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「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

論考者西郷の恐ろしさ!(野村が戦略家?:日本人的美学からの論考)

2010年06月08日 | 先人の分析
おはようございます!


なんだか、天気のいい日が続いていますね。

そういえば、今年は空梅雨の可能性があるとか、ほんとにそうなんですかね!

まあ、でも、やっぱり長雨より、気持ちのいい天気のほうが、全然いいですからね。

と、今日はバヤリースマンゴーを、ぐびび!と飲んで、

論考のほうに、入っていきましょうかね!


さて、今日は「翔ぶが如くシリーズ」ということで、司馬作品を徹底的に切り刻んでいきましょう。

なんつーか、ここらへん、僕の最も得意とするあたりなんで、書いていて自然笑みがこぼれてしまいますね。

さて、前回は、薩軍は、アホではなく、勝つために普通に戦略家である野村忍介の言葉を聞こうとしていた、

ということを論考しました。まあ、今日はその野村の具体的な献策内容あたりから、論考を

ゆるゆると開始していきましょう!


さて、野村の献策内容について、司馬氏は、次のように書いています。

「野村忍介が献策した作戦とは、要するに、兵力の一部をもって長囲するという策である。」

「「薩軍のすべてをあげて、この熊本の孤城一つを攻め上げるなどは、せっかくの精鋭を、この無駄な城攻めで死なしめるばかりで」

「決してよろしくない」「もしも、政府の援軍が九州に上陸し、熊本城を囲んでいる薩軍を四囲からとりかこめばどうなるか。」

「となれば、勢い、如何ともしがたい」みな、道理であると思った」

まずは、こういう内容なんですね。


要はこの期に及んでも、薩軍の戦略目標というものが、決まっていなかったらしい、ということがだだわかりになるわけです。

本来、戦争を開始するに辺り、戦略目標、というものは、決めておくのが基本だろうと思います。

例えば、本土へ渡ることを戦略的目標とするなら、熊本城は一部の兵で、囲み、干上がらせるという策が上策でしょう。

本隊は、堂々と船などを調達しながら、本土へ渡ればいい。しかし、本土には、広島に鎮台がありますから、

これへの手当は、どうするか・・・、と考えて行く必要があるわけです。

でも、どうも、そこまで、考えていた、とはどうも思いにくいんですよねー。


さて、西郷の目標は、薩摩士族削除ですから、あえて、何も言いません。というより、もう薩摩士族削除装置に

薩軍を放り込んでしまい、当初の目的を達成しているのが西郷なんですよ。


こうなると、薩軍幹部に戦略目標を立てていなかった責任がある、ということになりますね。

やっぱり、西郷に騙されちゃったんですかねー。ここらへん、まだまだ、グレーですね。


ここで、もし、桐野あたりは、西郷の意中をわかってしまい、それの実行を黙々とやっていた、と仮説をおいてみましょうか。

彼は、知識より鋭い勘で生きてきたようなところがありますからね。

そうなると、西郷の意中は、

「若者ばらに、戦という最高の祭りを経験させ、薩摩士族削除を完成する」

ですからね。あえて、戦略目標なぞ、考えない方が、戦に没頭できるわけですよ。

そういう理由を構えて、あえて西郷に協力していた、とすると、

なぜ、この期に及んで戦略目標が、なかったか、という答えにもなりそうなんですよね。

もちろん、もうひとつの答えは、桐野らが、熊本城なんて、軽ーく、抜いちゃうもんね、と考えていたという仮説なんですが、

桐野が以前、この鎮台の司令長官だった、というのが、キーになりますね。その頃は、熊本鎮台が最弱の頃ですからね。

つまり、あとのことは、まあ、あとで考えることにして、まず、熊本鎮台を血祭りにあげて、兵の気力をさらに強くしよう、と考えていた、

と論考できるわけです。どうも、こっちのほうが、実情にあっているような、気がしますね。


しかし、事実は西郷の論考通り、対薩軍戦に耐え得るように補強された対薩軍削除装置に変わっていた熊本鎮台ですからね。

西郷に事実を引き寄せられているわけですよ。


さて、野村忍介は、さらに献策しています。これも見てみましょう。

「熊本城に対しては先発の大隊をして長囲せしめ、他はあげて北進し、小倉付近をおさえ、政府軍が海峡を越えて九州に上陸してくることを大いに阻めば」

「後方の熊本城などは自然に衰え、城中飢餓に耐えかねて熟柿の気から落ちるように自らおちてしまうだろう」

だそうです。これについて、司馬氏は、

「野村の説くところは、いわば戦術の常道で、妙案というに近い」

と書いていますが、果たしてそうでしょうか。

ここで、重要なのは、薩軍にとって、最もやばいことは、何なのかということが、野村によって指摘されていることなんです。

つまり、政府軍が海峡を越えて九州に上陸することが、最もやばい、ということを野村が言っているということなんです。

その程度で、やばい、ということを野村が指摘している、ということが、最も重要なんです。

そして、敵の上陸を阻むということが、この日本でいかに困難か、僕が3月31日にあげた記事「西郷の頭にあったこと!(薩摩軍は元々:日本人的美学からの論考)」

の中で、西郷の師である島津斉彬が国家防衛論として、その海岸線の長さが日本防衛の弱点になるとして、対岸となる国すべてを占領してしまって、

初めて日本防衛ができる、と語った内容を挙げています。

つまり、島津斉彬の遺訓を知っていれば、それが無理だということがわかるはずなんです。もちろん、西郷はわかっていたでしょう。

であれば、この野村の

「上陸を大いに阻む」

というのは、不可能な所業だ、ということがだだわかりになるわけです。

だから、戦術の常道でもなければ、妙案でもなんでもないんですよ。

できないことを前提としているわけですからね。

事実、すでにこの時期(二月二十二日)、政府軍の有力な一部が、博多に上陸しつつあった、と司馬氏は記しています。

まあ、熊本城を攻囲していれば、自然と落ちるなどと言っていますが、これすら怪しい。つまり、常道として指しているのは、攻囲ということだけで、

どちらも実現しないことなんだから、はっきり言って意味のない献策だった、と評価すべきなのです。

さらに司馬氏は、当時の日本陸軍の動員のスピードを薩軍が甘く見ていたことを指摘し、山県の能力について評価しています。

そして、

「その要素さえなければ、この野村の献策は良策だった」

としているのですが、もし、博多上陸が遅れていたとしても、

海岸線のどこからでも、上陸できるわけですから、まったく良策じゃないんです。

これくらい島津斉彬の存在を知っていれば軽くわかるはずなのに、それすら覚えていない。

この司馬という人物のあまりのレベルの低さがだだわかりです。


そして、野村忍介も、全然戦略家レベルに達していない。


今まで思っていたことと全然違うということに気づき、アホ臭くなりました。

なんつーか、レベル低いよね?この程度で、戦略家なんて、言えないでしょう?


さて、この献策に対して、結局、薩軍幹部は二つに割れたそうです。

そうなれば、ここで、御大に裁断をあおぐしかない、ということで、西郷登場なわけです。

そして、どうしたらいいか、聞くと、次のような裁断をしたそうです。

「野村案の一部をとって、今日の強襲はいったん中止する。かと言って小倉に急ぎ進出せねばならないこともあるまい」

「そこで、一部をもって熊本城を囲み、一部をもって植木方面に進出し政府軍が南下するのを待つ、他はしばし休息をとって英気を養ってはどうか」

「政府軍がやってきたら、きたで、そのとき、いちいちつぶしていけばよい。じきに、城もおちる」

「そこで、軍容をたてなおして所期の如く中央に出て行く、という風にしたら、どうか」

これ、みなさん、どう見ます?

どう考えたって、薩軍を敗北させようという意志がみなぎっているじゃありませんか!

これ、要は、政府軍を簡単に植木あたりまで、進出させようということなんです。何の苦もなく、安全に植木あたりまで、進出させちゃう意図でしょう?

さらに一部で政府軍にぶちあてようというのだから、政府軍に各個撃破できるようにしている、ということにもなりますよね。

そんなの、どう見たって、薩軍の負けを導いているのは、だだわかりじゃないですか!

さらに、英気を養う組をつくるというのだから、自然、政府軍にあたる軍は小さくなる。

思い切り、薩軍の敗戦を指導しているんですよ。

そして、最後の二行で、薩軍幹部たちにこの作戦内容を信用させ、薩軍敗戦という事実を引き寄せようとしているんです。


恐ろしい。この西郷というひとは、どこまで、事実を引き寄せまくるんでしょうね。


第一、野村が、政府軍が上陸したら、やばい、と言っているのに、

「いやあ、そんなの大丈夫さ」

と、否定しているわけでしょう。野村の案にのるな、野村の考えに乗るなと言っているわけでしょう。

そして、しれっと政府軍を安全に上陸させてしまう意図がだだわかりじゃないですか。

うわー、こわいですねー。

徹底していますよ、この西郷というひとは。

さて、この西郷案について、司馬氏は、

「これによって、戦機をことごとく逸することになるが、しかし西郷は自分の挙兵による対世間的影響のほうを大きく計算し、楽観していたのだろう」

と、ムチャクチャ見当違いなことを書いています。ことごとく戦機を逸するなぞ、なぜ、おかしいと気づかないのかまったく理解に苦しむ馬鹿です。


さて、この夜、熊本共同隊は、夜襲を頼まれていたわけで、その士気は多いにあがっていたそうです。

熊本士族は、薩摩士族に対する拮抗心が強く、薩人が十の勇をふるえば、肥後人は十五の勇をふるうべしと考えていたそうです。

なかなか、すごいですねえ。

そこへ、薩軍本営から、使者が来て、攻撃中止を伝えるわけですから、

「なんだ、そりゃ」

ということになるわけです。

「薩人は、いつもこうだ」

などと、嘆くものがいたそうです。

つまり、西郷の策は、熊本共同隊の士気さえ衰えさせ、さらに薩軍への信頼も損なわせるという意味もあったわけで、そのものすごさが、わかりますね。

いやあ、こうひとは、敵にまわしちゃあ、いけません。もっともこの場合、日本政府は敵にまわしたから、よかったわけですけどね。


さて、今日はそんなところにしておきましょうかね。

いやあ、西郷って、ほんと、徹底していたんですね。

こんな素材を、こういう風にしか、見れないなんて、ほんと、どうかしていますよ。

今日は、西郷のすごさを実感しましたね。

そして、西郷が、さいなまれていたことも、理解しました。

それでも、事実を引き寄せる、論考者のものすごさ。

人間は、悪魔になれる、という証左なんでしょうか。

こういう状況には、陥りたくないものですね。


さて、今日も長くなりました。

ここまで、読んでくれたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。


ではでは。

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