしるしとして(つまり賠償金とし
て)、なにがしかの「救済金」を支給するというのである。この報道に接した
とき、私は、ずいぶんおかしな法案だな、と思ったが、以上のような経緯を踏
まえれば、それもやむを得ないことと言わなければならないのだろうか。