ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

灯台下暗し

2013-08-01 08:07:08 | Weblog
「何を今さら」7月29日
 『求められる対話型授業』という見出しの記事が掲載されました。『米国の中学・高校の社会科教師10人が7月、日本経済団体連合会の招きで来日した』ことを報じる記事です。その中に、『「日本ではどんな授業の仕方ですか?私の学校では授業を教師が一方的にやると解雇されます」。ニューヨーク州から来たデボラ・ミンチン教諭の発言に日本の教師は一斉に「えー」と驚きの声を上げた。「日本では大半のがっっこうは「チョーク&トーク」です」都立国際高の宮崎三喜男教諭が苦笑混じりに答えた』という記述がありました。さらに、『対話型授業が求められる内容は少なくない~(中略)~しかし、そのノウハウは日本では蓄積がない』とも書かれてもいるのです。
 腹立たしい限りです。何に怒っているかというと、我が国の中高の社会科教員の怠慢と記事を書かれた三木陽介記者の無知とにです。我が国の中高の社会科教員の授業力の低さについての指摘はその通りです。しかし、それは彼らだけを責めて済むことではありません。国民の教員観が間違っていることも主要な原因だからです。
 教員は自分のもっている「知識」を子供に説明する人であるとする教員観、そこから派生して多くの知識をもっている教員がよい教員という見方が一般的になり、「知識」が豊富なのは難しい大学を出た教員という発想につながり、大学院で学ばせれば(知識を深めれば)よい教員になるという愚策に結びついていったことからも、こうした教員観が定着していることが分かります。そんな中では、授業法を極めようという発想をもちにくいのです。「今度の先生、東大出だって」と喜ぶ保護者がいるうちは、「チョーク&トーク」の授業はなくなりません。
 また、「ノウハウは日本では蓄積がない」とした記者にも、不勉強だという批判をせずにはいられません。我が国には米国に劣ることのない様々な実践とその積み重ねによって作り上げられたノウハウが豊富に存在します。それは、小学校にあります。
 私は、教員時代にはずっと社会科を研究教科としてきました。指導主事になってからも、社会科指導の専門家として研究員や研究生といった社会科指導に熱心に取り組む教員の指導をしてきました。そうした中で、様々な実践を目にしてきました。そこでは、対話型の授業など、当たり前すぎて、話題にもならないくらいでした。それらは、私のような立場だから知ることができたというようなものではなく、研究冊子や公開授業などにより、誰でも知ることができるものです。学校の研究発表会における公開授業は保護者以外の地域の住民にも公開されていますし、研究冊子は、都道府県の教育センター等に行けば、誰でも閲覧できるようになっています。
 さらに、教育関係コーナーを設けている少し大きめの書店に行けば、「チョーク&トーク」ではない授業法について書かれた教員向けの書籍が山積みになっています。記者はその程度の労も惜しんでこの記事を書いたのでしょうか。
 中高の社会科教員は、外国の教員に教わるまでもなく、小学校の社会科教員の実践に学べばよいのです。

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