ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

自分が可愛いのは人の性だが、声をあげる勇気をもて

2024-02-08 09:05:34 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「どこかで泣いている人が…」2月4日
 『性暴力 何十年も消えぬ傷』という見出しの特集記事が掲載されました。30年の歳月を経て、小学校の担任教員から受けた性暴力の記憶に苦しめられてきた平野利枝氏を取り上げた記事です。
 『卒業して会うことがなくなっても、私は元担任に「支配」され続けてきました』。今40代の平野氏の言葉です。『高校2年の春、授業中に突然、喉が絞まったような感覚に襲われた。呼吸ができずパニックになり、教室を飛び出した(略)息苦しく、体のあちこちが刺されたように痛かった。県内外の病院を転々とした。自律神経失調症、神経症、起立性調節障害-さまざまな病名で、山ほど薬を処方されたが、症状は一向に改善しなかった(略)高校は不登校になり、大学は1週間も通えないまま中退した』という苦しみを味わってきた末の言葉なのです。本当に痛ましいことです。同じ教員として、申し訳なさを感じます。
 今までも、私はこのブログで教員による性加害について何回か触れてきました。今回、改めてこの記事を取り上げたのは、ある「新しい」要素が書かれていたからです。
 平野氏が通った小学校で、同じ6年生の別のクラスの担任だった大原康彦氏の存在です。平野氏は大原氏を訪ね、『先生は、私たちのクラスであったことを知っていますか』と尋ねるのです。何も知らなかった大原氏は、『つらい思いをしたね』と平野氏の話を受けとめ、その後平野氏とともに、元担任の責任を追及し、学校での性暴力防止と被害者を守る市民団体を立ち上げるのです。
 教員の中にこうした人物がいたことに救いを感じました。ただ、大沢氏の場合は本当に他の学級の性暴力に気付かなかったわけですが、実際には「何となくおかしい」「ヘンな雰囲気だ」と感じながらも、他の教員のこと、他の学級のことには踏み込まないのが教員同士のマナーだというような意識で、結果として見てみぬふりをしている教員は少なからずいるのではないかと思うのです。
 特に「学級王国」と言われる小学校ではそうした危険性が高いと考えます。私も、同学年のある男性教員の学級で体罰が横行していたことを薄々察していながら、あえて問題的しなかった苦い経験があります。初めは、怒鳴り声が聞こえてくる程度で、体罰の事実は把握していませんでしたが、もう少しアンテナを高くしていれば気付けたはずです。やがて、体罰の噂が流れてきましたが、本当にひどい体罰があるのならば子供たちが訴えてくるだろうと考え、何もしませんでした。
 今思うと、このとき既に、私の中に教員同士の人間関係が不味くなっても嫌だ、相手は先輩だし、というような自分を守る思いが芽生えていたことは否定できません。要するに自分が可愛かったのです。
 そのうち、体罰が行われているという確かな情報を入手しました。実際に、目撃したこともありました。でも、子供たちからは苦情は一切出ていませんでした。その担任が怖かったからなのですが、私は、「子供たちは納得しているんだ。案外子供と○○先生とは信頼関係ができているのかもしれない」と考え、やはり何もしませんでした。
 それでも、学年主任に話しましたが、彼女も「私の知っているけど…」と言葉を濁し、管理職に言うことはありませんでした。彼女は職員団体を引っ張る存在で、管理職とは対立関係にあったことも影響していたのかもしれません。仲間を売ることはできない、と考えたとしても不自然ではありません。私は、学年主任に話したことで、責任を果たしたようなさっぱりした気分になり、何もしない状態に慣れていきました。
 弁解になりますが、当時の私は20代半ば、正直なところ体罰がどれくらい子供の心を傷つけるか、よく分かっていない未熟者でした。私のケースは体罰ですが、性暴力の場合も同じです。告発してもし間違っていたら、と考えると声を上げることは躊躇われます。 しかし、教員は子供を守ることこそ使命です。おかしいと感じたら声を上げる、本人に確かめる、子供に話を聴く、他の教員に相談する、できることはあるはずです。自分の学級や部活ではなくても、同じ学校の子供はすべて守るのが教員としての義務です。教員は性暴力の被害者を生まないために声を上げなくてはなりません。第2第3の平野氏を生まないために。

 

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