おはようございます!
このところ、天気のいい日が続きましたが、
今日は午後から雨だそうで・・・まあ、乾燥していますから、たまには、お湿りも必要かな、という感じです。
さて、月曜日は、いつも歌詞論考をやっているんですが、
要は、
「いい歌の理由」
を考えてきたわけで・・・今日は、歌でなく、音楽一般について、考えてみたいと思います。
というのも、先日、ある女性音楽家の方の話を聞いていて、なんとなく、考えるところがあったからですねー。
まあ、そのあたり、考えを深める意味を持って、論考してみましょう!
その女性は、音楽を作る上で、どういう順番でつくっていくか、について話していました。
「音楽というのは、最初、言葉で考えていくんです。やっぱり言葉がないと、考えられませんから」
と、彼女は、言うわけです。そして、
「でも、ある段階から、言葉で表現する以上のこと・・・音に成り代わってしまうんです。その音が欲しくなる・・・」
と言うんですね。つまり、言葉以上のことを表現するために、音で表現することになる、ということなんですね。
これ・・・別の表現で言うと、まあ、僕は長く美術部にいたので、絵画で表現すると、最初は写実的な絵を描いていたものが、
より多くの表現をしようとしたら、抽象画になった、ということを言っているのと同じなんですね。
例えば写実的な絵・・・目の前にある赤い自転車を描いたとしましょう。これは、単なる自転車です。でも、赤いから、女性のモノなのかな?
くらいのストーリーしかありませんね。それしか、表現されない。では、これにいろいろなストーリーをつけようと考えるとどうなるか。
例えば、自転車の形を、女性のボディラインに似せて描いてみましょう。実際にそういう自転車があるわけではないですから、
これは、抽象画ということになります。でも、そういう女性のボディラインを持った自転車を描けば、そこにいろいろなストーリーが表現される。
例えば、この自転車は、オーナーから、女性のように愛されているんだ、というストーリーも表現できるし、自転車は女性のように、繊細な乗り物だ、
とか、女性のように美しい乗り物だ、とか、いろいろたくさんのストーリーが表現できるようになったわけです。
もちろん、他にもいろいろなストーリーを内包することができた。つまり、音楽における、言葉から、音への表現の移行は、この写実から抽象画への移行と
同じで、ストーリーの多様性を模索した結果、導かれた表現!と言うことができるんですね。
これね、よく考えてみると、言葉による呪縛が解かれたことによる、多様性表現ということなんですよ。
これ、要は、非言語コミュニケーションそのものなんですよね!
このところ僕は、非言語コミュニケーションの有用性について、考えてきましたが、なんのことはない、言語というのは、呪縛でもあるんです。
言語というのは、ひとつの意味か、あるいは、複数くらいの意味しか、表現できません。しかし、音だったり、抽象画だったり、そういうものは、
多様なストーリーを表現できる。それらは、言葉の呪縛から、抜け出ているんです。だから、多くのメッセージを相手に提出できるわけです。
それに個人個人で、見方も大きく変わる。そこに、おもしろさがあるんですね。
言葉は、言葉にしか、過ぎない。たしかに、正確さで言えば、これほど便利なものはないけれど、多様性はない。一意性です。
だから、多くのことを語りたければ、非言語コミュニケーションにならざるを得ないんですね。
ベートーヴェンは、音楽を哲学の域にまで、高めた、とその女性音楽家は、言っていました。
それまでの音楽は写実だったそうです。この音階とこの音階の音を続けると、それは稲妻を意味する・・・などという表現方法が確立していたので、
例えば、ビバルディの春なんて、春の訪れを写実し、遠雷を写実し・・・そういう感じで、春を写実した音楽でした。
それに対して、ベートーヴェンは、哲学の域にまで、高めた・・・そういう音の言葉が散りばめられているのが、ベートーヴェンの音楽なんだそうです。
それでも、音の言葉だから、多様性が非常に高いわけで、言葉の呪縛からは解き放たれているからこそ、そういう表現ができている、ということなんでしょうね。
つまり、非言語コミュニケーションの方が、多くの情報をメッセージとして、与えることができるということなんですね。
先日、戸井十月さんの世界走破のドキュメンタリーを見ていたんですが、この戸井十月さん、外国の方と話すのに、あまり言葉は使わないんですね。
大事なところだけ、例えばSorryとか、メルシ!とか、そういう辺りは英語やフランス語を使うわけですけど、例えば買い物やら親愛の表現なんかは、
身振り手振りなんですよ。指で指したり手のひらで数を表現したり・・・親愛の表現は、肩を叩いたり、肩を抱いたり・・・そういう身振り手振りの方が
確実に伝わるし、より感情が伝わるんですよ。それは、相手の表情を見ていればわかりますからね。
つまり、言葉より、身振り手振りの方が感情が伝わる・・・そっちの方が、相手にダイレクトに伝わって、相手も感情を動かすんですね。
つまり、非言語コミュニケーションの方が、感情がダイレクトに伝わるということなんです。
音楽だって、美術だって、本能をダイレクトに刺激されて、感情が動くじゃないですか。
人間は、感情が、動くと、感動するんです。だから、音楽を聞いて涙を流し、素晴らしい絵を見て、感動するんです。感情が動くと行動するのが、人間なんです。
だから、気持ちを伝えたい時、感情を伝えたい時には、言葉でなく、非言語コミュニケーションが有効なんですね。
つまり、我々が聞く音楽は、作曲者による、非言語コミュニケーションだ、と言えるわけです。
作曲者達が、非言語コミュニケーションで感情やらなにやら多くのことを伝えて、こちらの感情を揺り動かしている、それが音楽を聞くということなんです。
クラッシックを聞いて、感情が動くのも、非言語コミュニケーションだから、多くの感情がダイレクトに自分に伝わるからなんです。
それは、絵画も同じです。言葉でない別の形で、表現することで、多様な情報をメッセージとして伝えることができるのです。
そういう意味では、演技力というのも、非言語コミュニケーションなんですよね。
顔の表情や声の感じ、立ち居振る舞いが、すべて言語から解き放たれた表現として、観ている我々に伝わる。
それこそ、最も我々が毎日、目にするものですから、受ける側も鍛えられているし、より理解力がある。
だから、演技というのは、難しいし、演技力のある演技者の演技は、僕らを感動させるんですね。
僕はドラゴン通信を書いていく中で、
「感情が動かない」
「感情が動いた」
というのを、演技評価の指標にしてきました。それは、正しかったということになります。
高い演技力による演技だから、感情が動かされるんです。感情が動かない、というのは、やはり、問題がある、ということになりますね。
つまり、僕らは、なぜドラマや音楽や絵を見るのか、と言えば、非言語コミュニケーションによって、感情を動かされたいという欲望を持っているのだ、と言えるんです。
感情が動かされるのを楽しいと感じているということになります。
つまり、エンターテイメントとは、そのひとの、感情を動かすことができて、初めてその役割を果たすということになるんですね。
だから、エンターテイメントは、言語だけでなく、非言語コミュニケーションも使って、お客の感情を動かそうしているんです。
それに対して、非言語コミュニケーションの役割は、大きいと言えるんですね。
それがわかれば、なぜドラマにBGMがあるのか、その役割の大きさもわかるわけです。音楽という非言語コミュニケーションによって、感情を動かそうとしているのが理解できます。
であれば、人間は、他人を見るとき、その言語を聞くより、言葉以外の部分をたくさん見ているんだろうということも推察できます。
だから、ひとりの人間と相対した時、その人間が自分に対してどういう感情を持っているのか、雰囲気でわかってしまうんですね。
そう。雰囲気とは、非言語コミュニケーションなんですよ。
女性はそういうのうまいですよね。雰囲気で悟らせる・・・そういうの、よくやっていますよね(笑)。
言葉にしなくてもわかる・・・そのあたりが、感知できるのが、経験のある大人なんだと、思いますね。
非言語コミュニケーションというくくりで考えると、それが、実はとても重要なことだ、ということがわかりましたね。
音楽、美術だけでなく、非言語コミュニケーションというものは、膨大にあります。そして、非言語コミュニケーションがいかに重要かもわかってきます。
例えば、夫婦のいい形・・・言葉をちょっといっただけで、
「ああ、あれね」
的につながりあえる。あれも、非言語コミュニケーションがお互い理解できているから、言葉にしなくても、わかりあえる、ということなんですね。
僕は「リアル・ニュータイプ理論」で、しあわせとは、つながること、と言い切っていますが、
そういう意味で言うと、非言語コミュニケーションでつながりあうことは、非常にレベルの高いしあわせを獲得する、ということが言えると思います。
つまり、自分の非言語コミュニケーション能力をシビアに高めておけば、しあわせ獲得に有用だ、ということが言えるわけです。
相手の雰囲気を察したり、こちらの気持ちを言葉にせず、伝えること。
この能力をシビアに鍛えるためには、それは、経験を高めることだと、思いますけど、ドラマなんかで演技力を見極められるようになることも、有用だと思いますね。
何も言わなくても、表情で伝わる。いや、何も言わないほうが、何倍も伝わるんです。
だから、男性大河ファンは、演技力を欲するんですね。言葉ではなく、顔の表情や雰囲気で表現するほうが、何倍も感情が伝わるんです。
それに対して、女性は、男性主人公の言葉を、聞きたいから、女性大河では、登場人物がセリフで、表現するんですね。
なるほどねー。
まあ、少し脱線しましたが、非言語コミュニケーションが、人生に有用なことがよくわかりました。
他人とのコミュニケーションに、非言語コミュニケーションを意識して使うことをオススメします。
より、多くのことが、相手に伝わると思います。
そういう意味では、おしゃれも、非言語コミュニケーションだね。
非言語コミュニケーション。意識して、大切にすることにします。
大切なことは、言語コミュニケーションより、非言語コミュニケーションの方が、より多くのことを伝えられる、ということですね。
それを今回の結論としましょう。
うーむ。なんか、いろいろなことが、つながった、今回の論考になりました。
音楽の話は、どこいったの?って感じですが(笑)。
なんか、いろいろなモノの見方が、変わったような気がしますね。
まあ、しぐさとか、大事ってことですよ。そういうのに、気をつけることにしますかねー。
ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。
また、次回、お会いしましょう。
ではでは。
このところ、天気のいい日が続きましたが、
今日は午後から雨だそうで・・・まあ、乾燥していますから、たまには、お湿りも必要かな、という感じです。
さて、月曜日は、いつも歌詞論考をやっているんですが、
要は、
「いい歌の理由」
を考えてきたわけで・・・今日は、歌でなく、音楽一般について、考えてみたいと思います。
というのも、先日、ある女性音楽家の方の話を聞いていて、なんとなく、考えるところがあったからですねー。
まあ、そのあたり、考えを深める意味を持って、論考してみましょう!
その女性は、音楽を作る上で、どういう順番でつくっていくか、について話していました。
「音楽というのは、最初、言葉で考えていくんです。やっぱり言葉がないと、考えられませんから」
と、彼女は、言うわけです。そして、
「でも、ある段階から、言葉で表現する以上のこと・・・音に成り代わってしまうんです。その音が欲しくなる・・・」
と言うんですね。つまり、言葉以上のことを表現するために、音で表現することになる、ということなんですね。
これ・・・別の表現で言うと、まあ、僕は長く美術部にいたので、絵画で表現すると、最初は写実的な絵を描いていたものが、
より多くの表現をしようとしたら、抽象画になった、ということを言っているのと同じなんですね。
例えば写実的な絵・・・目の前にある赤い自転車を描いたとしましょう。これは、単なる自転車です。でも、赤いから、女性のモノなのかな?
くらいのストーリーしかありませんね。それしか、表現されない。では、これにいろいろなストーリーをつけようと考えるとどうなるか。
例えば、自転車の形を、女性のボディラインに似せて描いてみましょう。実際にそういう自転車があるわけではないですから、
これは、抽象画ということになります。でも、そういう女性のボディラインを持った自転車を描けば、そこにいろいろなストーリーが表現される。
例えば、この自転車は、オーナーから、女性のように愛されているんだ、というストーリーも表現できるし、自転車は女性のように、繊細な乗り物だ、
とか、女性のように美しい乗り物だ、とか、いろいろたくさんのストーリーが表現できるようになったわけです。
もちろん、他にもいろいろなストーリーを内包することができた。つまり、音楽における、言葉から、音への表現の移行は、この写実から抽象画への移行と
同じで、ストーリーの多様性を模索した結果、導かれた表現!と言うことができるんですね。
これね、よく考えてみると、言葉による呪縛が解かれたことによる、多様性表現ということなんですよ。
これ、要は、非言語コミュニケーションそのものなんですよね!
このところ僕は、非言語コミュニケーションの有用性について、考えてきましたが、なんのことはない、言語というのは、呪縛でもあるんです。
言語というのは、ひとつの意味か、あるいは、複数くらいの意味しか、表現できません。しかし、音だったり、抽象画だったり、そういうものは、
多様なストーリーを表現できる。それらは、言葉の呪縛から、抜け出ているんです。だから、多くのメッセージを相手に提出できるわけです。
それに個人個人で、見方も大きく変わる。そこに、おもしろさがあるんですね。
言葉は、言葉にしか、過ぎない。たしかに、正確さで言えば、これほど便利なものはないけれど、多様性はない。一意性です。
だから、多くのことを語りたければ、非言語コミュニケーションにならざるを得ないんですね。
ベートーヴェンは、音楽を哲学の域にまで、高めた、とその女性音楽家は、言っていました。
それまでの音楽は写実だったそうです。この音階とこの音階の音を続けると、それは稲妻を意味する・・・などという表現方法が確立していたので、
例えば、ビバルディの春なんて、春の訪れを写実し、遠雷を写実し・・・そういう感じで、春を写実した音楽でした。
それに対して、ベートーヴェンは、哲学の域にまで、高めた・・・そういう音の言葉が散りばめられているのが、ベートーヴェンの音楽なんだそうです。
それでも、音の言葉だから、多様性が非常に高いわけで、言葉の呪縛からは解き放たれているからこそ、そういう表現ができている、ということなんでしょうね。
つまり、非言語コミュニケーションの方が、多くの情報をメッセージとして、与えることができるということなんですね。
先日、戸井十月さんの世界走破のドキュメンタリーを見ていたんですが、この戸井十月さん、外国の方と話すのに、あまり言葉は使わないんですね。
大事なところだけ、例えばSorryとか、メルシ!とか、そういう辺りは英語やフランス語を使うわけですけど、例えば買い物やら親愛の表現なんかは、
身振り手振りなんですよ。指で指したり手のひらで数を表現したり・・・親愛の表現は、肩を叩いたり、肩を抱いたり・・・そういう身振り手振りの方が
確実に伝わるし、より感情が伝わるんですよ。それは、相手の表情を見ていればわかりますからね。
つまり、言葉より、身振り手振りの方が感情が伝わる・・・そっちの方が、相手にダイレクトに伝わって、相手も感情を動かすんですね。
つまり、非言語コミュニケーションの方が、感情がダイレクトに伝わるということなんです。
音楽だって、美術だって、本能をダイレクトに刺激されて、感情が動くじゃないですか。
人間は、感情が、動くと、感動するんです。だから、音楽を聞いて涙を流し、素晴らしい絵を見て、感動するんです。感情が動くと行動するのが、人間なんです。
だから、気持ちを伝えたい時、感情を伝えたい時には、言葉でなく、非言語コミュニケーションが有効なんですね。
つまり、我々が聞く音楽は、作曲者による、非言語コミュニケーションだ、と言えるわけです。
作曲者達が、非言語コミュニケーションで感情やらなにやら多くのことを伝えて、こちらの感情を揺り動かしている、それが音楽を聞くということなんです。
クラッシックを聞いて、感情が動くのも、非言語コミュニケーションだから、多くの感情がダイレクトに自分に伝わるからなんです。
それは、絵画も同じです。言葉でない別の形で、表現することで、多様な情報をメッセージとして伝えることができるのです。
そういう意味では、演技力というのも、非言語コミュニケーションなんですよね。
顔の表情や声の感じ、立ち居振る舞いが、すべて言語から解き放たれた表現として、観ている我々に伝わる。
それこそ、最も我々が毎日、目にするものですから、受ける側も鍛えられているし、より理解力がある。
だから、演技というのは、難しいし、演技力のある演技者の演技は、僕らを感動させるんですね。
僕はドラゴン通信を書いていく中で、
「感情が動かない」
「感情が動いた」
というのを、演技評価の指標にしてきました。それは、正しかったということになります。
高い演技力による演技だから、感情が動かされるんです。感情が動かない、というのは、やはり、問題がある、ということになりますね。
つまり、僕らは、なぜドラマや音楽や絵を見るのか、と言えば、非言語コミュニケーションによって、感情を動かされたいという欲望を持っているのだ、と言えるんです。
感情が動かされるのを楽しいと感じているということになります。
つまり、エンターテイメントとは、そのひとの、感情を動かすことができて、初めてその役割を果たすということになるんですね。
だから、エンターテイメントは、言語だけでなく、非言語コミュニケーションも使って、お客の感情を動かそうしているんです。
それに対して、非言語コミュニケーションの役割は、大きいと言えるんですね。
それがわかれば、なぜドラマにBGMがあるのか、その役割の大きさもわかるわけです。音楽という非言語コミュニケーションによって、感情を動かそうとしているのが理解できます。
であれば、人間は、他人を見るとき、その言語を聞くより、言葉以外の部分をたくさん見ているんだろうということも推察できます。
だから、ひとりの人間と相対した時、その人間が自分に対してどういう感情を持っているのか、雰囲気でわかってしまうんですね。
そう。雰囲気とは、非言語コミュニケーションなんですよ。
女性はそういうのうまいですよね。雰囲気で悟らせる・・・そういうの、よくやっていますよね(笑)。
言葉にしなくてもわかる・・・そのあたりが、感知できるのが、経験のある大人なんだと、思いますね。
非言語コミュニケーションというくくりで考えると、それが、実はとても重要なことだ、ということがわかりましたね。
音楽、美術だけでなく、非言語コミュニケーションというものは、膨大にあります。そして、非言語コミュニケーションがいかに重要かもわかってきます。
例えば、夫婦のいい形・・・言葉をちょっといっただけで、
「ああ、あれね」
的につながりあえる。あれも、非言語コミュニケーションがお互い理解できているから、言葉にしなくても、わかりあえる、ということなんですね。
僕は「リアル・ニュータイプ理論」で、しあわせとは、つながること、と言い切っていますが、
そういう意味で言うと、非言語コミュニケーションでつながりあうことは、非常にレベルの高いしあわせを獲得する、ということが言えると思います。
つまり、自分の非言語コミュニケーション能力をシビアに高めておけば、しあわせ獲得に有用だ、ということが言えるわけです。
相手の雰囲気を察したり、こちらの気持ちを言葉にせず、伝えること。
この能力をシビアに鍛えるためには、それは、経験を高めることだと、思いますけど、ドラマなんかで演技力を見極められるようになることも、有用だと思いますね。
何も言わなくても、表情で伝わる。いや、何も言わないほうが、何倍も伝わるんです。
だから、男性大河ファンは、演技力を欲するんですね。言葉ではなく、顔の表情や雰囲気で表現するほうが、何倍も感情が伝わるんです。
それに対して、女性は、男性主人公の言葉を、聞きたいから、女性大河では、登場人物がセリフで、表現するんですね。
なるほどねー。
まあ、少し脱線しましたが、非言語コミュニケーションが、人生に有用なことがよくわかりました。
他人とのコミュニケーションに、非言語コミュニケーションを意識して使うことをオススメします。
より、多くのことが、相手に伝わると思います。
そういう意味では、おしゃれも、非言語コミュニケーションだね。
非言語コミュニケーション。意識して、大切にすることにします。
大切なことは、言語コミュニケーションより、非言語コミュニケーションの方が、より多くのことを伝えられる、ということですね。
それを今回の結論としましょう。
うーむ。なんか、いろいろなことが、つながった、今回の論考になりました。
音楽の話は、どこいったの?って感じですが(笑)。
なんか、いろいろなモノの見方が、変わったような気がしますね。
まあ、しぐさとか、大事ってことですよ。そういうのに、気をつけることにしますかねー。
ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。
また、次回、お会いしましょう。
ではでは。