このところ、平清盛や、それに関連して織田信長のことばかり、書いていたので、
たまには、気分を変えて、あまり考えて来なかったひとについて、考えてみたいと思います。
徳川家康さんのことについてですー。
いやあ、3英傑の中でも、一番やぼったい感じがして、どうもとっつき難い・・・。
というのも、どうも、若い頃から、
「秀頼を殺した悪い奴」
的な刷り込みを受けてきたおかげで、どーも、家康さんというのは、腹黒いタヌキおやじに見えてしまうんですねー。
まあ、よろしくありませんが、やはり、歴史を見る場合は、そういう個人的思いというのは、こっちに置いておかないといけませんねー。
僕のイギリス人の友人は、徳川家康のことを、
「260年のミラクルピースを成し遂げた世界的英雄」
という言い方をします。
確かに、そうなんだよね。
まあ、僕なんかは、子供の頃は、
「自分の家のためだけに、日本全体を島国根性人間だらけにした、自分勝手な人間」
という風に思い込んでいましたから、まあ、いろいろな見方があると思いますが、
でも、大人になって思うのは、
「信長、秀吉、と続いてきた政治課題「日本の平和」を最後に達成した人間なんだな」
ということです。
「日本を平和にしてやろう」
この政治課題に対する思いを最初に抱いて実行したのは、信長です。
彼は良いところまで行った。
ただ、信長は、日本のタブーである天皇に、ある意味、手を伸ばしてしまったことが、明智光秀に誤解を受け、
「信長は将来天皇家を廃止するおつもりだ。これは身を挺して天皇家をお守りせねば・・・」
という思いにさせてしまったことが、あの本能寺につながってしまったわけです。
だって、奥さんにも、部下にもやさしかった光秀が、結果、奥さんを殺し、部下を路頭に迷わせたわけですからね。
つまり、それより最も大事な物を守ったということになる。
足利義昭に命を受けたから、なんて人もいますが、光秀は、信長を選んで、一度義昭を切っているわけですから、
光秀にとって、義昭とは、その程度の人物だったわけです。
だから、奥さんより、部下より大事なモノ・・・それこそ、天皇しかなかったわけです。
さて、信長のやり方を最も熟知していた秀吉が、次に立ち、「日本を平和にしてやろう」という政治課題に立ち向かったわけです。
実際、彼は日本を平定する。
彼は関白となるわけですが、これって、信長が殺された理由を秀吉は気づいていたから、じゃないでしょうか。
関白というのは、天皇の下で、あくまで活動するということを示しているわけですから、信長が天皇に手をだしたことで殺されたことを知っていて、
「わたしは、あくまで天皇の下で、「日本の平和化」に邁進します」
そういう意志を体現したと考えられるんですね。
つまり、天皇制がなぜ今日まで続いてきたかと言えば、天皇に手を出したモノは、即刻殺されてしまうからですよ。
天皇を信奉するサムライ達によって。
明智光秀のように、自分はもちろん、奥さんも部下のことも投げ打って、天皇に手を出した者を排除してしまうからです。
そういう動きになるからこそ、皆、天皇に手を出さなかった・・・そう見るべきでしょうね。
さて、そんな、一見うまくやったように見える秀吉も、大失敗します。
「日本を平和にしよう」
という掛け声の元、ある意味、平和運動を進めた秀吉でしたが、唐入りということを始めてしまうんですね。
まあ、当初は、普通に、
「領地が増えるわ」
と喜んでいた諸侯らしいですけど、海外計略は、そう簡単なものじゃないと途中で気づくわけです。
ま、スペインやポルトガルの海外計略を真似しようとしたんでしょうけど、発想はいいとして、
彼らがどうやって成功をしているかの研究が足りなかったと見るべきでしょうねー。
スペインがフィリピンを征服したのが、1571年ですから、まあ、ある意味、同時代の話で、
秀吉は、その潮流に乗っていたと言える。だから、「唐入り」というのは、
東アジアの激動の時代の中のひとつの風景であって、
秀吉だけが、馬鹿だったとか、そういうわけではないんです。
特に、当時、最盛期を迎えていたスペインの絶対王フェリペ2世に、秀吉は書簡を与えていますから、
彼はフェリペ2世をライバル視していたわけです。
だからこその、唐入りということで、スペインと争って他国計略に出た、という方が正しい。
さらに、戦争を辞めてしまったら、各大名家に不満が溜まるということも恐れたのだと思います。
雰囲気を見るに敏な秀吉のことですから、
「平和になると恩賞に預かる場はない」
という大名家達の雰囲気も察したのかもしれません。
まあ、それがある意味、秀吉の首を締めてしまうわけですから、勝負のあがりどころを見極めるのは、難しいということになりますねー。
無論、朝鮮攻略は失敗に帰し、日本国内は厭戦気分の真っ只中、秀吉は死にます。
「日本国内は平和にする」
という政治課題は達成したものの、戦争を辞めなかったことが、秀吉及び豊臣家の大きな傷になったんです。
さて、こういう経緯があっての家康登場なんですね。
その経緯を観てきた家康は、
「戦争を二度と起こさない平和国家作り」
という正義を掲げて(もちろん心の中で、ですけどね)、その後の行動に移るんですね。
秀吉が亡くなったと知るや、その正義の為に邁進する。
まあ、よく大河ドラマなんかでは、虎のこころを隠していた家康が、その本心をさらけ出した的に描かれるんですけど、
ここが日本人が嫌いなところなわけですよ。
まあ、二枚舌的な家康のあり方、ですよね。
でも、大人になって社会で仕事をした経験から言えば、
「この仕事は俺にしか出来ない。だから、俺がやらなければ!」
と自負を持つのは当然のことなんですね。
自他共に、それを認めているからこそ、その職に就くことが出来る。
いわば、この時の家康は、
「俺でなくて、誰が、日本の指導者になれるのだ!」
という自負が普通にあったと考えられるわけです。
だからこそ、自信を持って、行動を開始した・・・それが秀吉亡き後の家康の行動なんです。
そこを理解しないと、家康はタヌキおやじ、二枚舌野郎だ、という、ある意味、悪魔視してしまうことになるんですね。
さて、今回は、ここまで、ということで、家康については、また、次回に続けて書いていきましょう。
ではでは。
たまには、気分を変えて、あまり考えて来なかったひとについて、考えてみたいと思います。
徳川家康さんのことについてですー。
いやあ、3英傑の中でも、一番やぼったい感じがして、どうもとっつき難い・・・。
というのも、どうも、若い頃から、
「秀頼を殺した悪い奴」
的な刷り込みを受けてきたおかげで、どーも、家康さんというのは、腹黒いタヌキおやじに見えてしまうんですねー。
まあ、よろしくありませんが、やはり、歴史を見る場合は、そういう個人的思いというのは、こっちに置いておかないといけませんねー。
僕のイギリス人の友人は、徳川家康のことを、
「260年のミラクルピースを成し遂げた世界的英雄」
という言い方をします。
確かに、そうなんだよね。
まあ、僕なんかは、子供の頃は、
「自分の家のためだけに、日本全体を島国根性人間だらけにした、自分勝手な人間」
という風に思い込んでいましたから、まあ、いろいろな見方があると思いますが、
でも、大人になって思うのは、
「信長、秀吉、と続いてきた政治課題「日本の平和」を最後に達成した人間なんだな」
ということです。
「日本を平和にしてやろう」
この政治課題に対する思いを最初に抱いて実行したのは、信長です。
彼は良いところまで行った。
ただ、信長は、日本のタブーである天皇に、ある意味、手を伸ばしてしまったことが、明智光秀に誤解を受け、
「信長は将来天皇家を廃止するおつもりだ。これは身を挺して天皇家をお守りせねば・・・」
という思いにさせてしまったことが、あの本能寺につながってしまったわけです。
だって、奥さんにも、部下にもやさしかった光秀が、結果、奥さんを殺し、部下を路頭に迷わせたわけですからね。
つまり、それより最も大事な物を守ったということになる。
足利義昭に命を受けたから、なんて人もいますが、光秀は、信長を選んで、一度義昭を切っているわけですから、
光秀にとって、義昭とは、その程度の人物だったわけです。
だから、奥さんより、部下より大事なモノ・・・それこそ、天皇しかなかったわけです。
さて、信長のやり方を最も熟知していた秀吉が、次に立ち、「日本を平和にしてやろう」という政治課題に立ち向かったわけです。
実際、彼は日本を平定する。
彼は関白となるわけですが、これって、信長が殺された理由を秀吉は気づいていたから、じゃないでしょうか。
関白というのは、天皇の下で、あくまで活動するということを示しているわけですから、信長が天皇に手をだしたことで殺されたことを知っていて、
「わたしは、あくまで天皇の下で、「日本の平和化」に邁進します」
そういう意志を体現したと考えられるんですね。
つまり、天皇制がなぜ今日まで続いてきたかと言えば、天皇に手を出したモノは、即刻殺されてしまうからですよ。
天皇を信奉するサムライ達によって。
明智光秀のように、自分はもちろん、奥さんも部下のことも投げ打って、天皇に手を出した者を排除してしまうからです。
そういう動きになるからこそ、皆、天皇に手を出さなかった・・・そう見るべきでしょうね。
さて、そんな、一見うまくやったように見える秀吉も、大失敗します。
「日本を平和にしよう」
という掛け声の元、ある意味、平和運動を進めた秀吉でしたが、唐入りということを始めてしまうんですね。
まあ、当初は、普通に、
「領地が増えるわ」
と喜んでいた諸侯らしいですけど、海外計略は、そう簡単なものじゃないと途中で気づくわけです。
ま、スペインやポルトガルの海外計略を真似しようとしたんでしょうけど、発想はいいとして、
彼らがどうやって成功をしているかの研究が足りなかったと見るべきでしょうねー。
スペインがフィリピンを征服したのが、1571年ですから、まあ、ある意味、同時代の話で、
秀吉は、その潮流に乗っていたと言える。だから、「唐入り」というのは、
東アジアの激動の時代の中のひとつの風景であって、
秀吉だけが、馬鹿だったとか、そういうわけではないんです。
特に、当時、最盛期を迎えていたスペインの絶対王フェリペ2世に、秀吉は書簡を与えていますから、
彼はフェリペ2世をライバル視していたわけです。
だからこその、唐入りということで、スペインと争って他国計略に出た、という方が正しい。
さらに、戦争を辞めてしまったら、各大名家に不満が溜まるということも恐れたのだと思います。
雰囲気を見るに敏な秀吉のことですから、
「平和になると恩賞に預かる場はない」
という大名家達の雰囲気も察したのかもしれません。
まあ、それがある意味、秀吉の首を締めてしまうわけですから、勝負のあがりどころを見極めるのは、難しいということになりますねー。
無論、朝鮮攻略は失敗に帰し、日本国内は厭戦気分の真っ只中、秀吉は死にます。
「日本国内は平和にする」
という政治課題は達成したものの、戦争を辞めなかったことが、秀吉及び豊臣家の大きな傷になったんです。
さて、こういう経緯があっての家康登場なんですね。
その経緯を観てきた家康は、
「戦争を二度と起こさない平和国家作り」
という正義を掲げて(もちろん心の中で、ですけどね)、その後の行動に移るんですね。
秀吉が亡くなったと知るや、その正義の為に邁進する。
まあ、よく大河ドラマなんかでは、虎のこころを隠していた家康が、その本心をさらけ出した的に描かれるんですけど、
ここが日本人が嫌いなところなわけですよ。
まあ、二枚舌的な家康のあり方、ですよね。
でも、大人になって社会で仕事をした経験から言えば、
「この仕事は俺にしか出来ない。だから、俺がやらなければ!」
と自負を持つのは当然のことなんですね。
自他共に、それを認めているからこそ、その職に就くことが出来る。
いわば、この時の家康は、
「俺でなくて、誰が、日本の指導者になれるのだ!」
という自負が普通にあったと考えられるわけです。
だからこそ、自信を持って、行動を開始した・・・それが秀吉亡き後の家康の行動なんです。
そこを理解しないと、家康はタヌキおやじ、二枚舌野郎だ、という、ある意味、悪魔視してしまうことになるんですね。
さて、今回は、ここまで、ということで、家康については、また、次回に続けて書いていきましょう。
ではでは。