こ と の 端

散文でロジックを
環境 経済 エネルギー 電気 教育 などの "E" に関するちょっと気になったこと

大 政 奉 還

2013-11-03 08:47:53 | Weblog
一人称

ではじまる主語を多用する形式の言語文化圏では

それが意味する

エゴ

の関与を

逐一

明確化しておかなければ

話し手の意志が

そもそも

相手に

伝わらない

そこで

機会あるごとに

誰の意志であるのかということを

訴える


語られる論理の主体となる成分は

常に

エゴであり

それによって相対化された

他者

との位置関係が

状況の変化に応じて

意識の横滑りを演出する

流れに発生したこの変化を

感知する機会は 稀

気付かぬまま推移し

思いがけないところへと

辿りつく


時には優位性の証明



規定するために

一人称を頻繁に用い

対象のもつ課題を鮮明にすることで

自己の正当性を担保するための道具とする


己の優位性を論理的に主張しようとすれば

相手の非を連ねて

正統化の根拠を示さなければならず

それが

必然的にエゴを意味する

一人称を多用させる原動力となっていく


コギトとは

即ち

エゴの謂いのこと


己が肯定的存在

であることの

合理性の根拠である

主語

を省くことができない言語体系一般には

エゴの関与を必須とする

文法の枠組みができあがっている

相互間の認識に

なんらかの齟齬

が潜んでいると疑われるとき

主体の正統化

という目論見による意識のすり替え

が起きていることを想定しておく必要というものが

あるだろう


領土や宗教宗派の問題のすべてには

言語文化そのものにある歴史的背景

を考慮しなければならない

エゴの関与



それによる相対化された他者

との相関の上に

論理が生み出す序列の差

が形成されている


領土の拡大による主権の拡張に目覚めた国は

自らの正当性を合理化する目的で

他者の不合理性に敢えて言及し

根拠の有無にかかわらず

権利と権益の確保を

思慮と分別とを一斉に捨て去って

やみくもに

目指すようになる

ところが

主語を意図的に省く機能をもつ日本語の文化圏では

エゴを絶対視することを

文化自体が遠ざけるようになっており

曖昧な表現に徹することで

互いに忖度し合うための

時間的余地を確保する

という麗しい関係が築かれていく


日本語が曖昧な言語であるからこそ

話し手の意図を

聞き手は慎重に探らなければならず

意味の振れ幅を可能な限り最大化しつつ

好意的で肯定的な解釈を

相互に与えあう文化を培ってきた

日本に特有な風土と文化が

この国にだけ育まれてきたのには

おそらく

想像を超えた

濃厚な思慮の関与

がはたらいている


自己主張をしなければ意図を伝えることができない

という制限を持つ一人称の主語に拘るあらゆる国では

己を正当化しようとする目的で

必然的に

他者の劣位性を際立たせる方法へと突っ走る

それはときにヒステリックにさえ見えるほどなのだ


日本の文化の底流には

支配階級によって育まれてきた

武士道

というものが歴史的に横たわっている

そこには優れて高い矜持が保たれており

たとえ空腹であったとしても

満ち足りた顔で

楊枝をくわえて

悠然としてみせる

という他者からの配慮を遠ざけさせようとする

気高い姿が

当時から

肯定的に

伝え残されてきた


この姿勢は

己の持ちモノではないものを

敢えて欲しがらない

という

欲求を抑制した武士の姿を



とする認識を育み

抑制を効かせた振る舞いをするよう

武士階級に統一させる動因の一つとなった


その武士道の精神を内包する日本語の文化圏では

本来の従属物ではない領土と海域などを

己の国の不足を満たすという目的で

強引にわが物とする主張に転じることほど

恥ずかしいことはない

という強い思いが

言わず語らずの裡に支配する文化を形成させた


武士道とは

即ち

恥の文化であるからだ


東アジアの言語文化圏で

主語を省く能力を持つ言語は

日本語以外に

存在しない

このことが

国家のエゴを押し通すことで

周辺諸国からの安定的平和を

損なわせてきた原動力となっている


英語文化圏では

とりわけ

主語を重要視する

主体の意志が明瞭でなければ

相互間のコミュニケーションそのものが

成り立たない

という言語構造になっている


感謝する時の謙虚なこころに

エゴは宿れない

その事実が

英語と雖も

主語を省かせた

Thank you

ということばに

主語はない


だが

己の主張を訴えるためには

一人称の主語は不可欠のもの

日本語では己の主張を訴える前に

全体の利益を考慮した発言のやりとり

へと発展させていく機会を設けるために

時間の余裕を

意図的に確保しようとすることがよくある


日本の政治が戦後急速に劣化したというのは

エゴを前提とする欧米型の民主主義に

日本文化が汚染されてしまったからなのだ

国会でおこなわれているその議論の

何と不毛で

浅薄なやりとりであることか


敗戦という結末が

手本とすべきではないエゴの文化を

日本の風土に植え付けさせた


調整型の政治形態をとってきたこの日本で

論理による合理性の証明を前提とした

主語を絶対視するかけひきが横行するようになり

その変化の分だけ

日本の風土から

麗しい資質が

急速に

希釈されるようになっていった


憲法を巡る国会での圧力の変化を

皇后によるある一文が

たちまち

卑猥な認識であることを

抑制的に喝破したその事実にこそ

日本という国家に本来与えられている

これから果たすべき重要な役割のもつ本当の意味が

十全に

備わっている

ということを嗅ぎ取る嗅覚を

国民は

これから活かすよう努めなければならない

感性の覚醒を促すには

知識の無意味な関与を

できる限り排除しなければならない

それは教育が今後果たすべき義務なのだ


日本語の文化と天皇制とは

切り離して考えることが

そもそも

できない


統治する権能を

武力で補佐してきた数々の闘争の歴史が

連綿たる武家社会を形成させ

下っては

軍部による意思決定の根拠とされるほどまでに

なっていったのだった

その延長線上に

被曝体験を経た後の

敗戦の受諾

という決断があったのであり

今日の

アメリカ型民主主義体制の基盤が

そのときに作られた


主語を多用する論理を尊ぶようになった国会は

大いに劣化するようになり

政策判断を誤り続けているだけでなく

自らの姿を

きちんと見る

ことすら

できなくなっている

自覚のない尊大さというものが

有益な結果を導く

とする歴史的根拠は

存在しない


これから

一体

日本はどこへゆこうとしているのだろうか

消費増税の果てにやってくる

より深刻なデフレの相を経て

その行く末に

最終手段としての

民意に基づくあらたなる大政奉還が

選択肢としてもし用意されているのだとするならば

日本語とその固有の文化

に基づく恒久平和の実現

という望ましい状態は

すべての生命にとって

極めて

身近なものとなる

ことだろう
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