ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

青臭くても

2018-03-19 08:00:03 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「学校ではどうする」3月14日
 人生相談欄に、『悪習廃止訴えるのは「変な人」?』と題する相談が寄せられていました。相談者は、『悪習(バレンタインデーの義理チョコ)を廃止し、その分の代金を義援金として寄付している職場があると知り、感銘を受けました。私の会社でも導入を呼びかけたいのですが、「変な人」と見られないでしょうか』と述べています。
 同感です。決してチョコをもらえない僻みではありません。この質問に対し、回答者の漫画家ヤマザキマリ氏は、おかしな習慣という見方には同調しつつも、『「変な人と思われたらどうしよう」という中途半端な惑いがあるのなら、革命家的な資質がないということなので潔くやめるべき』『どんな世界においても自らの発言に惑いが見える人は責められます』と回答なさっています。
 この回答にも納得です。ヤマザキ氏の回答は、同質圧力の強い我が国の集団内で生き抜く知恵だと言えるでしょう。しかし、あまりにも現実的であり、理想とかあるべき姿という視点で見ると、モヤモヤしたものが残ります。
 もし、この相談が、小学校6年生の女子児童から担任教員になされたものだとしたら、どのように対応すべきなのでしょうか。貴重な提言だから、教員が女児に代わり担任のアイデアとして子供たちに呼びかけるという方法が考えられます。確かに波紋のないやり方ですが、女児に「面倒なことは先生にやってもらえばいい」という意識を植え付けてしまうかもしれません。
 かといって、ヤマザキ氏のように、理想を捨て現実に妥協しろという論理を伝えることは、子供に見せたくない社会の汚さを刷り込むようで気が引けます。それでは、反発を恐れず、信じた道を突き進めと励ますのがよいのかといえば、その結果いじめられたり、仲間はずれにされたりすることになれば、女児を傷つけることになります。
 今、学校では道徳教科化が進められ、道徳教育の強化充実が叫ばれています。そこでは、話し合いや考えさせることが強調されますが、道徳は話し合わせ考えさせればその結論がどうなってもよい、というようなものではありません。望ましい尊い価値に目を向けさせるという機能をもたなければなりません。
 つまり、今回の相談を道徳授業としてみるとき、望ましいとされる行動=正しいと考えることはきちんと主張すると、集団で生き抜くために必要な人生智=反発が怖いなら黙ってろの間で、教員はどのような選択をするかという問いかけにもなるのです。
 あなただったらどうしますか。私は、青臭いようでも学校、特に義務教育段階の学校は、まず理想を語る場であってほしいと思っているのですが。

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