世界に一つだけの姥花日記

貴方は貴方らしく私は私らしく、世界にただ一つだけのきれいな花を一生懸命咲かせましょう。
シニア主婦の平凡な日記です。

原爆の日

2020年08月06日 | 家族

ブログ夏休中ではありますが今日は原爆の日、どうしても書きたくペンをとりました。

「75年は草木も生えぬ」と言われた広島!今年はその75年目です。

核兵器のない平和な世界を祈る気持ちのきっかけとして、

父母から聞いた75年前のあの日のことをここに記したいと思います。

2008年8月6日の旧ブログ(プラチナのように輝いて)に記した記事ですが、

転載させていただきます。お読みいただければ幸いです。

 

~2008年8月6日(旧ブログより)~

私達夫婦は生まれも育ちも 広島 です。

今日8月6日は私達、特に私にとっては、重たい重たい忘れられない日です。

私の父母、姉、そして夫、義父、全て 被爆者 です。

私の父母、姉は爆心地から直線距離で3キロ地点の自宅で被爆しました。

私はといえば、その翌年の8月に生まれ、辛うじて胎児被爆も免れました。

父母は悲惨な被爆体験を多くは語ろうとしませんでしたが、裏覚えに覚えている父母の話をここに記します。

平和を考える何かのきっかけになってもらえればという思いで・・・。

      昭和20年8月6日の朝 

広島は晴れわたっていました。

原爆が投下される少し前、空襲警報が解除され、大勢の人々が戸外にでていたそうです。

父は前日が出張であったため、会社の規約で30分出社を遅らせていました。

玄関先で靴のゲートルを巻き上げていたその時、午前8時15分
       
       突然の閃光とドカーンという爆音 !

父は自宅の裏庭にB29が爆弾を投下したと思ったそうです。



一瞬にして家の中はめちゃめちゃになりました。

つぶれることはありませんでしたが、家は傾き、ガラスは粉々に飛び散りました。

実家の2階の部屋に知人夫婦が間借りして住んでいましたが、

奥様は全身に飛び散ったガラス片が刺さり、生死をさまよわれたそうです。

実家の2階の柱にはそのままガラス片がいくつか刺さったままで、

障子や襖と柱は合わさることなく、隙間だらけでした。

このことは私の子供達(父母にとっては孫)もよく覚えています。

父はその後、即会社(爆心地のすぐそばにありました)へ向かいましたが、

その爆弾が新型爆弾の ピカドン であることは当然知りません。
(広島の人は原子爆弾のことをピカドンといいます)

ただ会社へ向かう道すがら、これはただごとではないと気がついたといいます。

道には焼けた丸太のように、沢山の人たちがごろごろと転がっていたそうです。

その中の一人、全身焼けただれた若い女性が、

「○○さん、私は○○課の○○です。父母に知らせてください」と住所を言い、助けを求めました。

あまりの惨さに誰だかわからなかったそうです。

その住所は爆心地、ど真ん中、父はどうすることも出来なかったと悔やんでいました。

会社は跡形もなく、父は無念にもまた着た道を引き返し、

黒い雨を全身に浴びながら、助けを求める人々や転がる死骸をまたぎまたぎ、

母や姉のもとへ急いだそうです。

その 地獄図 は想像にあまりあるものがあります。

幸いに母も姉も怪我ひとつつなく、無事でした。

父が前日出張でなければ、普通通りに出社していたら、父の命は無かったでしょう。
 
父は運の強い人です 


もうひとつの偶然があります。当時 建物疎開 というのがありました。

あらかじめ特定の建物を取り壊し、空襲の折、火災がひろがるのを防ごうという目的で、

多くの主婦、学生、一般市民が強制動員されました。

母の属していた班(路地ごとに区切ってあったようです)は翌日がお当番でした。

お気の毒に8月6日がお当番にあたっていた一本前の筋の方たちは、

全員お亡くなりになったそうです。原爆投下がもう一日後だったら・・・。

 母もまた運の強い人です 

この二つの偶然と強運が重なって、私が今ここにいます 


昭和20年 8月6日、父はその命を強運によって救われました。

しかし12年前、まるでその命をその日にお返しするかのように

8月6日その日に、静かに 他界 しました。享年80歳。

今日は父の 命日 でもあります。合掌。

 

 

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