ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

優生保護法 改廃の根拠を問う(その2)

2018-11-06 14:02:05 | 日記
旧「優生保護法」という古い取り決めは、何が問題だったのか。この取り決め
に基づいてとられた行政的措置(強制不妊手術)は、どの点で「誤り」だった
のか。このことが解らないまま、私は本ブログで次のように書いたのだった。

「日本では旧優生保護法(1948〜96)の下で、障害を持つ人たちに対
し、なかば強制的に不妊手術が行われたが、最近では、むかし行われたこの行
政措置に対して、これを問題視する声があがっている。それが障害者に対する
差別視に基づくこと、また、それが「自由」の人権を侵害することが問題に
なったことは、想像に難くない。」
              (11月2日《法と法とがバッティング》)

つまり私は、事情がよく解らぬまま、強制的に行われた不妊手術は個人の「自
由」権を侵害するものだと断じたのだが、数日後、この私の判断を補強してく
れる記事が見つかった。以下の報道である。

旧優生保護法により不妊手術を強制されたのは違憲だなどとして、仙台地裁で
争われている国家賠償訴訟で、国は「憲法判断は司法が下すべきだ」として違
憲かどうかの見解を示さない方針を固めた。(中略)
 原告は「旧優生保護法は子どもを産むことの自己決定権を奪い、違憲だ」と
訴えた。国は違憲性に触れず、救済立法しなかったのは違法ではないと主張。
地裁は「判決で憲法判断をする」とし、7月末までに見解を示すよう国に求め
た。国は応じないことになる。
                (朝日新聞DIGITAL 7月23日配信)

この記事によれば、旧優生保護法が「違憲」だとされるのは、それが個々人の
「自己決定権」を奪うからである。つまり、旧優生保護法は(個人の尊重と生
命・自由・幸福追求の権利の尊重をうたう)憲法第13条に違反しているとい
うのである。

だが、「強制は自由の剥奪であり、だから憲法違反なのだ」と早とちりしては
ならない。憲法第13条の本文に、じっくり目を通してみよう。

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国
民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする。」

つまり、自由および幸福追求の権利には、「公共の福祉に反しない限り」尊重
されねばならない、との制限が付けられているのである。

「自由」なら何でもかんでも認められ、尊重の対象になるとは限らない。この
ことは、道路交通法を例にとれば一目瞭然である。各人が自由に、好き勝手に、
ほいほいと車を運転したら、どうなるのか。あちこちで事故が頻発し、公共の
福祉が損なわれることは、目に見えている。だから道路交通法はルールを定め、
「赤信号では車は停止しなければならない」と停止を強制するのである。この
強制措置が人権侵害に当たらず、憲法違反でないことは、言うまでもない。

すると問題は、旧優生保護法に基づく強制不妊手術が「公共の福祉」に反する
か否かだということになる。「公共の福祉」を楯にとり、障害者に対して不妊
手術を強制した旧優生保護法が、裁きの対象となる問題の中心だということに
なる。

旧優生保護法は、当時の科学的知見、つまり優生学的知見に基づいて制定され
たに違いない。では、その優生学的知見とは、どういうものだったのか。
                           (つづく)
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