ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

恐怖は転化する

2018-08-13 08:27:13 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「恐怖」8月7日
 大学生が作る紙面『キャンパる』に、『私の恐怖体験』という記事がありました。大学生が、自分の恐怖体験を答えたものです。列挙してみると、『エアコンからゴキブリが落ちてきた』『1人…また1人…彼氏いない同盟から脱落者』『テスト。まさかの名前書き忘れ』『試験で裏面があったことに気付かず空白で出してしまった』等々のお気楽回答。極めつけは『恐怖というものに遭遇したことがありません』という早大の女子学生の回答。
 もちろん、読者が面白がりそうなウケ狙いや深刻さを避ける今風の若者気質もあるでしょうが、実際、こんなものなのでしょう。還暦を過ぎた私も、改めて記憶を探っても、「恐怖」という言葉に相応しい体験は浮かびません。一番怖かったのは、ハンガリーで数人の男に囲まれパスポートを取られそうになったことぐらいで、命の危険を感じたことはありません。幸せ者です。
 もしこのコーナーを、シリアやアフガニスタン、南スーダンなどで実施したとしたら、もっと深刻な本当に恐怖の体験が並ぶでしょう。そうした紛争国だけでなく、中国や北朝鮮などの独裁国家に暮らす若者に聞いても(本音を語れるとして)、想像を絶する悲惨な状況が語られることでしょう。
 我が国では、台風や自然などの災害やオウム真理教によるテロ、原発事故や日航機墜落事故など、多くの被害者を出した不幸な事件や事故はありましたが、多くの国民が戦後70年、「恐怖」とは無縁の生活を送ることができました。私を含め、「生命の危機」や「無実の拘束」など、物語の中の出来事でした。
 だからなのでしょうか、我が国における平和教育は、戦争時の悲惨な出来事に焦点を当て、「戦争をするとこんな悲惨な目に遭う」ということを強調し、戦争への忌避感を強めることに重点が置かれてきました。「恐怖」に免疫がない国民に疑似恐怖を与え、戦争はダメ→平和は尊いという方向に誘導する、という発想です。
 もし同じことを紛争頻発地で行えば、全く違う結果に至ってしまうと思われます。負けると悲惨→勝たなければならない→軍備増強、あるいは、弱かったから悲惨な目に→もっと強くならなければ、または、我々を悲惨な目に遭わせたのは○○→いつか強くなって○○に復讐してやる、という思考回路にはまっていくような気がします。実際、我が国が原爆を落とした米国に復讐しようとしないのはどうしてかと不思議に感じている外国人は存在しますし、戦争の悲惨さを味わわずに済むように軍備の充実に励む国の方が多いのですから。
 ということは、現在行われている国民が味わった恐怖に焦点を当てた平和教育は、何かのきっかけで、意図とは別に復讐や軍備増強に結びついていく可能性があるということです。そうならないためには、情緒的な反戦平和ではなく、過去の戦争の歴史を冷静に分析し、科学的に戦争を考察して、戦争防止の方策を現実的に考えるという平和教育が求められるのです。
 言論統制や思想統制、事実を報じない報道や歴史の歪曲、仮想敵による挙国一致に結びつく特定の集団へのヘイト、国家の危機を声高に主張することに拠る人権侵害、戦争に向かうこうした兆候を見逃さず、まだ小さな芽のうちに摘み取ることの重要さを理解させる科学的な平和教育を進めてほしいものです。

 

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